『バービー』

(米2023年 グレタ・ガーウィグ監督)

●はじめに

この映画を観て、しみじみと「フェミニズム映画の意義ってなんだろうか」なんてことを考えてしまった。
大前提として、フェミニズム運動は成功からほど遠いところにあり、世の中には性差別が満ちあふれ、そんな現状なのにアメリカでも日本でも大きなバックラッシュが起きている。
そんな時代にあって、映画業界では次々とフェミニズム映画が製作されており、その中には様々なタイプの作品がある。
大衆的でポップな作品もあれば、評論家を唸らせる深い作品もあり、分かりやすいものもあれば分かりにくい(フェミニズム批評によって価値が掘り起こされるものなども含め)ものもあり、フェミニストの共感を食い物にするフェミニスト・ベイティングもあれば、真摯に作られたものもある。
個人的には評論家を唸らせる深い作品であり、真摯に作られたものであれば、分かりやすいかどうかは関係なく好きである。
それはそれとして。
ベイティングではないフェミニズム映画の意義とは、問題の存在を提示し、問題の所在を提示し、性差別なき世の中の形成=フェミニズムの前進に寄与することだろう。
もちろん、芸術的意義とは別次元の話。

フェミニズムを前進させる──フェミニズムが指摘する社会の問題をなるべく多くの人に理解させ、賛同を得る、つまりは啓蒙することがフェミニズム映画の意義だとすれば、大勢が鑑賞したくなる娯楽性の高いタイプの作品であれば、その存在意義は大きくなるだろう。
しかし、そこにジレンマが生じる。
なにせ、フェミニズムは(『フェミニスト・キルジョイ』なんてタイトルの本があるくらい)場を白けさせ、敵視されるものだからだ。
ちょっと家父長制を批判すれば、「男嫌い(ミサンドリー)」と評され、男性客を逃すからとスタジオの重役たち(ほぼ男性しかいない)が眉をしかめる。
フェミニズムの主張が強ければ強いほど、マス(大衆)を逃し、弱ければ啓蒙の力は弱まる。
それはまた興行収入とも関連し、映画製作者サイドにとってはかなり大きな問題となる。

『バービー』は、マスを非常に大きな範囲に設定したフェミニズム映画である。

映画の中で指摘される性差別はきわめて素朴なお馴染みの性差別、お馴染みゆえに「それはいかんよねー」との感覚はある程度共有されていて、さほど敵を作ることもなかったのか、或いはどぎついビジュアルと振り切った(ナンセンスでもある)コメディ性でお茶を濁されてしまったのかは分からないが、アメリカでは高い興行収入を上げた。
この映画、非常に分かりやすく初歩的、ある意味表層的で、日頃からフェミニズムの話題に触れている人間にとっては、きっとなにも新鮮味がないであろう当たり前の話題が、妙に力の入った演出で続いていく。
これまでフェミニズム関連の書籍を色々と読み、どんな映画もそういう視点で観がちな私にとっては、あまりに当たり前の話ばかりストレートに大仰に語られるものだから、正直途中で「ひょっとしてフェミニズムをバカにしたいのかしら?」と疑いすらした。

それでも、そういう人間とは違って日頃まったくフェミニズムの話題に触れたことがない人や、性差別を内面化した人にとっては新鮮なのかもしれない。
もちろん性差別主義者・ミソジニストにとっては鼻につくどころかムカつく映画であろう。
本邦ではミソジニストであることが社会的に何の問題にもならず(ミソジニー発言で仕事を失った公人が何人いただろうか?)、無自覚な性差別が横行し、アメリカ以上にマスメディアが性差別や人権問題に鈍感だ。ひょっとしたらこの国では「衝撃的な」作品となり得るのかもしれない。
この映画の鑑賞をきっかけに性差別的な恋人と別れる人が増えれば喜ばしいことであるし(心底そう思う)、多少なりと日頃の言動に気をつけるようになったり、社会構造に目を向ける人が増えれば何よりだ。
そして映画のメッセージを称賛する男性の鑑賞者が大勢いることにも、個人的に救われる気持ちでいる。

