この記事には『オデュッセイア』のネタバレだけでなく、『TENET』『オッペンハイマー』のあらすじにも触れています。鑑賞後に読むことをおすすめします。
また、映画内の台詞の引用は英語のスクリプト録から訳したものや、鑑賞時の記憶に頼ったものを書いてあるため、映画の字幕と同一ではありません。予めご了承ください。
はじめに
『オデュッセイア』の物語には、以前のクリストファー・ノーラン作品を想起させる要素がいくつかあった。とりわけ直近の『TENET』と『オッペンハイマー』である。まずは、この二本の映画で私が見出した共通点について説明しておきたい(ネタバレあり)。
まず『TENET』は、ジョン・デヴィッド・ワシントン演じる名無しの主人公が、何らかの政府工作員の立場から急にTENETという組織にスカウトされ、世界を救うための主人公となる。彼が立ち向かう相手は国際的武器商人のセイター(ケネス・ブラナー演)だが、この人物は自身の余命が短いことを悟り、危険な時間逆行装置「アルゴリズム」を手に入れて、世界と心中しようとしているのである。で、件の装置は未来のある天才科学者が発明したものなのだが、その危険性を自覚した科学者本人の手で9つに分解され、過去の世界各地に隠された。セイターはそれらをひそかに集めて作動させようとするが、主人公たちに阻まれる──というのが筋である。
『TENET』における「アルゴリズム」の発明者像は、『オッペンハイマー』の主役J・ロバート・オッペンハイマーその人と重なる。オッペンハイマーは、世界を破壊可能な武器=核兵器を開発し(『オッペンハイマー』を観たことがあれば、けっして彼一人だけで成し遂げたわけではないのはお分かりだろうが)、その後は水爆開発にも反対、公職追放された人物である。『TENET』の次に制作された映画『オッペンハイマー』は、まさに自分が作ったものによって「世界を変えてしまった」ことに苦悩する男性主人公と、それを理解しない、または理解できない、あるいは理解してやる義理もない人々の思惑が後半の主軸になっている。
人類史を左右するような発明。そしてそれを生み出した者の苦悩。この二つの要素が、一応は二作の共通点である。
そして、『オデュッセイア』でもその要素が引き継がれていて、非現実的クリーチャーが登場しながらもノーランの「科学好き」は一貫しているのが面白いと思ったので、主人公の描かれ方に特に焦点を当てて、分析してみたことを以下に書いてみたい。
セラピーとしての回顧
さて、『オデュッセイア』の男性主人公オデュッセウス(マット・デイモン演)は、オッペンハイマー同様、その後の戦争のやり方を変えてしまった人物とされる。なにせ劇中、「ゼウスの掟」を逆手に取る作戦を考案して勝利したことで、掟が機能しない「なんでもあり」の世界に変えてしまったとの自覚が、丁寧にもオデュッセウス本人の口から説明される。ノーランは、今回は科学者ではなくギリシア神話世界の知将を主役に、やはり「世界を変えてしまった」人間の苦悩を描いたわけである。『オッペンハイマー』では、3時間ある上映時間の内、原爆投下後のオッペンハイマーの苦難におおよそ1時間程度を割いていたが、『オデュッセイア』では、息子テレマコス(トム・ホランド演)側の動向を除けば、ほとんどがオデュッセウスが自身の心の傷となった経験を思い起こし、カリュプソ(シャーリーズ・セロン演)に語るカウンセリングのプロセスである。このカウンセリングで語られる冒険譚こそが、オデュッセウスの苦悩の遍歴であり、それが映画の中心でもある。
オデュッセウスはアテナ(ゼンデイヤ演)から「なぜ家に帰りたくないの?(Why don’t you want to go home?)」と問われたり、セイレーンの歌に本当は帰りたがっていないことを指摘されたりと、彼自身が帰還を望んでいないことが示されている。そして、ついに祖国イタケに帰還したオデュッセウスが、まだ物乞いに扮したまま王妃ペネロペ(アン・ハサウェイ演)に「帰れなかった」理由を語る場面で、重要だったのは彼自身の心であったことを明かす。要するに、もともとは帰りたくない事情があったが、それがカリュプソの元で解消されたことで、彼はイタケに帰り着くことができた。逆に言えば、オデュッセウスには帰りたくない事情があったからこそ、あえて「外の世界」経由で帰途についたのだし、カリュプソの島に行き着かねばならなかったのである。
