『ワース 命の値段』

※ネタバレが含まれています。


『ワース 命の値段(原題:WORTH)』で主な問題となるのは、9.11テロの被害当事者と被害者遺族のために、国が設立した基金から支払われる補償金をどう分配するか──ではなく、航空会社への提訴権を放棄する代わりに受けとれる補償金の申請をどうやって被害者遺族に受け容れさせるか、である。宣伝で前者のように勘違いしてしまっていたけれど。

主人公の弁護士ケン・ファインバーグ(マイケル・キートン演)は、数々の調停・法廷外紛争を解決してきた敏腕だそうだ。
映画のラストで、9.11の件以外に彼が扱った案件がずらりと紹介されるが、まさに錚々たる経歴。
そんなベテランの彼がぶつかる壁として示されるのは、被害から間もない、まだちっとも気持ちが落ち着いていない人々との交渉という、未経験の状況だ。
なにせ被害人数の全貌も分からない時期から仕事を始めなければならない上、その人数は膨大。
大統領・司法長官からは「必ず全体の8割以上から申請させるように」とノルマも課されている。
さらにそのノルマも結局は航空会社をはじめとする財界を守るためであり、補償金申請可能な条件も不当に制限されている(9.11事件と直接関係がある場合に限定する目的で、補償金の該当者は事件直後に症状が出た者に制限され、ビル倒壊時のアスベスト吸引などが原因であっても数か月経ってから症状が出た者は除外されていた)。

そんな怒り悲しむ遺族と被害者たちを相手に、カネの話をするのだ。
考えただけで胃が痛くなりそう。

ところで、生命保険などに加入するときは、死亡の際の受取金額を自分で設定する。
この時、自分で自分の命に値段をつけているつもりかともし問われたとしたら、ほとんどの人は「そんなつもりはない」と答えると思う。
だいたいは月々の保険料や、万一の自分の死後に家族が必要な金額を……といった自分の事情で金額を決めるものだから。
これが、他人に決められるとなった時、初めて命に値がつけられる──人生の価値を測定される、そんな気持ちになるのだ。
とりわけ、近しい人、愛した人の死後にそれがなされる場合には。

個人的に一度だけ経験したことがある。数年前、母方の伯父が交通事故の被害で亡くなった。
生涯未婚で子どももなく、両親もすでに亡くなった状況だったので、唯一の相続人が妹である私の母だった。
細かいことは省くが、その時に保険会社によって伯父の「命の値段」がつけられたのだ。
伯父の年齢、収入状況、生計を一にする家族の人数、そして性別。様々な要素から数字が弾き出され、そして差し引かれていった。
保険会社とのやりとりで示された慰謝料の金額を、私はとても「命の値段」とは思えなかった。むしろ、大好きだった伯父の死につけられた「死の値段」、そんな感覚だった。
そして金額の少なさに呆然としたものだ。理不尽に思ったし、伯父が軽んじられた気持ちにもなった。
低所得者であっても、いつも紳士的で私を励ます良い伯父だったから。

ケン・ファインバーグの理念は一つ、「お金を受け取らせることで遺族が前に進む手助けをする」だ。
確かに、勝つ見込みもない大企業との法廷闘争に十数年もの時間と大金を投じ続けても、遺族も被害当事者も悲しみに囚われたまま、弁護士に食い物にされるだけのことが多かろう。
ケンの理念は、前述の自分の経験から学んだことだが、ある面ではとても正しい.
保険金にしても補償金にしても慰謝料にしても、故人からお金を受け継ぐ作業というものは、ただの金銭授受ではない。
お金では悲しみは癒せないが、手続きの過程でかなり心の区切りがつくからだ。
故人にまつわる様々な手続き──役場への届け出、知人への連絡、通夜、葬儀、住居の解約、ライフラインの解約、住居からの退去、家財の処分──人が一人いなくなると案外多くの手続きが必要になるもので、本人の代わりに遺族が一つ一つ、今後不要になったものを片付けていかねばならない。
たいてい、最後に残るのが相続の手続きだ。
本人がいなくなっても不要になることのないものを、遺された者が受け継ぐ手続き。
これは書類を揃えるのがけっこう煩雑で、終える頃には正直うんざりしてしまうのだが、長くかかる手続きの間じゅう否応なしに意識する遺産の存在と、それを受け継ぐ立場であると繰り返し証明させられる証書集めの作業によって、名も無い人間であったにせよ、故人は確かにこの世に生きていた、という「証」を受け継ぐための手続きであると知る。
彼は生き、何かを遺した。
遺産の多寡は関係ない。たとえ1円であったとしても、彼がこの世に生まれなければ存在しえなかったお金なのだ。

