『ノック 終末の訪問者』レビュー

※結末までのネタバレが含まれます。映画を観てから読むことをおすすめします。


この映画はけっこう明確に、気候変動と従来の生活を捨てられずマジの「終末」を迎えつつある人類のメタファーだと思った。
だって実際に大きな犠牲がすでに出てるっていうのに人類、特にアクション起こさないじゃん。
犠牲を1度拒否するごとに大勢が災害で死ぬってところもそうだし、その災害は以前から言われていた、とアンドリューが言うあたりもマジで気候変動と今の社会に重なる。
しかし気候変動はデマだと信じる人たちが多くいるように、アンドリューもエリックも最初は信じない。
身を挺して警告する(拒否されると「人類は裁かれた」と言って死ぬ)人がいても、「過激な」狂信者としか見ない。
実際の犠牲をTVで見ても、なんだかんだと理由をつけて嘘だと言い張り、信じない。
どうやら本当の話みたいだ、とようやく信じる頃にはもう大勢が死んでしまっている。
それでも最後に、遅ればせながら犠牲を払う決意をして、滅亡を回避した……という結末は、シャマランが寄せる人類への希望だろうと思う。

さて、なかなか巧妙な設定だと思ったのは、選択を迫られるのが同性カップルであるということ。
もちろんクィア要素を入れたというだけでなく、人種も異なる新しい家族像の提示という意味もあるだろうけど、それだけではない。
観ていて思ったのが、エリックは旧来のハリウッド映画では女性が担っていたようなキャラである。
暴力はほとんど使わず(自衛しかしていない)、穏やかに話し、訪問者たちに共感も示し、最後は自ら犠牲となる。
そして逆に、アンドリューのほうはハリウッド映画で何度も見てきた古めかしい男性キャラだ。
エリックと娘のウェンを自ら守ろうとし、ためらわず暴力を行使し、繰り返しパートナーに対して「自分の話だけを聞け」と説き、最後は愛するものを失う。
これ、もしエリック側が女性の男女カップルだった場合、キャラがものすごく古臭いジェンダー観になってしまう。
だからといってアンドリュー側(徹底抗戦し武装する側)を女性にすると、極端すぎてわざとらしさが漂ってしまうだろう(ジェンダーとは得てしてそういうものだ)。
ストーリー上、ミラーリングする意味も特になさそうだし。
同性カップルにすることによって、そういう権力バランスを生み出すジェンダー観から解放されて、2人の関係がフラットになる。
ある意味狡いというか、手っ取り早い手法にも思えるが。

しかも同性カップル=被差別マイノリティの、人類社会に対する「恩のなさ」みたいなものも、実は重要だと思う。
彼らは家族や社会に排除的に扱われ、時にはその属性のみを理由に危険な目にも遭う。
中国から養子をとる際にも、ゲイカップルであることは隠さねばならなかった(なにせ中国だし)。
そういう意味では、人類社会に恨みはあっても、恩などない立場だ(アンドリューの台詞にもあった)。
唯一、彼らカップルが社会を気に掛けてやる理由があるとすれば、我が子のためくらい。
そういう状況だからこそ、彼らは「愛する子の未来を救うかどうか」だけを争点にして葛藤するシチュエーションに落とし込まれているのだ。
もちろんその争点自体は子持ちの人にとっては普遍的なものだし、私みたいに自分の子はいなくとも愛する甥姪がいるとか、愛する自分より若い世代の人がいる観客であれば、この問題を我が事として考えてみることが可能になるだろう。

まあ、別に自分の子とか血縁者とかでなくても、子どもの未来や人類の未来をどうしたいか、という風にもできたかもしれないから、家族主義なところが欠点だと言われるかもしれない。
しかし、個人的にはシャマランは養子をアジア系にして(現実によくあるとはいうものの別にほかの人種でもよかったわけだ)、代理母出産などにしていないことからも血縁主義自体は明確に否定しているし、レナードに「学校の子どもたちの笑顔を守るために来た」と言わせたりして、実際にはもっと単純な──子どもたちを大人が責任もって守ろう、といった道義の問題で考えてると思うんだよね。

映画のエンドクレジットの終わり、小屋の扉を叩く7回のノックの音が流れた。
決断の時は目の前に来ている。ノックはもう鳴り響いているぞ。君の耳にも。と言われた気がした。
現実を直視して、最善の方法をとれ、とも。

荒唐無稽なストーリーではあるけれど、わりとオーソドックスに社会に対する責任感を問うている映画だったと思う。

2023年4月7日