この記事には結末までのネタバレが含まれます。
リー・アイザック・チョン監督、思えば『ミナリ』でも思うようにならない自然と(農家と)の闘いを描いていた。今作ではスケールが段違いだが。
この映画、いきなり主人公の大切な人たちが竜巻で死ぬという冒頭のエピソードから始まり、この映画は「竜巻で人は死にます!」「竜巻は人々の生活を壊します!」という場面を容赦なく繰り返すので、竜巻のことを「人間の生き死にを左右するが、人間にはどうすることもできないモンスター」と位置づけているのがイヤでも分かる。
前作『ツイスター』(1996年)は、科学者たちが研究成果を競う物語(+ロマンス)であり、「科学者ってクレイジー」という要素がかなり前面に押し出されていて、科学的発見のためには命知らずにも竜巻に自ら飛び込むなど、常人がとても理解できない執念を燃やす場面がいくつもあった。
そうやって描かれる科学者の姿はヒロイックでロマンティック、これぞ90年代ハリウッドの冒険映画という印象が残る。
竜巻で被災するシーンだってもちろんあるものの、被災者はどちらかというとへこたれない逞しい姿を見せていた。
しかし今作『ツイスターズ』では、前作と違って監督はアジア系だし、主要キャストに非白人が何人も加わる現代的アップデートに伴い、オクラホマ州の「ネイティブ・アメリカン人口が多い州」という側面も前に出て、画面に映る被災地の中にネイティブ・アメリカンの役者たちが何人も確認された。前作ではまるでいなかったことになってたんだから、ここは大きなアップデートと言ってよさそう。
さらに、「竜巻に全てを奪われた」人々の憔悴も画面でしっかり示されて、シビアな被災状況を映し出す。
(ちなみにオクラホマ州のネイティブ・アメリカン住民の多くは、けっして楽な暮らしはしていないという)
前作でも、主人公は幼い頃竜巻に父親を奪われた被災当事者ではあったが、今作の主人公は友人と恋人を失ってから5年経っただけの、まだ生々しい記憶が残る状態であり、そのトラウマが原因で追うべき竜巻から逃げる反応を見せてしまう場面もある。
その上で、被災者たちの土地を安く買い叩く不動産業者が、分かりやすい資本主義的悪者として登場する。
主人公は被災者側に立って、不動産業者を強く批判する。
そう、今作は「科学者ってクレイジー」のどこか地に足が着かないヒロイズムに、「そのクレイジーさは『世界を救う』ためのものなのだ」という実質を与えたのだ。
この映画の主人公ケイト(デイジー・エドガー=ジョーンズ演)は竜巻を弱める方法の考案によって人の命を救いたいという研究動機を持った学者であり、準主役のタイラー(グレン・パウエル演)とその仲間たちは被災者支援のために人気Youtuberとして稼ぐアクティビストである。
信念の部分では繋がっている二人が、専門性も同じということで結局手を組むことになる。正義の専門家たちである。
一方で、資本主義的悪者と協力関係を結んで研究を援助してもらっているハビ(アンソニー・ラモス演)とそのグループのメンバーたちは、ケイトやタイラーと同じ気象学の専門性を持ちながらも「竜巻で人が死ぬ」事実に関心を持たない、いわゆる象牙の塔にこもる人々として描かれる。こちらは悪の専門家たちだ。
彼らが、個性豊かなタイラーの仲間たちからおそろいの小綺麗な制服を着ていることを揶揄される場面は、映画的リテラシーで解釈すると、人間味のなさを揶揄されているに等しい。
最終的にはハビはケイトによって竜巻が人々の生活を壊す災害であることに気づき、持つべき人間味に目覚め、人助けに駆けつける。
この映画からは、気象学が文字通り人間の生命が救えるかどうかに関わる研究であることを強調しつつ、実は気象学に限らずすべての専門家たちに対する「おまえら資本主義に利用されて甘んじてるんじゃないよ! その専門性(プロフェッショナリティ)を人道のために使え!」との叱咤が感じられた。
タイラーが何度もprofessionalという語を口にするのもそれを示唆しているのではないだろうか。
とはいえ、科学は世界を救うためのもの、というテーゼ自体は、科学研究のオーソドックスな道徳観にすぎない。
オーソドックスだからこそ、夏休みのディザスター映画として無難でもあるわけだが、事実上資本主義のせいで悪化した今日の地球の気候状況と、災害に乗じて儲ける資本家がいるという、ある意味マッチポンプ的な資本主義社会の批評まで踏み込んで欲しかった気持ちもある。
2024/08/02