この映画は確かに主旨明解なフェミニズム映画として作られた作品であろうし、かつマスに訴えるにたえる娯楽大作であるという点で──日本のような後れた状況であればなおのこと──一定の意義はあると思う。
ただ、個人的にものすごく物足りないし、細かいところまでは目配りがきいていないし、ちょっと古臭くもあるし、問題もある映画である。
この映画を新鮮に感じて心が動かされた人だけでなく、反フェミニズムの立場をとる人々にこれがフェミニズムの全てだと思われてしまうならば心外だ。
そう思ったので、以下にネタバレありで、いちフェミニストとして湧いた異論を書いてみたい。

以下ネタバレありです。




●専業主婦がいないバービーランド

この映画を観た人には共感してもらえると思うが、タイトルは『バービー』でありながら、物語の大筋はむしろケンの物語だ。
王様の家来があることをきっかけに「目覚め」、主従関係に疑問を抱き、反乱を起こすが、三日天下で鎮圧されるという風にまとめると、まあよくあるストーリーでもある。

まず、バービーにくっついて人間社会に行ったケンが家父長制(字幕では「男社会」と訳されていた)の浸透した人間社会では男性が男性だというだけで優遇されていることを知り、それをバービーランドに持ち帰り、どうやってか皆を洗脳して家父長制社会に作りかえる。
しかし、バービーが人間社会からバービーランドへ連れてきた母娘の母のほうが、家父長制社会の女性の苦労を語るとバービーの洗脳が解ける。
そこで、そのフェミニズム説法を使い、バービーたちの洗脳だけを解き、策略によってケン同士を対立させ、バービーランドが家父長制ランドに作り変えられる企みを阻止する。

最終的にケンはバービーから説き伏せられるのだが、そこに込められたメッセージは、主体性のない男性(=ケン)は主体性を得るための手段として女性(=バービー)を利用し差別しているので、そんなことはもうやめて、女性に関係なく自分に自信を持ち、自分の世界を作り、対等な関係でともに暮らそう、というものだ。
ケンの友人キャラであるアランが、劇中でケンの支配から逃げ出そうとするのだが、彼ホモソーシャルに馴染めないせいで抑圧される男性、という位置づけになっていることから、このストーリーは家父長制批判であるが、その中でも、男性同士の絆を強化するために女性が利用されることが指摘されホモソーシャル」に焦点を当てていると言えるかもしれない(参照:イヴ・K・セジウィック『男同士の絆:イギリス文学とホモソーシャルな欲望』上原早苗・亀澤美由紀訳、名古屋大学出版会)
バービーたちの「ガールズナイト」にケンは参加できないが、ケンたちが開く「ボーイズナイト」には、ケンたちがはべらせるためにバービーを参加させているあたりからもそれがうかがえる(するとバービーランドは性差別ミラーリングではないのかもしれない)。

ところで、ケンに洗脳されたバービーたちは何をしていたのかというと、
 ・ケンの食事や飲み物の用意
 ・ケンの足を揉むなどの身体的ケア
などの無報酬ケアワークで、元々就いていた華々しい職業はやめて無職になっている。大統領だったバービーでも。
つまり、バービーランドの中に起きた異変は、専業主婦などいなかった世界に専業主婦が生まれるという形で表象されるのである(※妊婦バービーのミッジやTVバービーについてはキワモノ扱いになっているので、ちょっと横に置いておく)。
定番バービーと変てこバービーと人間の母娘は、そんな状態にあるバービーを洗脳から解いて、本来の「特技を持った」バービーに戻そうとする。
すなわち、

 ・家父長制社会を内面化した/支持する女性は主体性を持たず、男性に奉仕することに疑問を持たない女性である。
 ・自立したフェミニスト女性は主体性を持ち、男性のために自分の時間を使うことはしない。

という極端に単純化された家父長制社会/男女平等社会の対立が構築され、さらにそれが専業主婦/職業女性の二項対立へとスライドされてしまっている。
専業主婦は少女をエンパワメントする「ロールモデル」にはなり得ない、のだ。
この単純化の下では、キャリアを追究したい気持ちを持ちつつも、一方で同時に育児を生き甲斐に感じる人々の存在まで、「それは家父長制の内面化である」とされかねない。
『バービー』は分かり易さを求めてか世界観を単純しすぎあまりに、多様な女性は許容するが、一人の女性の多様な声は許容しない、という格好になってしまった。
映画のラストでも、定番バービーは「特技がなくてもいい」とは言われるものの、それはあくまでもポジティブな、無限のポテンシャルを象徴した「特技なし(ただし、今のところは)」である。

