その部屋に入るのは誰?
──『イングランド・イズ・マイン』

『イングランド・イズ・マイン(England is mine)』(2017年・英)
監督・脚本:マーク・ギル (Mark Gill)
主演:ジャック・ロウデン (Jack Lowden)

※完全ネタバレしてます


1.A man before becoming a “Trier”

 夢見る青年がスターダムにのし上がるという物語は今までに数多く語られている。逆に、夢を諦める物語も。“England is mine”は違う。その後スターダムにのし上がる青年が、そのための一歩を踏み出すまでの物語だ。ただし、それはザ・スミスと今日のモリッシーを知っている我々から見て、の話である。主人公である当事者、のちのモリッシーことスティーヴンにとってはそうではない。この作品では、先の見えない夢に向かって踏み出す一歩、そのたったの一歩が、ある種の人間にとってどれだけ難しいものなのかについて、全編を通して語られる。

 例えば、オーディションに何年も落ち続け、夢を諦めかけた末に成功を掴む『ラ・ラ・ランド』のミアとは違う。スティーヴンは、「オーディションを受ける」類の行動すら起こすことなく、自分の世界を手元に留めたままで理解されるのを待ち、じりじりと夢を煮詰め続けている……この作品は、そんな青年が自分の世界を外に持ち出せるアーティストに生まれ変わるまでの成長を描いている。言わば「知られざる克服」がテーマである。

 この作品のリフレインとなっているのは川(運河?)の水面。オープニングでは飛沫を激しく上げて逆巻く様子が映し出される。川の水面はスティーヴンの心理状態を表している。挫折した際には水面が逆巻き、逆に静まるのはバンドの初ライブの時、そしてラストシーンの後のエンドロール。得たかったものを得ることで彼の心は安定するのだが、それは川の流れと同様に、スティーヴン自身にはコントロールできないのだ。

 スティーヴンは内気な青年であるかのように見える。しかし過剰に他人の目を気にし自己評価が低い、よくある内気さとは全く異なる。むしろ他人の目に注意を払わないし、周囲に合わせられないのではなく合わせたくないのであるし、自己評価が高いがゆえに傷つきやすい青年であることが、ジャック・ロウデンの細やかな演技や職場でのエピソード等を通して理解できる。所謂、芸術家肌の変わり者。周囲に合わせることより自分の世界の追求に時間を割くせいで、社会生活やコミュニケーションが疎かになりがちなタイプの人物だ。だからこそ、一般社会を相手どった「たったの一歩」を、簡単には突破できないのである。

 彼のそんな様子を見て苛つく人も居るだろう。どうしてちょっとした勇気が持てないんだ、一度の挫折なんかに負けるな、一歩踏み出すだけで成功を手にできるんだ、遠回りするなと。しかし、劇中の彼は「モリッシー」になる未来を知らない、夢を抱えているだけの一青年である。周囲と自分自身が意識的・無意識的に与えるプレッシャーに疲れ果ててもいる。挫折を経てなお盲目的に自分を信じることなど、誰しもできるものではない。スターでもなんでもない「一般人」にとって、それは当たり前のことではないか? そしてよく耳にする言説――そんな人物は成功しない、成功する資格もない――のような根性論に基づき断罪することは、あまりにも強者の理論に乗った、或いは想像力に欠けた理論ではないか?


2.Steven’s room and visitors

 この作品の核心はスティーヴンの部屋である。彼の部屋を通して物語は動く。

 スティーヴンは自分の「ミュージアムのような」(※リンダーの言)部屋の住人だ。彼の部屋は彼の世界の表象そのものである。オスカー・ワイルドの肖像写真、好きなレコードとカセットテープと本、壁に貼られた新聞の切り抜きなど、雑多なものに囲まれて日々を過ごし、タイプライターを前に一心不乱に文字を打つ。しかし「部屋」という形態であるため、訪れた人々にしか彼の世界を見せることはできない。スティーヴンはそのことに気づきつつあるが、手をこまねいている。

 彼を囲む人々はスティーヴンの部屋を訪れそれぞれに過ごし、彼が夢を叶えるには部屋から出るのが早道だと知ってもいる。例えば母はスティーヴンの部屋にタイプライターを与えた人。つまり彼の世界を作るのに関わった人だ。誰よりも彼の世界を知っている。たびたび部屋を訪れては彼を支え、諭し、外の世界に注意を向けさせる。


