『PERFECT DAYS』

(日2023年 ヴィム・ヴェンダース監督)

※重度のネタバレが含まれていますし、批判しています。


『PERFECT DAYS』の主人公である平山の出自が劇中で示唆された瞬間は、鑑賞中なかなか衝撃的だった。
彼は自ら捨ててきたからこそ階級に関するルサンチマンがなく、「降りて来た」人間だからこそ低俗な遊びに走らず風雅に生きる術を知っているだけだったのだ、と劇中の前半で謎めいていた彼の人格に、ひどく俗っぽい説明が付されたからだ。
その時の衝撃は鑑賞直後は薄れていて(役所広司のラストシーンの演技の見事さよ)、ストーリー上のからくりとして一旦納得はしたのだけれど、しこりのように脳裏に残り、考え始めるとどんどん大きな違和感になっていった。
そこにはなんだか作り手側(ヴェンダース監督と共同脚本の高崎卓馬)の、隠逸詩人への素朴な憧れのような、「清貧」への無邪気すぎる憧れが露わになっているように感じたのだ。

平山の出自の設定によって、あっけらかんとこの映画がファンタジーであることが明かされた。
要するに彼は、無産階級の世界に「お忍びでやってきた資産階級の人間」なのだ(それなりの事情はあるにせよ)。
平山のような生い立ちの人が、現実の無産階級の世界に絶対にいないとまでは言えないものの、99%はそうではないだろう。
きっと映画の作り手たちは、そういう99%を描くことに興味を持っていないのだろうし、そもそも職業の階級性をもてあそびこそすれ、問題として取り上げる気はなかったようだ
それでいて、作り手側平山の「インテリ(劇中に登場するスナックのママの言)」さを裏打ちするためかのように、彼の出身階級のほうは示唆するのだ

この映画では、公衆トイレ掃除の手順をひとつひとつ映し、生活のディテールを役者に演じさせるリアリズム表現に満ちながらも、キャラクターは理想化され虚構の中に棚上げされる。
連想するのは、「社会主義リアリズム」だ。
「リアリズム」が含まれた名称ではあるが、社会主義リアリズムは実質リアリズムではなく、現実を社会主義の理想に合う姿で描く一種の表現様式である。もともとはソ連に始まったものだが、その後いくつかの社会主義国家――例えば50~70年代の中国でも社会主義リアリズムが基本方針とされた時期がある。その頃の中国では、人民を社会主義革命に動員するため、革命への貢献がある種道徳化され、小説や演劇の中では革命に貢献する人民を英雄化して描くことが求められた。

『PERFECT DAYS』は、れに倣って「新自由主義リアリズム」とでも呼ぶべきかもしれない。
トイレ掃除を丁寧に行う平山と、遅刻したり雑に済ませたりする同僚タカシを人格においても対称的に描くことで、低賃金でも誇りを持って丁寧に仕事を全うする平山が明確に理想化されていたからだ。
この対立には、社会構造に不満を抱かず、周囲に「迷惑」をかけずに持ち場を守れ、という新自由主義社会の道徳が見て取れる

ちょっと余談だが、中国現代文学(わたくしの専攻でした)にも貧困層(底層)小説や詩で描く「底層文学」という作品群がある。改革開放以降の経済格差拡大にともなって出現した貧困層にフォーカスし、彼らの暮らしぶりや苦難を、あるいは苦難に負けない精神などを描くものだ。「底層」は2004年ごろから文学批評のキーワードとして定着したが、底層文学は貧困層の「アカデミックな消費」にすぎないとの批判もあった(1)
今年日本で公開されて話題になった中国の長篇アニメ映画『雄獅少年/ライオン少年』も底層文学の流れにある作品の一例だ。
日本公開当時、SNS上では厳しい出稼ぎ労働の生活や社会福祉の無力に言及するストーリーに対して「中国の作品が貧困層を描けるとは」等の驚きの声も見られたが、底層文学の存在が示すように、貧困層の実情を描くこと自体はけっしてタブーではない。
問題は、体制批判の有無──社会構造を批判し、苦難の根源を追究するか否かだ(当然中国でそれはできない)。
『ライオン少年』もまた社会の現実を描くのみで、体制批判には至らない(体制批判していたら検閲を通らないだろう)。
それだけでなく、主人公の少年のような、「貧困層としての運命を受け入れ、未来に向けて顔を上げる」強い貧困層の姿は、日本同様に新自由主義化した中国においても、やはり道徳化された人民像なのだ。

ヴェンダースは、日本の陶芸の工程に見えるクラフトマンシップの伝統を称賛し、「細部にまで目を配り、誇りと献身をもって仕事に取り組む」トイレ清掃員、平山のキャラクターを作り上げたという(2)
陶芸のクラフトマンシップを、かなり性質の異なる労働、しかも低賃金のエッセンシャルワークで体現させるというのも、ちょっと恣意的だ(そもそも、ヴェンダースが言うようなクラフトマンシップは別に日本だけのものでもないとも思う)
映画製作自体が渋谷区のトイレプロジェクトから始まったという事情もあるのだろうが、ドイツ人のヴェンダースがそれをするとなると、彼が好んだ日本文化の一部分を全体的特徴へと安直に一般化したことになるし、そこにオリエンタリズムを指摘されるのはやむを得ないだろう。
しかも、そういう「カネにならないことにも几帳面な日本人」言説が、しばしば近年の「スゴイ日本」言説と重なりつつ、新自由主義下の労働道徳を強化してきたのは、日本に暮らす市民の一員として私個人も日々肌で感じていることでもある。