誤解を招かないよう予め説明しておきたいのだが、私は選択の余地なく専業主婦を嫌々やっている人や、キャリア復帰したくても叶わず、消極的に専業主婦を選択している人々がいる現状をよしとしているのではない。そんな社会構造は維持されるべきではないし、そのために官民問わず努力していくべきだと考える。
そして、家庭内のケア労働もパートナー同士が性別を問わず偏りなく担当すべきだと思うし、「家庭と仕事の両立」が女性だけの問題とされる現状に、日頃から憤ってもいる。
しかし一方で、専業主婦を続けてきた自分の母親が、夫や社会からケア労働を軽視されたり、外に出て働かないからと「怠け者」扱いされたり、職業を持たないゆえに夫や子どもの付属品扱いされることにも憤ってきた。
専業主婦も色々だ。一時的にその状況にある場合も多いし、家庭内の事情や単にケア労働が得意であることなどを理由に、本人が買って出ている場合もある。
個々に事情が異なるのは言うまでもないし、様々な条件が絡み合って結果として「専業主婦」が生まれている。
ともかく、専業主婦も女性の生の形態の一つである。

バービーランドは結婚もなし、生殖なしゆえに育児もなし、自立不可能な状況に陥る可能性もなし(介護者が必要なバービーは出てこないのユートピアとして構築されたために、リーン・イン・フェミニズムに着地してしまった。

もちろんストーリー上、バービーたちは「洗脳」されているのであって、元に戻さないと話にならないという事情はわかる。
しかし、現実の社会において職業の有無は、家父長制社会を支持するか否かとは何の関係もない
最高裁判事の職に就きながら家父長制をアシストしまくっている女性という恰好の実例がアメリカにはあるではないか。
しかし、映画の中の最高裁判事バービーは家父長制に洗脳されるや、自分の職業を放棄する。
これでは、自らの権力を使ってせっせと家父長制をアシストしている女性の最高裁判事を批判することができない。
そもそも憲法改正によってバービーランドがケンダムに変わる、という筋は、ロー対ウェイド判決が最高裁で覆されたことへの皮肉ではなかったのか。

専業主婦/職業女性の二元論で女性の主体性の有無を語ることは、フェミニズムの歪曲であり、むしろ多様な女性の否定でもある。
家族のケアに従事することを主体的に選択した専業主婦が、この世の中にどれほど大勢いることか。
彼女たちを家父長制の奴隷として断罪するのは、フェミニズムではないと私は考える。
忘れてはならないのは、主体的に専業主婦を選択したからこそ、主体的に別の道を選択しなおすこともある、ということである。ライフコースは様々なのだから。
男女ともに、職業選択の自由の中には、専業主婦/夫を選択する自由が含まれるし、これは「女は家庭に入っていれば良い、社会進出などしなくて良い」と考える典型的な家父長制思考を支持することとは根本的に異なる。
また、ケア労働の主体的選択を否定しない立場は、女性が歴史的に無償のケア労働に押しやられ、資本主義社会の中で経済活動から疎外され、有償のケア労働も低報酬のまま据え置かれて経済的自立がそもそも困難な状況が今日なお維持されている状況に、異議申し立てをすることとも矛盾しない。
両方を同時に主張することによってこそ、家父長制が規定した価値観を裏表両面から解体する契機に繋がるのではないだろうか。


●ホワイト・フェミニズム

さて、インターセクショナリティという言葉をご存知だろうか。
フェミニズム理論は、すでに男女の二項対立だけを問題にするものではなくなって久しい。
『バービー』が取り上げている、お馴染みの素朴な性差別だけではカバーしきれない様々な問題を、フェミニズムは取り扱わねばならない。

女性は多様である。ゆえに、性差別以外の差別──人種、民族、国籍、宗教、ジェンダーアイデンティティ、職業等々の様々な差別も同時に受けている場合があり、その交差性(インターセクショナリティ)を意識し、自らの特権性に注意を払うことは、保守派によるバックラッシュが大波になりつつある今日、多様な女性の連帯を保つためにも、もはやフェミニストの必須条件だといえる。
そんな中、『バービー』のあちこちにインターセクショナリティに対する鈍感さ──言い換えるとホワイト・フェミニズム(白人女性が自らの人種的特権性を意識せず主張するフェミニズム)の立場が垣間見えている。

