『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
レビュー

※映画の完全なネタバレが含まれます。

 

 

 『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(以下EEAAO。「エブエブ」という略はいささか雑すぎると思うので、原題の頭文字形式とします)のマルチバース世界観は、MarvelコミックスおよびMCUのとはちょっと異なる。

Marvelのマルチバースにおける別のバース(パラレルワールド)は、たとえばスパイダーマンが豚だったり中年男性だったりする。この場合、「スパイダーマン」という型が先験的に存在し、その中身がバースによって異なる形になっている。

EEAAOでは、様々な可能性のうちどれが実現するかで枝分かれしていく、つまり存在している人々は変わらないまま、それぞれの人々がどんな人生を生きたかが異なる。あくまでも可能性によって分岐した世界だから、マルチバースにどんな人間として暮らしていても、その人がその人であることは変わらないのだ。

 

そう理解した上で、エブリンとジョイの関係に基づくと、この映画におけるアルファバースとは、そしてジョブ・トゥパキとは何か。

どのバースのエブリンもジョイも(ウェイモンドやゴンゴンも)同じ人間である……ということは、ジョブ・トゥパキを生み出してしまったアルファバースの世界は、様々な可能性のボタンのかけ違えによって、エブリンとジョイの親子関係が最も悪いほうに極端化した世界だといえる。

 ※以下便宜上、主人公エブリンの世界を「ランドリーバース」とする。 

アルファバースでは、アジア系移民の一家のみならず、広くアジア諸国や、ついでに言えばユダヤ人家庭でもよくみられるという状況──親が子に過剰な期待をかけて厳しく接するという状況が、きわめてデフォルメされた形で起きている。

アルファバースで最もバースジャンプに長けたジョイの訓練をするうち、エブリンは娘を「追い込む」までになったとアルファバースのウェイモンドは説明していた。

病気の治療法を探す、戦争を終結させるなどの人類に貢献する知識を得るために追い込まれたジョイは、つまりは親の道具とされた。そしてジョブ・トゥパキになってしまったのだ。

 

そして、映画の中でジョブ・トゥパキは、ランドリーバースのエブリンに「会いに」来る。

台詞でも明確にされていたが、殺しに来たのではなく会いに来たのだ。そして、神殿までエブリンを招いてベーグルを見せる。

石バース(←伝わりますよね)でジョブが明かしているが、それはランドリーバースのエブリンになら、自分の苦しみを取り除くための、別の方法を教えてもらえるかもしれない、と思ったからだった。ベーグルの中に吸い込まれる以外の方法を。


なぜ、それがランドリーバースのエブリンだったのだろう?

どこかのバースのウェイモンドや、ベッキーや、ゴンゴンではだめだったのか?

 

ランドリーバースのエブリンはどんな人間だろうか。

ダニエル・クワン監督自身が、エブリンはADHD(ただし診断は受けたことがないため自覚なし)の設定であると明かしている。

この設定は映像のほうにも採り入れられている。ADHDの人は何かを思い出す時に関連する全てのことが走馬灯みたいにザザーっと脳内に再生されるそうだが、劇中何度かその脳内再生が、バースジャンプ時の脳内という形でイメージ化されていた。

また、次々と色んなことに向く関心、伝票の整理が苦手、他人とコミュニケーションをとる際に自分の言いたいことを優先してしまうなど、特性とされる行動も表現されている。

ランドリーバースのエブリンは、ADHDとして生まれたゆえに、その特性ゆえに、優秀なバースジャンプの才能を持ってしまった人なのだ。

バースジャンプの才能という共通点が、ジョブ・トゥパキをランドリーバースのエブリンに導いたのだろう。


ということは、ひょっとしたらジョブ・トゥパキもADHDで、そこにエブリンとの共感を期待したのかもしれない。

石バースの究極の静けさと平穏を2人とも気に入っていた。

これも、頭の中が常に活動的でごちゃごちゃしやすいADHDの特性を持った人にとっては、情報量が制限された空間は疲労しない、落ち着ける空間なのだと考えれば納得できる。

まあ、ジョブ・トゥパキはしじゅうバースジャンプしているせいで、エブリンと同じように情報量で疲労していただけかも。ここはちょっと確たる根拠はない。

(※ADHDについてはセミナーで聞いたり本で読んだりしただけの知識なので、もし誤解があったらTwitterなどで教えてください)