以上を前提にすると、オデュッセウスとカリュプソの会話は一種のセラピーのプロセスということになる。そして、二人の会話は、オデュッセウスがトロイアを出発してから部下を全員失うまでの冒険譚を、彼自身が思い起こしながら語ることが中心となっている。要するに、カリュプソがカウンセラーで、クライアントはオデュッセウスである。
重要なのは、オデュッセウスがカリュプソに語る物語──異形の者や不思議な力を持った者たちと対決したダーク・ファンタジックな冒険は、すべてオデュッセウス自身がカリュプソに語ったものでしかない、という点である。いわば彼の頭の中の話でしかない(証言できる部下は全員死んでしまったのだから)。オデュッセウスの活躍はメネラオス(ジョン・バーンサル演)の口からも語られているが、それはトロイア戦争中の出来事に限られている。第三者が目撃者として語るので、こちらは物語世界内の現実に起きたことであるが、冒険譚のほうは違う。
そうすると、カリュプソの元で行われる会話(=セラピー)は、いわゆる夢分析セラピー[1]のように、見た夢の内容を語るのに近いのではないかと思える。 心理学(フロイト)によると、無意識下の欲望は、我々の覚醒中は理性によって表出を止められているが、睡眠中は理性の力が弱まり表出しようとする。しかし、我々は自らの欲望に直面することは困難であるため、欲望は姿形を変えて夢の中に現れる、とされる。夢分析セラピーでは、クライエントに夢の内容を語らせ、夢の中で起きたことに対する感情的反応などに基づいて、その夢の意味を解釈する。さらには、序盤でカリュプソの島にいるオデュッセウスが、何度も部下を失った時の悪夢を見ていることが示されている。
私は身内に夢分析を学んだ心理カウンセラーがいて、少しだけ知識があるため紹介してみるが、夢分析セラピーで行われる「治療」とは、夢の内容の分析(カウンセラーとの対話)をとおして、クライアント自身に自分自身を把握させ、抱えている困難の心理的原因を自覚させ、行動や思考を調整するなどの対処法を検討する、というものである。したがって、クリーチャーが出てくる冒険譚パートは、ちょうど心理学における夢のように、オデュッセウスの無意識下に抑圧されていた、戦争中に蓄積された様々な罪悪感が、比喩的に異形の者や魔女との対決という形を取って現れたもの(物語世界内の現実で起きたことではない)、と解釈可能なのである。かつて『インセプション』で、別のものが姿を変えて現れたり、非現実的なことが理屈無用に起こったりする夢の中を映像化したノーランが、心理学上の夢や夢分析セラピーのことを知らないということはないだろうし、このように考えても、さほどこじつけではないと思う。
非常に蛇足ながら冒険譚を夢分析っぽく解釈すると、オデュッセウス一行が船出の後、食糧補給目当てにある村を略奪する様子を観客に見せた後で登場するキルケ(サマンサ・モートン演)は、遠征の過程で略奪する人々への罪悪感が姿を変えたものといえる。キルケが語る兵士への憎しみからして、彼女は兵士に略奪され蹂躙された被害者の恨みの象徴である。ほかの出来事も、オデュッセウスが戦場で経験した罪悪感の再演と考えてみよう。勝ち目のない敵を前に命からがら退却し大勢の部下が命を落としたり、指揮官として数名を捨て石にして残りを生かすことを選択するなどの経験は、普通に考えれば、巨人族の島に上陸したり、渦潮とモンスターの二択を迫られたりしなくとも、トロイアの戦場で何度も経験していておかしくない。死なせた兵への罪悪感は、冥界から死者を呼び出す場面では最も直接的に煽られる。さらには、漂流状態の中で徐々に統率力を失い、最も信頼を置いた副官を含め部下全員に忠告を無視される(こっそり聖なる牛を殺す)事態にまで至り、自分だけが生き残る罪悪感も経験する。
冒険譚の出来事は、英雄を讃える歌の詩にはけっしてなることのないオデュッセウスの心の傷、指揮官としての後悔の象徴である。
カリュプソの島では、最初過去を忘れられる麻薬(蓮)に溺れ、表面的にはトラウマを忘れる。しかし、心に深く根をはる罪悪感からは、自分自身が納得できる贖罪(西の土地で葬られざる者たちに名誉を与える)をするまでは逃れられない。ただしその贖罪は、自身のトラウマと理性的に向き合い、さらには自分の手で「変えてしまった」世界の一員に復帰し、自分が引き起こしたことの結果を受けいれるまでは果たせない。オデュッセウスは幻影アテナにそれを説かれる。抽象的な言葉を述べるアテナに対し、「神は分かりやすい言葉で話さない」と彼は言うが、人間は自身の無意識と対話するとき、心は防衛的に婉曲で曖昧な表現を用いるものである。夢の内容のように。