もちろん、ある程度の弁護は可能だ。
バービー人形自体が、すでに女性の多様性を体現した多様なバリエーションを展開しているため、劇中にも多様な人種のバービー(アジア系やヒジャブ着用のバービーはいなかったようだが)に加え、車椅子バービー、トランスジェンダーバービーなどが登場している。
しかし、映画の物語の大オチ──金髪青い目の白人「定番バービー」が自分のアイデンティティを見失い「私は何の特技もない」と絶望するも、「特技がなくてもかまわないのだ、それはどんな可能性も持っているということなのだ」と生みの親が言う──を前に、彼女たちは透明化されている。

まず、「多様性」の中には職業や特技の多様性も含まれるが、そもそもは人種や身体障碍や身体的特徴やトランスジェンダーであることなど、「特技(good at  something)」とは関係のない多様性がより重要なのではなかったか
職業を自由に選ぶことができる、どんな可能性も持っている、それは大きな特権である。
女性の中では現状、その特権は言うまでもなく、ハンディキャップを持たない白人シスヘテロ女性に最も開かれている。
定番バービーの悩みは、自分が「定番」=世界の標準であるという優位性を完全に無視した、特権を有する者ならではの悩みなのである。

思えば、グレタ・ガーウィグの前作『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』でも、主人公ジョーの悩みは、当時の白人女性としては深刻だったのであろう「結婚せず自立して生計を立てる」ことの困難さや、男性編集者から「女流作家」の枠にはめられてしまう理不尽さが描かれていた。やはりフェミニズム映画である。
日本で『ストーリー・オブ・マイライフ~』が公開されたのと同週に、ハリエット・タブマンの伝記映画『ハリエット』が公開されており、両作を一日でハシゴした私は、当時こんなツイートをした。

実は『ハリエット』の直後に『若草物語』を観たんだけど、どちらもちょうど南北戦争の頃が舞台、時期的には重なった部分があったわけで、同じ時代の話でもこのテーマの差異はすごいなと思う。白人の少女が結婚するしないとか手に職つけるつけないで悩む一方で黒人女性が「自由か死か」ですよ(2020年6月14日)


『若草物語』は子どもの頃から親しんできた大好きな小説ではあったが、正直言って、上記のようなテーマをグレタ・ガーウィグが2020年に物語る意義、つまり今日性は特に感じられなかった。
演出の面では良い点もあった(評判の良かったジョーとローリーのダンスシーンなど)ものの、フェミニズムの主張としては『バービー』と同じく、初歩的で基本的な、穏当なレベルに止まる。
また、やはり『バービー』同様に、19世紀から人生の選択肢という特権を有していた白人女性視点でしかない。
人生の選択肢を有していない女性は19世紀にまで遡らなくとも、今も世界中に山ほどいるが、そんな現実を想起させる演出もなかった。
グレタ・ガーウィグがどんな映画を撮ろうが、彼女の自由ではある。フェミニズムの主張より優先させたい要素を持つも自由。
ただ、フェミニズム映画として、主張の新しさは特になかったし、エンパワメントの対象の幅も狭そうだった。

もちろん『ハリエット』のほうだって、黒人女性の生活は当時と比べて自由な方向に進んではいるわけだが、BLM運動などでも知られるようにアメリカの黒人社会には未だに死と隣り合わせの暮らしがあり、それらを温存するためであるかのように、白人社会が作り上げた社会構造が、公権力を巻き込んで維持され続けている(エイヴァ・デュヴァーネイ監督の『13th -憲法修正第13条-』をぜひ一度ご覧になっていただきたい)。
『ハリエット』はそのスタート地点の時代(南北戦争の頃)を取り上げたことで、現在の人種差別状況と通底するものを炙りだし、今日性を確保している。