 もう一つ、ランドリーバースのエブリンは父親(ゴンゴン)との関係が微妙だ。

そもそも駆け落ちのように渡米したということで、かなり気まずい関係である。

また、序盤からゴンゴンに対してはかなり気を回し、逆らわないよう、波風を立てないよう努力している(これについては後述)。

アルファバースのエブリンとジョブとの関係も似た感じで、そこが共通点がだったのだろうか。


さて、Twitterで見かけた他人の感想を読んでいると、大筋は褒めつつも家族愛に着地した部分にがっかりしたり、「合わない」と思ったりした人がちらほらいた。

とりわけ、ジョイの拒絶の言葉に対し、エブリンがそれでもと投げかける台詞と、それに対するジョイの反応に、昔ながらの「家」・家族・親子観が完全否定されなかったフラストレーションを感じている人が多いようだ(註)。

 

私自身、もしジョイをエブリンが最終的に手放してしまっていれば、「新しいな」と思っただろうと思う。

でも、異郷にやってきて頼れる親戚もいない環境の移民一世・二世の人々が、考え方の違いを脇において家族の(血縁の)繋がりを重要視する、それをジャッジする立場に、自分はない。

まあ、アメリカWASPの家族愛映画のほうが飽和しきってるので、そっちがどんどんやれよとも思うし、邦画のほうもそのへんは頑張ってほしい。

ただ、EEAAOの描写に関しては、儒教文化圏の人々だというところを加味して考えておきたい。

 

ゴンゴンに対するエブリンの態度は、実は儒教文化圏では今日でもまったく珍しくない。けっしてエブリン独特の親子関係ではなく、ああいうのはわりと一般的といっていい。

儒教の道徳規範である「孝」は、家庭内秩序のための規範だ。子は親を敬い、服従せねばならない。端的にクソですね。

でもエブリンはそれを守って生きていた。一度は家を出てきた身だからこそ、罪悪感もあったのかもしれない。

しかし、物語の終盤、エブリンが自分の父親に対してまくし立てる台詞からは、明確に父親への服従を拒否すること=「孝」からの訣別が宣言されている。

以下はスクリプトからの引用で、あえて字幕ではなく実際に話された広東語を訳してみた。

 


EVELYN:

我由細到⼤聼噻你話,想點就點。我宜家終於有勇氣做翻我⾃⼰。唔中意都唔緊要。哩個就係我。

(私は何でもかんでも父さんの言うことを聞いてきた、父さんの望み通りにしてきた。でも私は今、ついに自分を変える勇気が出た。父さんが気に入らなくてもかまわない。これが私。)

〔中略〕

我再都唔會⽤對我⼀套去對我⾃⼰個⼥。

(私はもう、父さんが私にしたようなことを、自分の娘にはしない。)

参考:EEAO Shooting Script(Script Slug・https://www.scriptslug.com/)


 

なんだかよくあるような台詞に見えるかもしれない。アニメ映画でティーンエイジャーが親に言ってそうな。

でもこれ、儒教文化圏に育った50代くらいの人が、ずっと逆らってこなかった70代くらいの親に言うとなると、けっこうな爆弾発言だと思う。

中国語圏の近代以降の文学は、儒教道徳の忠孝が生み出す悲劇を数多く描き批判してきたが、批判せねばならなかったのは、どこにでもそういう悲劇がはびこっていたからでもある。それは今日に至っても変わっていない。