相続の手続きは、そういう意味で家族にとって重要な「喪の儀式」であり、終えることでとりあえず一区切りがつく(シビル婚をする予定だった恋人と死に別れた男性が、自分たちの恋愛関係を認めていなかった両親に補償金が渡ることに抵抗したのは、お金が欲しいからではない。家族として恋人が生きた証を受け継ぐ立場にすらなれないことに対する抵抗だ)。

もちろん、怒りと悲しみを糧に、故人や自分のために法廷で正義を問うことで生きる力を得る人もいるだろう。
しかしそれはけっして楽な道ではない。ならば、お金を受けとって次のマスに進むのも、前向きな選択である。
お金を受けとったからといって、故人や自分の負った障碍を忘れる必要も、悲しみを忘れる必要もない。
金額に納得できるかどうかとは別に、一つの作業として効果のあることなのだ。

ケン・ファインバーグは豊富な経験からそれを知っている。
彼は心から被害者を助けたいと思っているのだ、だから自ら汚れ役を買って出てもいる。
ただし、効果を知っているからこそ、膨大な数の被害者にはそれぞれに物語があり、それらが今回のケースではまだけっして「過去」になっていない、ということを見過ごしてしまった。
ケンと対立するチャールズ・ウルフ(スタンリー・トゥッチ演)とは、立場も違うが、そもそもの視座が異なっていたのだ。
そして、比較的冷静な遺族である彼と交流する一方、きわめて動揺し「お金はいらない」と泣く遺族のカレン・ドナート(ローラ・ベナンティ演)──まさにケンが救いたいと願うタイプの遺族──に自ら接することで、徐々に仕事のやり方を変えていく。

この映画のポイントは、補償金受取額を決めるための計算式は劇中の序盤で定まり、補償対象者の条件も定まり、それらはもう変更不可だという点だ。
つまり、「命の値段」はすでに定まってしまっている状況。
個々の被害者の人生、家庭内の事情などの条件を弁護士たちがいかに把握し理解を示し、彼らの生命が虚しく奪われたことをどれだけ悲しもうが、遺族の気持ちに寄り添おうが、受取金額は上がりも下がりもしない。
しかも当然ながら、弁護士というものは主観的な気持ちで仕事はできない。
彼らが基づくべきは感情ではなく法であり、その法がどれほど政治家の身勝手な事情で作られた法であったとしても、運用のしかたを曲げることはできない。立場的にも、職業倫理的にも、現実的にも不可能だ。
遺族の気持ちを癒やすのはセラピストの仕事であって、弁護士ではないのだ。

法律はしばしば公平ではない。
誰しもに等しく適用される公平さを持ちつつも、誰しもに等しく適用されるがゆえに、平等ではない結果を生むものである(世の中のあらゆるルールがそうであるが)。
そういう場合に、法律家は(あえて弁護士とは限定しないでおく)法そのものより柔軟な存在、「人間」として何ができるか。
この映画の中で、主人公の弁護士ケン・ファインバーグが学ぶのがそれなのだ。

 

AIに代替される可能性の低い職業リストの中に、弁護士はしっかり含まれている。
(参考:https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/738555.html

彼らの仕事がAIでは代わりにならない理由を、これぞと示すような映画だった。

 

(2023年2月25日)