ヒト初期胚でのEATの役割

1999年 記載

EATはヒト初期胚の分化ならびに

発生の維持に必要であるか?

ヒト胚細胞由来のがんである胎児性がんは,精巣や卵巣にできます.Eさんの精巣に生じた胎児性がんより,細胞株を私のボスが樹立しました.細胞株の名前は,研究所の名前と胚細胞由来であること,3番目の細胞であることより,NCR-G3と名付けられました.この細胞は,どんな細胞にもなれます.全能性を有している細胞です.神経系,筋肉系,胎盤,間葉系,上皮系とさまざまな細胞になれます.がん細胞ではありますが胚細胞由来であることより,ヒトの初期胚のモデルとして考えています.ちょうど,有名なマウスの胎児性がん細胞であるF9やP19細胞が,マウスの初期胚のモデルとして利用され,多くの貴重な発見がなされたように,ヒトの初期胚のモデルとして使ってやろうと考えたわけです.このことは重要な意味があります.ヒトの初期胚は倫理的に研究対象として使用することは許されないからです.マウスとヒトが全く同様であるなら問題ないのですがヒト独特の分子機構が存在している可能性は否定できません.その意味でもヒトEC細胞を研究し,その分子機構を解明することは重要です.

このヒト胎児性がん細胞をボスより与えられたとき,私の研究テーマとして面白いと思ったことは3つです.1)胎児性がん細胞が分化する分子機構の解明,2)胎児性がん細胞が多分化能を有している機構の解明,3)胎児性がん細胞のがん化機構の解明,です.1と2は胎児性がん細胞を初期胚の分化のモデルとして考えた場合にNCR-G3細胞が いろいろな分子(DNAにせよ,RNAにせよ,蛋白にせよ,脂質,糖にせよ)を提供してくれるソースになると考えたわけです.これら3つに関して,ひとつひとつ詳細に考えていきます。

ひとつめは胎児性がん細胞の分化機構を解明することです.ヒトの精巣由来の胎児性がんは,リンパ節や肺に転移した後に分化してしまうことがあります.分化して軟骨や気管支や神経や骨や歯や大腸や胃や皮膚になってしまいます.このような三胚葉系の細胞のいずれも出現してしまい,それらが分化しきった形質を有している場合,奇形腫と呼びます.転移した胎児性がん細胞が,奇形腫になり治癒します.自分が経験した患者さんの精巣由来胎児性がんはリンパ節に転移して,分化して奇形腫になって治癒しました.いろいろな系統に分化しますがその分化過程には,必要不可欠な共通な遺伝子が存在しているはずで,その遺伝子を釣ってきてやろうと思いました.

ふたつめは胎児性がん細胞が受精卵のようにさまざまな系統に分化できるわけで,その多分化能を有しているゲノム側の問題を解決してやりたいと思ったわけです.胎児性がん細胞は,どんなに培養しても多分化能を失う様子はありません.培養しているうちに上皮性のがん細胞株になったり,間葉系の肉腫細胞株になったり,血液細胞株になってしまったり,神経系の腫瘍になってくれたりしたことはありません.胎児性がん細胞は多分化能を有したままであり,この細胞に対してモノクローナル抗体を作成するとその抗体が認識する抗原は,精粗細胞や卵母細胞にのみに存在している抗体が取れることから分かるようにEC細胞は胚細胞と共通の分子を有しているし,機能的にも似ています.しまつです.この多分化能は,分化誘導剤に対する遺伝子の発現様式に依存していますが,その遺伝子の発現様式は細胞のクロマチンやメチル化状態により決まります.その胎児性がん細胞または受精卵のクロマチンやメチル化状態を知りたいのです.

三つ目は,がん化の機構ですが,これは大事ではありますが,とっかかりがないので放置してあります.もちろん,そのアプローチの仕方は分かっていますが今のところは,手間がかかりすぎることと上記のふたつにより興味があることより,研究対象とはしていません.

8年前に始めたそのプロジェクトは,胎児性がん細胞が分化するのに必要な遺伝子を同定してやろうということです.とれてきた遺伝子に対して名前を付けました.ヒト胎児性がん細胞の分化初期に単離したので,英語の頭文字からEATと名付けました.米国のグループが同じ分子をmcl-1と名付けましたが,呼びやすいこともあり自分が名前をつけたこともあり,私はEATという名前を用いています.もちろん,名前がふたつあるのは混乱を招きますが,そのようなことは他の遺伝子では多くあり,慶應義塾で単離した遺伝子として有名にしたいという欲求からと自分達が単離した遺伝子として,EATと呼び,Genbankに登録しました.このことは,私にとって科学を推進するいい意味での動機づけになっています.

詳細にいえば,ヒト胎児性がん細胞をレチノイン酸処理し,8時間後に誘導されてくる遺伝子を単離しました.3つの遺伝子が単離され,そのうちのひとつがEATだったのです.ヒトだけでなくマウスのEATも釣ってきました.その一次構造から,細胞死またはアポトーシスを抑制するbcl-2ファミリーの分子であることがわかりました.ねらいは転写因子でした.あらゆる系統の分化初期に必要な遺伝子をつかまえたかったのですが,捕れてきたのはアポトーシスを抑制するEATです.

EATの発現のパターンで最も知りたいのはこの遺伝子が胚発生の初期でどうかということです.受精前の卵細胞,受精卵,2細胞期,4細胞期,8細胞期,桑実胚,胚盤胞です.嬉しいことにマウスでこれらの細胞でEATが4細胞期と8細胞期にピークを迎えるEAT蛋白質の発現パターンを示しました.受精後からEAT蛋白質の量は増大しているのも魅力です.これらの発現に関する情報は「当たり」の遺伝子を掴んだ可能性があることを示してます.

次に行わなくてはいけないことは,この遺伝子の働きを初期胚か胎児性がん細胞でなくしてやり,発生または分化がいかなくなり細胞が死んでしまうかどうかを検討することです.方法は2通りで,ひとつは遺伝子の破壊で,もうひとつはアンチセンス・オリゴヌクレオチドを用いてmRNAを抑制することです.いずれも現在研究を進めているところです.実はコールド・スプリング・ハーバー・ジンポジウムでこの遺伝子を破壊したマウスの形質についての米国の著名なグループから発表がありました.驚くべきことに,胎児致死であり,着床以前にマウス胚が生存できません.4から8細胞期で既に発生に異常が生じているのです.本当かどうかは分かりませんが,EATが初期胚で機能しているようです.

この研究の出発点となった胎児性がん細胞NCR-G3の由来となったEさんは,もうお亡くなりになりました.病理解剖も私の親しい友人である病理医が行い,全身にがんが転移したことも明らかになりました.この細胞との最初の出逢いは、樹立者であるボスとの出逢いでもあります。かつて子宮頸癌であるHela細胞が科学に貢献したように「EATはヒト初期胚の分化ならびに発生の維持に必要不可欠である」仮説の証明に役立つことで,NCR-G3が科学に貢献していることを強調したいと思います.