「孝」なんて過去の話になりつつある日本に住んでいると「まだそこからかよ」と思うかもしれないが、全然まだそこからなのだ。


そして、エブリンがジョイに告げること、あれも「孝」とはかけはなれた親子関係への転換宣言だ。

エブリンは「あなたとここで一緒にいたい(want to be here with you)」と繰り返す。

「ここ(here)」には「このバース」と「この家」の二つの意味が含まれているだろう。

ジョイのタトゥーや、都合の良い時しか家に来ないことなど、エブリンの思い通りにはならないことがあるけれど、それで構わない。

あなたが拒絶しても構わない、意味もなくたって構わない。

ただこれだけは変わらない、「あなたとここで一緒にいたい」。

愛しているという言葉をI love youでは表現しないあたりも、すごく中国(おそらく香港だけど)的だ。

「孝」に必要なのは服従と尊敬である。エブリンはそれは要らないとジョイに告げるのだ。

これは、親によって道具にされたジョブ・トゥパキが欲しかったもの。上下関係も利害関係もない、見返りも求めず、ただ一方的に子どもを愛する親の姿だ。

そして、ランドリーバースのジョイも、本当はずっとそれが欲しかった。

マルチバースのどこかには、ランドリーバースのエブリンにとって理想通りのジョイがどこかにいるだろう。

でもそんなこと(理想通りかどうかということ)は、エブリンにとってはもうどうでも良い、ただ愛していると、そうジョイに宣言するのだ。


エブリンは自分とよく似たジョブ・トゥパキと対話する機会を得て、自分の親に本心を語る勇気を得たし、現実の娘ジョイとも対話する勇気も得た。

対話と内省によって、自分を「変える」ことを決めたのだ。

この映画はぶっ飛んだ物語に見えつつも、このあたりはファンタジーの定番プロットである。非現実的な大問題が起きて、否応なくそれを対処するうちに自分の現実世界の問題に対処する術を学ぶというパターンだ。

でもこれ、鉄板なのよね。

 

ジョブ・トゥパキいわく、人類文明が生まれたことも、数多の偶然が重なってやっとたどり着いた、一握りの結果のうちの一つでしかない。

今目の前にあるあらゆる「結果」も、偶然の寄り集まりなのだ。

実際“Nothing matters(何にも意味などない)”は「真実」なんだろうと思う。

 

あらゆる可能性を一身に集めて、何でもできる、何にでもなれる全能の存在になったジョブ・トゥパキは、逆説的には世の中の不確実性の顕現といえる。

ひとつの偶然が生んだ可能性によって、起きないはずのことも起きるかもしれない。

たとえば単純な例として、人と待ち合わせをしたとする。絶対に必ず遅れずに行けると断言できるだろうか。

もちろん、遅れずに行くよう努力はできるが、電車の遅延や渋滞、事故、急病など思いがけないことが発生してどうしようもなく遅れる可能性は常にゼロではない。

すると、ある人間が人生の中でどんな結果を生んでも、究極のところはその人間自身「だけ」が生んだ結果とはいえない。

本人にはどうしようもない様々な偶然も、きっとその結果の中に必ず含まれている。

そうすると、この映画はいわゆるネオリベ「自己責任」論のバカらしさも批判しているのかもしれない。

 

我々は常に数多の可能性に翻弄されている。

どこかのバースには、私がTwitterを買収して宇宙一使いやすいアプリを開発したなんてことも起きているに違いない(そんなバースにはぜひ行きたい)。

ただ、可能性の先にどんな未来が待っていたにせよ、我々のバースはここだ。

自分のバースで(スヌーピー風に言うと「配られたカードで」)勝負するしかない。

このバースをより良くするためには、対話し、学び、自分を変えることが一番効果的で手っ取り早い方法なのだと、エブリンは教えてくれている。

(2023年3月6日)



註)

※『ミラベルと魔法だらけの家』のネタバレが含まれます。


EEAAOの着地点に対する不満と似たような不満が見られたのが、ディズニーアニメの『ミラベルと魔法だらけの家』を観た人の感想だ。あれはコロンビアの一家の物語で、現代が舞台ではなく架空の村の話ではあるけど、よそから別のコミュニティにやってきた一家であるという点が同じだった。

魔法の能力を持つ一家の中で唯一能力を持たないミラベルは、能力によって村に受け入れられたと信じる祖母や姉からみそっかす扱いされながら暮らしており、そのせいで本人も劣等コンプレックスを持っている。しかし一家のメンバーが魔法の能力を失い始め、住居となっている魔法の家も少しずつ崩壊を始める。なんだかんだあってミラベルは最終的に祖母と和解するという話だ。

この、祖母との和解が一部の人々から不評だった。その理由として挙げられていたのはおおむね、「家」から爪弾きにされていたミラベルが「家」の価値を解体することもせず、「家」のために戦い「家」の象徴たる(家長たる)祖母と和解し受け入れられることを選ぶからだった。
ただし、ミラベルは親ではなく祖母との和解であり、祖母はきちんと反省し考えを改めているからこその和解である。
また、ミラベルが「家」を捨てようとしないのは、親子関係がちゃんとしているからだろう。親はちゃんとミラベルをそのままの彼女として愛していたので。