自分が「変えてしまった世界」と対峙する恐怖、それこそがオデュッセウスが帰りたくなかった事情である。自分が引き起こしてしまった望ましくない変革、その影響力が大きいほど、直面するのは苦しい。しかし、帰ることを引き伸ばしても解決はしない。
オデュッセウスには7年間が必要だった。そして、自分で言葉を紡ぐことでトラウマの根源を把握し、自分自身と向き合うことが必要だった。
セラピーを経たオデュッセウスは、ついに逃避していた恐怖と対決する勇気を得て、帰途につく。
カリュプソとは本来、オデュッセウスを愛し、自分の元に引き留めようとつとめるキャラクターなのだが、この映画のカリュプソは違う。彼女はオデュッセウスに過去を思い出せと迫り、彼の体験を言葉として引き出そうとし、ついには帰国を促すのである。そのくせ、彼を自分の元に引き留めようと、これまで幸せに暮らしてきただろうと言い募ったりもする。このように、カリュプソはストーリー上ちょっと行動に整合性のないキャラクターになっているのだが、オデュッセウスにとって彼女はいわゆる薬の売人とイネイブラーとセラピストを兼ねた存在になるので、整合性がなくて当たり前である。おそらく、カリュプソと彼女の島自体も、オデュッセウスの心理的象徴である可能性が高い。
実は原作では、カリュプソは自分の意志によってではなく、ゼウスの命令でオデュッセウスを手放すのだが、この映画でそう描かれなかったのは、この物語のもうひとつのポイントにも由来すると考える。それは、オデュッセウス本人の世界観における、神の不在である。
神に頼らぬオデュッセウス
『オデュッセイア』はギリシア神話の世界を舞台としていながらも、オデュッセウスにとってはほとんど神なき世界である。
視覚面においても神は不在で、魔女や異形の者、冥界の死者までもが登場する一方で(上でこれはオデュッセウスの夢と解釈したが)、一度も神の姿は登場しない(カリュプソは女神というよりニンフ)。唯一姿を見せるアテナも、オデュッセウスらが火の海にしたトロイアの神殿でアテナ像とともに首を切り落とされた神官の姿をとっていて、実はオデュッセウスの最も大きなトラウマ──非戦闘員の虐殺が任務であるという戦争の現実──が見せる幻覚であったことが明かされている。もちろん、これに関しては、単に神は人前に姿を見せない設定、あるいはそういう演出方針というだけかもしれない。しかし、少なくとも、オデュッセウス自身は神をあてにしない人間として描かれており、それが神の姿を見せない演出として反映されている可能性もある。
オデュッセウスは、一つ目巨人(ポセイドンの息子)の目を矢で射たことで、神の怒りを買う真似をしたと副官(ヒメシュ・パテル演)から責められるが、「予兆や生け贄に頼っていられない」と一蹴する。そして「トロイア以来、何度も泣いてアテナに祈るのを聞いたぞ」と反論されるが、それには「神は自らを助けるものを助ける」と返す。その直後、海が荒れる中で「部下たちはますます私がポセイドンを怒らせたせいだと確信する(convinced)ようになっていた」というオデュッセウスの台詞でも、嵐が海の神のせいだと彼自身は信じていないことが示唆されている。海上で嵐に巻き込まれ、祈れ、神に許しを乞えと副官に懇願されても、彼はポセイドンにもゼウスにも、絶対に祈らない。
なお、副官が述べた、オデュッセウスが「アテナに祈るのを聞いた」も、彼の信心深さの根拠にはできない。なぜなら、このオデュッセウスの主観的回顧の中で、アテナはけっしてオリュンポスの神ではないからだ。アテナの幻は、ある面においては妻と自分を繋ぐアテナの小像が実体化(実体ではないが)したもの──いわば懐郷の念の象徴であり、別の面においてはトロイアでの罪悪感が具現化した姿でもある。彼が最終的にトラウマから立ち直ったのも、けっしてアテナの加護ではなく、彼自身の意志の力でしかない。
したがって、彼にとってゼウスやポセイドンなどオリュンポスの神々は、信仰やら供物やらと引き換えに加護や恩寵をくだしてくれることはないくせに、怒りだけは容赦なしにくだす、対話不可能で理不尽な存在、結局は単なる自然災害でしかないし、彼の一連の態度からして、神の正体が自然であると見抜いていたとしか思えない。オデュッセウスはこのように、神の存在を対象化した、非常に現代的な感覚の持ち主であるが、どうやら、実はこれこそが彼が知将たりえた所以となっている。きっとそういう人でなければ、奇襲作戦に偽物の供物を使うなどという発想も生まれないだろうし、息子を連れて刺客から逃げるために神殿に放火するような真似もできないのではないか。
