クローン人間

1999年 記載

クローン人間

「クローン羊」の成功から「クローン人間」の議論が盛んになり,マスコミを騒がせています.この議論が始まったことは素晴らしいことだと思います.なぜなら,その「クローン」の意味を正確に理解し,そしてその意義または利用についてやみくもに賛成したり,意味もなく反対することが議論することでなくなるものと予想されます.

議論の主な点は「クローン人間を作製することは許容されるか」ということだと思います.この議論はいろいろされていますが,私は「自分のクローンができるとしたらどんなのが欲しいのか」の方が興味があります.というのも私には,「クローン羊と同じ手法で,自分のクローン人間を作製して欲しい」というだけでは全く興味を引かないからです.クローン羊と同じ方法でできたクローン人間では姿かたちは本人と一緒になりますが,意識という点では全く別の個体となってしまいます.簡単に言えば今のクローン人間は,年齢の異なる一卵性双生児というふうにとらえると分かりやすいのではないかと私は考えています.

意識が別では,姿かたちが一緒でもある意味では全くの他人です.やはり,クローンと言うからには,意識が一緒でなくてはいけません.たとえば,相手方のクローンがおいしいものを食べれば,自分も満足できなければいけませんし,自分が悲しみを感じているときは相手方のクローンも同じ感情を持って欲しいと言うことです.個々のヒトの同一性はやはりゲノム上にのっている遺伝情報に依存しているのではなく,そのヒトの意識が共有できるということが最も大切な気がします.もちろん,意識が共有できても意識は間違いなく肉体に影響されますから姿かたちは同一の方がよいでしょうし,その意識を司る脳味噌の構造もゲノムで支配されている通りに同一で会った方がよいでしょう.

コンピュウター上に新たに意識をつくることは可能かもしれないという考えを聞いたことがあります.一歩進んで,意識だけならその個人と同一のものをコンピュウター上に再現できるという夢物語があります.意識のクローンがコンピュウターにできるわけです.これはあまり私は嬉しくありません.自分自身がコンピュウターの中にいることを考えると嬉しくないと言うことです.ネットワークを介して世界中を駆けめぐることができてもいやです.計算能力が高いとほめられても,当然嬉しくありません.

完璧なクローン人間を考えると,意識の同一性を満たした上で同じ遺伝子情報の上で形成される肉体ならびに精神(脳のネットワーク構造)を持ち得るようなクローンこそが私が欲しいものです.今のクローン羊の話から,自分のクローン人間を作ってくれと言うヒトがいるのには,その方の無知にあきれるばかりです.もちろん,姿かたちが同じであれば良いと言うのなら別ですが.