『イコライザー THE FINAL』

(米2023年 アントワン・フークア監督)

※『イコライザー』1~3作目のネタバレが含まれます。



今回マッコールさんが救うのは、教会の足元にある町という象徴的なコミュニティ(空撮でそれがきっちり強調されている)である。
それだけでなく、マッコールさんの台詞にも宗教的な言葉が並び、最後のお仕置きタイム中も町のほうでは教会の祭礼らしきものが行われていて、あたかもマッコールさんのオシゴトに町のみんなが祈りを捧げているかのような構図になっていた。
なるほど、マッコールさんは神があわれな子羊たちに使わした羊飼いという位置づけなのかと思った。

ただし、今作の肝になっているのは、マッコールさんが町を助けることになったのは、そもそも町の人々がマッコールさんを助けたからであるという点だ。
劇中、悪党に対してマッコールさんが「3週間前なら(自分がおまえに)会うことはなかったが、今はここにいる」(大意)と話す場面があった。
マッコールさんは目に入った人から助けちゃうので、視界に入って悪事を働いたら命がないのである。
逆に言えば、視界に入らない限りはセーフということでもある。
で、マッコールさんが町に留まっていたのは、町の人々の人情あってのことだ。

マッコールさん、怪我で前後不覚になるほどたいへんな目に遭うのも、そこで他人に助けられるのもシリーズ初。
マッコールさんを助けたエンツォ(医師)とジオ(警官)は、マッコールさんの素性も分からないままに命を助ける。
彼らは、ここで国家が作ったルール(銃創患者は通報するなど)に従うことを留保し、怪我人が抱えているであろう事情を思いやるほうを優先するのだ。まさに人情。

それだけでなく、カモッラのボスが町の広場でマッコールさんを殺そうとした時も、銃を振り回す残虐なマフィアを前に、町の人々はスマホのカメラで動画撮影して立ち向かう。
投降したマッコールさんを団結して守り、カモッラ一味を追い払い、その結果マッコールさんにお仕置きタイムが用意されるのである。

要するに、町の人々の善意(と信仰)が、傷ついた羊飼いを癒やし、守り、最終的に町の人々に恩寵として返ってくる物語だ。
町を蝕もうとした悪魔は、神の使徒たる羊飼いによって懲らしめられる。
こう見ると神話めいた話になっているし、そういう風に解釈できる演出がなされていた。
アントワン・フークア監督は『マグニフィセント・セブン』においても、神が助けてくれない災厄を、人間たちの団結が退ける姿を描いた。
今作はそのリフレインのようでもあった。

さて。

『イコライザー』に限らず、ああいう町の片隅の庶民を助けて悪党に天誅をくだすさすらいのヒーロー譚というものは、日本の浪人ものの時代劇・時代小説にせよ、中国の武侠小説にせよ、アメコミヒーローにせよ、有り体にいえば、弱者が権力者に蹂躙される時代に庶民の娯楽として歓迎される憂さ晴らしコンテンツである。
虐げられた弱者をヒーローが救う、それらは公助・共助・自助でいうと公助が不在の状況下で、公になりかわって庶民を助ける存在を空想することにほかならず、庶民は基本的にはだが、助けられるだけの受け身の存在である。その前提には公助不在の状況の容認というか諦めがあるため、社会的な批評性は自ずと目減りすることになる。(だからダメというのではない。娯楽なのでそれで良い。)

『イコライザー』シリーズの1作目では、マッコールさんはそういう民間のヒーローだった。
続編『イコライザー2』では、友人殺害への復讐譚でもあり、自分と似た力を持っていながら悪党に堕ちた人間に天誅をくだす物語だった。
今作『イコライザー THE FINAL(以下イコライザー3)』では、1作目同様、マッコールさんはふたたび庶民を助ける。
しかし、上で説明した町の人々とのかかわりなど、マッコールさんの立ち位置が1作目とは明らかに変わっている。

キリスト教の信仰に基づくアメリカ市民の慈善事業などはまさしく共助の事業で、持てる者が持たざる者を助ける、民間でやる富の再分配だ(日本のこども食堂とかも同じようなものか)。
再分配とは、人々の間に格差のある状況を"イコライズ/equalize(均等化)"するために行うことだ。
そういう意味で、イコライザーことマッコールさんは富(だけ)ではなく、暴力&正義の再分配に単独でいそしんできた人物である。
『イコライザー』ではロシアン・マフィアを壊滅させ、『イコライザー2』では殺し屋/傭兵グループを壊滅させた。
ほかにも小モノをたくさんお仕置きしており、それらも含めてこれまでマッコールさんは基本的に民間でやってきて、影響力も民間の枠を出てこなかった。

それが、今作『イコライザー3』では、偶然の成り行きとはいえ、テロリストの資金源を請け負っていたカモッラを一つ滅ぼす。
カモッラが支援したテロリストたちは劇中、駅を爆破しイタリア市民に対する攻撃もしかけているのだ。
マッコールさんの今回のオシゴトは、今回は最終的にイタリアの公共の利益・イタリア警察(国家)への支援として還元され、さらにアメリカのCIAへの支援にもなった。
つまり、公助してくれない公の力を、共助しあった民間の力が上回る! という風景がシリーズで初めて描かれている。
シリーズで初めて、コミュニティと対等な関係で──人知れず一方的に与えるだけではない関係の上で、力を合わせたマッコールさん。
過去作のようにマッコールさんひとりの力ではない、町の人々との協同が加わることで、再分配の力──つまりは共助の倫理それ自体が、本来は警察やCIAが担うはずの社会秩序維持の領域で、ついにはお株を奪ってしまったのである。

民間の善意と連帯がヒーローを「再生」させ、かつある意味コミュニティ内で育てることによって、与えられなかった公正さを自ら獲得する。
これはもう、共助の範囲を大きく超越して、コミュニティのアナキズム的自治を描いているとはいえないだろうか(マッコールさんを通報しなかった判断もそれっぽい)。
あのイタリアの町の人々が互いを気に掛け合う互助精神、それぞれが得意とすること(マッコールさんはお仕置きですね)を受け持ち社会を回していくあのコミュニティは、信仰に拠って団結しているというより、むしろアナキズム的理想郷のように見えた。

もともと今作をシリーズ最終作として考えていたというフークア監督。
最初は虐げられた庶民にとっては天からの恵みだったマッコールさんを、ついに「善意の庶民」の一員として地上に降ろし、地面に足をつけさせた。
1作目では「死んだ人間」だったマッコールさんが、2作目では「蘇った人間」となり、3作目では「生きた人間」として居場所を得たのだ。
続編ができて欲しい気持ちはもう喉から手が出るほどではあるが、これが最終作になるとしても納得の作だと思う。



P.S.
アナキズムは危険な思想じゃないよ!
興味のある方はぜひ松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社)とか読んでみてね。

(2023/10/7)