劇中何度も言及される「ゼウスの掟」も、ゼウスへの信仰から従ってきたわけではなく、単に神の名前がくっついているだけの、一種の伝統的道徳としてとらえていたのだろう。この掟は、彼が物乞いの姿でイタケの宮殿に入り込む口実となったが、それを最後に崩壊していく。神を対象化したオデュッセウス自身が、そのきっかけを作ったからである。
オッペンハイマーの時代から随分さかのぼり、今回ノーランはギリシア神話の時代の「世界を変えた」人間の伝記を書いたわけだが、その人間の「世界の変え」方は、神よりも人知(自然科学ともいえる)に頼ることだった。
そう考えると、近年のノーランの関心の矛先が浮かび上がる。人知の行方の危うさ、とでもいうべきか。
ノーランの批評性
『TENET』以降の作品を観て、(ひとつの可能性としてではあるが)ノーランの政治性は無理でも、性癖くらいは見えた気がする。彼は「世界を変えた」人間、つまり、知能の高さゆえその後の人類史の発展を変えるような大きな転換を作ってしまった人間[2]の苦悩を想像するのが好きなのではないか。『インターステラー』では科学的発見がポジティブな方向に「世界を変えた」が、昨今は(生成AIしかり)科学の発展がポジティブな結果をもたらさないケースが目に付きがちなので、そう楽観的でもいられなくなってきているのかもしれない。彼は人知のトップみたいな存在に魅了されるタイプなんだろうし、人類文明を左右するほどの人が背負うカルマに興味があるのだろう。しかし、アルフレッド・ノーベルのダイナマイトしかり、オッペンハイマーの原爆しかり、そういうトップクラスの人知が最も活用される場は残念ながら戦争であり、人の生命を救ったり、社会をより良くしたりするような目的より優先される。戦争では人の生命はどこまでも軽くなり、生命を奪われた側はもちろんのこと、奪う側(加担した側)ものちのち苦しめる。あくまでも抽象的ではあるものの、自然科学研究の悪用というか、破壊を目的とした時こそ人類が科学力を進歩させてしまう現実に、大きな枠組で見れば「反戦」に、ノーランの問題意識は置かれているのではないか。その抽象性はマスの観客に提供する娯楽映画にはちょうど良く、また、問題としては普遍的というか、特殊化されないゆえにどの時代のどんな問題にも当てはめてもらえやすい。おそらく今なら、AIで攻撃目標を決める戦争なんかと重ねる人が多そうだ。
ただ、木馬の奇計の駒とされて死に、冥界に落ちたシノン(エリオット・ペイジ演)による王への糾弾は、オデュッセウスの人道的罪悪感を形成する最たる部分であるはずなのだが、ここはノーラン、どうしても苦悩する天才からヒロイズムを剥ぎ取るのは無理なようで、オデュッセウスに甘々である。対話の途中から結局悪いのはアンティノオス(ロバート・パティンソン演)という話の流れになってしまい、死者の糾弾が腰砕けになっている。もっとボスに言ったれよ、シノン(ああ、この映画のエリオット・ペイジは本当に良かった)。
映画はたいへん良くできていて、役者の演技もそれぞれ素晴らしく、さすがノーランの打率は高いなと思った。ただ、凡人の一人として、私個人は雲の上の天才たちの苦悩をヒロイズムの一形態として見るよりも、別段才能に恵まれていない人々の苦楽のほうに興味があるので、この点ではノーランと気が合わない。それに、戦時中はもちろんのこと、そもそも戦争が勃発する際に、人文科学のほうの人知が抑制されてしまう事実や、戦争による虐殺を支える資本主義イデオロギーのほうに関心と問題意識があるため、ノーランにもそのところを両輪で考えてほしい……というか、そこまで踏み込めないということが、ノーランの書く物語の限界なのかなと思う。もしそこまで踏み込んで考えるような人であれば、昨年から批判されている西サハラでの撮影問題もスルーはしなかったのではないか。これは、映画の制作過程で、ハリウッドの大資本が制作する映画の予算が、サハラウィの人々を弾圧し苦しめているモロッコ政府に注がれたことを意味する。ノーランの戦争や虐殺に対する問題意識の大きさがいかほどであったにせよ、この一点だけで大いに本末転倒だといえるので、非常に非常にがっかりさせる話である。
(2026/9/9)
註
[1]詳しくはフロイト『夢判断』(高橋義孝訳、新潮社、1969年)など。
[2] 「人間」とは書いたものの、それはほぼ男性であると言ってよさそうだ。例外として『TENET』で危険な装置を発明した科学者は、ある場面の台詞で「彼女」と呼ばれていることから女性の設定であることは分かるのだが、会話の中で言及されるだけでどんな人物なのかは一切明かされないので、女性であるという設定自体、かなり取って付けた感が否めない。