結局、この映画の作り手たちは、本来自分たちと地続きにある世界をどこか別世界のようにとらえ、そこに自分たちの世界からワープできる平山という飛び地を作りあげただけなのだ。
無産階級の世界にお忍びでやってきた、資産階級の人間のように。

ついでに言うと、平山が「インテリ」の設定になったのは、自分たちが想像するしかない境遇にある人物の内面にリアリズムを与えるため、キャラクターを自分たち側に引き寄せるでもあるだろうが、それによって彼ら自身が強く投影されたように見える。
これについては、無産階級の独身男性を「評価する」立場の女性キャラクターが登場する、という点で共通する『男はつらいよ』と比較してみたい。

かつて昭和の中産階級男性は『男はつらいよ』の寅さん(無産階級)を笑いながらも、旅から旅への風来坊な暮らしに憧れた。
寅さんは庶民の出で、学がないマッチョタイプの(少なくともそうあろうとしている)男性だ。
彼は常にマドンナ(恋した女性)と結ばれず、想いを寄せる女性はしばしば寅さんとは真逆のタイプの、中産/資産階級の知的で優しい男性を選ぶ。
マドンナのほうも、寅さんを一顧だにしないことはなく、最終的には選ばないにせよ、頼ったり助けたりする。
だからこそ寅さんは勘違いしのめり込むのだが(そのうちにリリーのように寅さんを選ぶ女性も現れることになる)

『男はつらいよ』の作り手(山田洋次)の視点は、寅さんではなく女性に選ばれた男の側にあって、寅さん一流の生活への憧れを滲ませつつも、古い男性性への挽歌を奏でている。
勝者の側が敗者の側に抱く、憧れと叱咤のアンビバレントな感情が、作品に投影されているのだ。
『男はつらいよ』シリーズは、日本の主流男性像が手直しされていった時期──古風なマッチョ男性から「サーヴィス化・消費社会化とフェミニズムの攻勢を受けて手直しされたアッパー・ミドルクラス(専門職、管理職)の男性像3知的で優しい男性へと変化する過渡期──を反映、70~80年代に物語のパターンを完成させ、主流男性像の変化に適応できないことへの共感や、変化以前へのノスタルジーを呼んだのだといえるだろう。

『PERFECT DAYS』の平山は、作り手側に引き寄せられた内面を持つキャラクターであるがゆえに、フーテンにはほど遠く、堅実に暮らしている。
教養があり、芸術に触れながら、一人で楽しみ暮らすことができる。階級はさておき、『男はつらいよ』で女性に選ばれるタイプの男性である。
女性にふられる立場はタカシのほうだが、彼には同情的な視線すら注がれない。
自分勝手に仕事を辞めて迷惑をかけ、平山への借金も踏み倒し、幼なじみの前からも姿を消すなど、マイナス評価だけが積み上げられる。
平山の「インテリ」の物腰は、「インテリ」さのかけらもないタカシが想いを寄せる若い女性の好意も獲得するし、自身が好きな女性もどうやら気があるようで、元夫にまで「あいつをよろしく」とお墨付きをもらってしまう。
それを「そんなんじゃないんで」と謙虚に返す……クーッかっこいい(棒)。

平山の場合は、新たな男性像が完全に覇権を掴んだ今日、その覇権の内にある作り手がナルシシスティックに覇権を確認しているように見える。
要するに、勝者側にいる作り手が勝者(平山)を客観的に見るでも批判的に見るでもなく、祭り上げているような構図
ある種古典的で通俗的で平易な、女性からの評価(モテ)を通して男性キャラクターを美化するパターンである。

『PERFECT DAYS』での役所広司は本当に素晴らしかった。
彼の役者としての魅力と演技は、平山という理想化されたキャラクターに最高の説得力を持たせた。
しかし、だからこそ、この映画の中で描かれた理想の方向は「新自由主義リアリズム」の優秀さを高めてしまったといえる。

私にも平山の住んでいたアパートにそっくりな亀戸のアパートに住んでいた伯父がいた(すでに故人)。
職業は違えど、年収は似たようなものだった。
平山のように、貧しさの中でも楽しみを維持する生活を否定するつもりはさらさらない。
ただ、現実にそんな生活の中で生涯を閉じた伯父の、つつましくも諦めに満ちた生活、常に生活苦の不安がつきまとう生活、頼りにできる人間関係がないからこそ羽目を外せない慎重な生活は、映画の中では映し出されなかったし、そこから目を逸らした叙事には欺瞞と作り手たちの自己満足を感じた。
たぶん、これが日本以外の国の低賃金エッセンシャルワーカーを主人公にしていたとしても、同じような感想を持っただろう。

作り手たちは渋谷区トイレプロジェクトの関係者でもあるらしい。
それを考えると、トイレ清掃員の「清貧」生活が美しく描けていればいるほど、絵空事の印象が強まる。
そのような発想の下敷きにあるのが、まさに「低賃金は自己責任」とする新自由主義なのだろう。

(おわり)

【註】
(1) 加藤三由紀「いま、中国社会の『底層』を語ること」、『季刊中国』2006年秋季86号
(2)Leo Barraclough "Wim Wenders on Why Hirayama, the Tokyo Restroom Cleaner in ‘Perfect Days,’ Matters: ‘There Are No Nobodies’" , Variety, 2023年5月29日 (https://variety.com/2023/film/global/wim-wenders-perfect-days-cannes-koji-yakusho-1235627795/ , 2023年12月28日最終検索)
(3)中河伸俊「男の鎧──男性性の社会学」、渡辺恒夫編『男性学の挑戦──Yの悲劇?』新曜社、1989年。アメリカでは50~60年代にこのような「手直し」が起きたとされる。