『ビバリウム』感想

グロなし不条理ホラー。人間的な喜びを奪われ生き方を押しつけられる地獄。
監督いわく消費社会批判が込められているらしいが、今日我々が押しつけられて/他人に押しつけている様々な「型」への批判にも読み換えられそう。
エイリアン(多分エイリアンですよね)たちは、人間のカップルに托卵して自分たちの種を育てさせ、成長しきったところで用済みにする。彼らは、いわゆる種の存続の本能だけを(「だけ」というのは繁殖が描かれないからである)肥大化・目的化させた生物だ。
タイトルがビバリウム(生物の生息環境を再現した展示物)とあるように、あの住宅地は人間の生息環境を再現してはいるけれど、徹底して文化的なものが排除されている。
そういう「型」に、主人公カップルが無理矢理押し込められて、心を壊していく物語だ。

あの住宅地での生活には、音楽もなく、文学(書籍)もなく、絵画はあれどあの世界の中のもの(家と部屋)しか描かれていない。
友人づきあいもできない。天候をはじめとする自然もない。
食事もトイレもシャワーも洗濯機もあるから、生命維持だけは可能。
そして、肝心の子ども。
子どもは異様なスピードで育ち、愛情や絆をはぐくめるだけの時間もない。
しかも、主人公カップルとは別の文明を生きているので(猿まねはするけど)、自分が与えた影響を感じる、などの養育のクリエイティビティも発揮できない……すなわち自らが一つの「文化」となってレガシーを残す、そういう人生の動機も許されない。
許されるのは、種の存続のための種としての生き方だけ。

人間はそうじゃない、人間はそんな生き方はしない! と主人公たちは抗おうとする。
種の存続以外の「生」の形が多様にあること、それこそ人間であることの素晴らしさだ。
そういえば、ヨンダーの売り文句に「多様な」って言葉が入ってたけどあれも皮肉だわな。

そういえば、「LGBTの人々は生産性がない」と某議員が言ったけど、その「生産性」って価値観は、まさにこの映画のエイリアンのもんでしょ。
人間同士のつながりとか、喜びとか、文化的な楽しみとか、人間が生きていくにあたって最も重要な(最も重要です。断言します)ものを全て剥ぎ取ったレベルで人間を評価するというのは。
種の存続は本能だなんだと言って、一つの型への押し込めでしょ。
例えば、、
女に生まれたって結婚したい人ばかりではない、結婚したって妊娠したい人ばかりではない、妊娠したって産み育てたい人ばかりではない、産んだからって育てたい人ばかりではない。
別に種の存続には関わらなくても、芸術作品を残す人もいれば、自然の謎を解明する人もおり、他人/社会と繋がって大小のレガシーを残す人もおり、自分では意図せずとも誰かに影響を与えている人もおり……人生の動機も意味も多様なのが人間。
そう考えると、『ビバリウム』の地獄はまさに現状どこにでもある地獄の拡大版だ。

監督の意図したという「何を欲するべきか指令されてしまう」という消費社会批判も感じられたけど(※パンフより)、主人公カップルにそこまで消費(欲)というものは投影されていないように感じたし、どちらかというと「望んでもいない、楽しめない、けど逃げられない人生を『理想』として押しつけられた」という部分に地獄を感じたので以上のような感想(考察?)になっちゃった。

(2021年3月31日)