『バービー』の、人種に関わる要素についての鈍感さは、ほかにもいくつか見られた。
バービーランドに行く人間の女性グロリアを演じているアメリカ・フェレーラはホンジュラスからの移民を両親に持つラテン系俳優だ。
白人タイプの定番バービーにラテン系女性が感情移入するという構図は、アメリカ社会の複雑さを示しているはずだが、「今は色んなバービーがいるから」という風に、あっさり過去の話として流されてしまう。
また、それ以外にもラテン系女性のインターセクショナリティについて言及されることはなかった。
フェミニズム映画で、ラテン系俳優を人間社会サイドの代表者としての役で起用しながら、である。

さらに、すでにSNS上で指摘されていたが、先住民と同じく「免疫」がないからバービーたちが全員洗脳されたのだ、という例え話を、アメリカ・フェレーラに言わせてもいる。
ラテンアメリカの先住民の多くが白人の持ち込んだ病原体によって、天然痘、麻疹、水疱瘡、ペストと繰り返し壊滅的被害を受け、ジェノサイドの一部となったのはよく知られた歴史である(Netflixのスタンダップ『ジョン・レグイザモのサルでもわかる中南米の歴史』おすすめです)。
ラテンアメリカの人々にとっては、アイデンティティとなるはずだった文化を奪われる原因にもなった暗黒の歴史であり、ケンの洗脳と軽々しく比較して良いものではない。

こうなってくると、多様性に満ちたキャスティングは、ホワイト・フェミニズムだという批判を避けるためのアリバイ作りではないのか、とさえ思えてくる。

そもそもこの映画の売りでもある多様なバービーがどう生まれたかというと、資本主義の原理に従ったためである。
マテル社がガッツリ噛んでいる本作では、そのあたりには絶対に突っ込めない。
だからこそ、バービーの多様性は少女のロールモデルを多様にするためなのだ! というマテル社が用意した小綺麗なタテマエをそれ以上掘り下げていくことができないし、ほかでもない家父長制支配体制ががっちり手を組んでいる資本主義社会──ケア労働を「無報酬の些末な仕事」に貶めた資本主義社会を、批判することなどできるわけもないのだ。


●おわりに

最初にも書いたが、『バービー』の大ヒットがもたらすであろうポジティブな効果(とはいえ日本でそれがどれほどのものか、あまり期待はしていない)については、否定するつもりはない。
以前、私の友人の一人が、自分の職場で男性上司からしょっちゅう性的対象化発言を浴びせられている後輩女性社員に「ちゃんと怒ったり拒否したりしたほうがいいよ、加勢するから」と提案したところ、ケロッとした顔で「別に困ってないので」と返されたと聞かされた。友人は困惑していた。なぜ彼女は、自分の尊厳を傷つけられていると思わないのだろうか、と。
彼女は本当に、自分がセクハラ被害者だと気づいていなかったのだろうか。
それとも、気づいていたけれどいらぬもめ事を起こしたくないと、黙っていることにしたのだろうか。
どちらにせよ心が痛む話だが、そのレベルの男性がまだまだ日本にはいて、職場で問題にもならずに過ごしているのは事実である
なにせ、この基礎レベルの男女平等論ですら反発され、著名人が顕名で批判し、ミソジニストと指摘されるとトンチンカンなことを述べて開き直る、そんな日本社会である。
『バービー』をきっかけに、今まで気づかなかったような抑圧を意識できるようになったり、立ち向かう勇気を得られるような人や立ち向かう人に加勢できるようになる人がいたら何よりだ。

しかし、『バービー』で語られていることだけがフェミニズムではない。
フェミニズムはすでに18世紀から理論が蓄積され、再検討されて発展を続けてきた。ジェンダー学の分野も一緒に発展してきている。
すでに多くの映画作家が、その蓄積をベースに様々なフェミニズム映画を撮っているし、新鮮な切り口のものも多い。

『バービー』が入り口になったのであれば、その奥はとても広い。
ぜひ、ぐぐっと足を踏み入れて欲しい。



《参考文献》
キャロル・ギリガン『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』(川本隆史・山辺恵理子・米典子訳、風行社、2022年10月)
山根純佳『なぜ女性はケア労働をするのか──性別分業の再生産を超えて』(勁草書房、2010年2月)
小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年8月)
パトリシア・ヒル・コリンズ『インターセクショナリティ』(小原理乃訳、下地ローレンス吉孝監訳、人文書院、2021年12月)
シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女──資本主義に抗する女性の身体』(小田原琳・後藤あゆみ訳、以文社、2017年1月