『ビリーブ 未来への大逆転』感想

『ビリーブ』は全身全霊で観た。そう観ざるを得なかった。
ルースが軽んじられる時にはともに悔し涙を浮かべ、最後の弁論と判事に弁論の延長を認められた時には嬉し泣きし、エンドクレジットの歌詞で泣いた。
こんな感情移入しちゃった映画は久しぶりかも。
でも実際に自分が普段職場で、軽んじられたり、口をつぐまされたり、偏見を露わにされたりしてるので、共感してしまうのはどうしようもない。
だからこそダイレクトに、映画の数多くのメッセージを一つ一つ、大切に受けとった。
受けとりきれてないかもしれないけど。

まず、全編にちりばめられた性差別あるある。
これ、舞台は50年前だけど、現在まさに進行中のことが採り上げられている(映画の大枠の成り行き以外はフィクションなので。もちろん当時も酷かっただろうが)。
女性が話しているのを平気で遮る男。
性差別の授業に出るのは、ほとんど女性の学生。
「夫のできの良さ」で褒められる妻。妻側にも仕事があり、人生があるのに無視される。
結婚して子どもが居れば、子育ての話しかふってこない。
女のキャリアや人生は「男がつくってやる」もの、女は感情的、女は男より数字が苦手、という偏見。
そして偏見を事実と思い込んで押しつける。
「女は家庭、男は仕事」という男性社会の都合で決めた枠組を、「従うべき自然の摂理」だという傲慢さ。
その枠組から外れた場合は、同性の男ですら爪弾く冷酷さ。
またさりげなく、「女性の味方についてくれる人の中にも、無自覚に女らしさを押しつける人がいる」ということも、現実として描いている。

これらぜーんぶ、自分がいつも身近に目にしていること。
つい数ヶ月前も、職場の後輩男性から「女は数学が苦手」と言われたばかりだし。
Twitterでもそういうクソ男が女性に投げるリプを、毎日のように見ているし。
この映画が本当に余すところなく、男尊女卑の醜い姿を「そんなのは50年前の価値観」として描いてくれてスッとした!!

その一方で、女性が性差別から立ち向かう方法もちゃんと示してくれた。
まず、キャットコール(通りすがりの女性に卑猥なジョークを投げつける)に「怒らなくちゃだめ!」と言うルースの娘ジェーン。
そうです、怒らなくちゃだめなんですよ、性的なからかいを受けたら。
それは「モテ」じゃないんだよ。軽んじられているんだよ。

それから、「変えよう」とし続けること。そうしなければ永遠に変えられない。
声を上げ続け、戦い続け、次世代に教え、少しずつでも「変える」ことに関わろう。

年配の女性の中には、「最近の若い世代の女は贅沢」などという人がいる。
多くの人は、自分がしてきた苦労は当たり前であり、次の世代も負うべきだと考えがち。
中学の頃に、「自分たちも先輩からひどいしごきを受けたから」と後輩たちに同じしごきを与える同級生がいた。
高校が無償化された時、高校の学費を自分で払った人たちの中には憤る人がいた。そういうのと同じ。
「変える」ことは、しばしば自分に直接の恩恵を与えない。
でも、次世代がそれで苦労しないために変えなくてはならない。
結局、人類の科学や文化の発展・進歩は、そうやって続いてきたのだ。
社会のありかただって同じだ。
私自身は子どもを持つつもりがないけれど、甥や職場の後輩たち、ご近所の子どもたち、みんなのために社会を変えることに、少しでも関わりたい。

日本国憲法第14条は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」だ。
これを空文化させてはならないし、個人的には、ここにいつか「性的指向」も加えたいと思う。
時代に合わせて、社会に合わせて、意識も法律もアップデートし続けなくてはならないんだよ。

Here comes the change!


ああ、これも言わずにはおけない。
ルースと夫マーティとの関係があまりにも理想的。
彼の頭が良くて稼げるからではなく、妻の能力を認め、信じるからいいのだ。
あれはカカア天下ではないよ。あれは「対等」な夫婦の姿なんだよ。
ルースが居なければ、今のアメリカは無かったかもしれない。
でも、マーティが居なければ、ルースも居なかっただろう。
いつか、あんな夫婦が当たり前の世の中になりますように。

(2019年3月23日)