 リンダーは自身もアーティストであり、先に自分の部屋をスティーヴンに見せる。その後自分もアポ無しで彼の部屋を訪れ、彼の部屋のものに触れ、理解し、世界を共有してみせる。ジャンルは違うにせよスティーヴンの戦友でもあるが、自室の外に自分の世界を持ち出すことで一足先に成功し、街を去ってロンドンに行ってしまう(その後もリンダーは作品の中で成功の象徴としてたびたび名前が登場する)。

 アンジーはスティーヴンを部屋の外に出そうと、ドアを開け彼の手を引っ張ってくれた人物である。彼はそれに応えられず、彼女は去る。その後、最もアンジーのような存在が必要になった時、彼女はスティーヴンの目の前に再び現れる。スティーヴンは自室で彼女が残していった本を手に取る――すなわちアンジーという存在が自分の世界に残してくれたものを、生かすでもなく放置していたことを認識するのだ。しかし言葉を交わすチャンスも与えられず亡くなってしまう。スティーヴンは自分自身に怒り、部屋を目茶苦茶にする。

 閉じられた雑多な世界は一時的な混乱によってリセットされ、好きな物はきちんと残しつつも、すっきりと整頓される。そこへザ・スミスで組むジョニー・マーが訪ねてくる。改めて自身の世界を把握し直すという過程が、スティーヴンの次の一歩に必要だったのだ。


 ちなみに、最初のバンド仲間のビリーの部屋にはスティーヴンが自ら訪れるが、彼とは世界を共有できない。スティーヴンが選んだレコードは「うちの母親が好きな曲だ」と一蹴されるし、ビリーはスティーヴンの部屋に来ることはなかった。この互いの部屋を介した関係性が、袂を分かつことになる未来を暗示してもいる。


 映画のラスト、自室で待つジョニーのもとに、スティーヴンが自ら訪ねていくところで物語は終わる。かつて訪れたリンダーの部屋は、半ば偶然に目にしたものだった。ビリーの部屋には能動的に訪れたが、スティーヴンの世界と相容れなかった。しかしジョニーの部屋はきっと、スティーヴンと世界を共有できるのだろうと、ガラス越しに近づく「モリッシー」が暗示して作品は幕を閉じる。

 結局のところ、スティーヴンは自ら自分の世界を外に持ち出すことを選択する。それは彼の部屋を訪れたアンジーとリンダーと母とに、それぞれ方法・結果・動機を気づかされ、部屋にではなく彼自身の内部に時間をかけて構築された動力に拠る選択である。それを表現するシークエンスがある。彼が時を過ごしたあらゆる場所が無人の状態で次々と映し出されるのだ。それらの場所での全てがスティーヴンの中に過去のものとして蓄積されたことを表し、また無人状態は彼が立ち去ったことを示している。遠回りや立ち止まることがあったとしても、スティーヴン自身が確信した選択が何よりダイナミックに彼の人生を動かした。それは誰の人生においても、特に若者である時期に訪れる、普遍的な現象である。


 マーク・ギル監督が描いたのは等身大の若者であり、「若き日のスター」ではない(なにせ本人非公認の伝記映画である)。非凡な才能を持った人物ですら、誰もが持ち得る困難にはやはり誰もと同じく悩み苦しみ、そして乗り越えるまでには経験と時間が必要であるという、当たり前の事実の提示。それは少しのペーソスを含んだ、一種の人間讃歌と言えるだろう。監督は、大きくなりすぎる傾向にあるスターたちの虚像に、同郷であり、かつ非凡な才能と人格に対する賛否で知られるモリッシーの独自の解釈を通し、大きな疑問符を付けてみせたのではないだろうか。

 スターも一人の人間だと指摘することと、非凡な才能の否定はイコールではないし、作品を観る限り、スティーヴンは単純に勇気と積極性が欠けていたせいでくすぶっていたのではない。自分の世界を隅々まで把握し、それを外に持ち出すための自分なりの方法を知ることが、あらゆるアーティストのスタート地点に存在するというだけなのだ。

(2017年12月24日)