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子ども時代の病んだわたし


私はある時期、やたらと石を拾って帰る子どもだった。
今なら何かしらの病名がつきそうだから、もし今から書いていく症状を読んで診断できる方がいたら教えてください。専門家限定ね。素人は黙っとれ。


●症状

小学3年生の頃だから、たしか8~9歳だった。春から初夏の頃である。
下校時、通学路(おおかたはアスファルトで舗装された道)に落ちている小石が目に入ってしまうと、それを拾って家に持ち帰らないと気が済まなくなる「症状」が出た。
目に入る小石すべてを持ち帰る日々が、ある時突然に始まったのだ。きっかけはさっぱり記憶にない。

小石の大きさは指の先ほどからもう一回り小さいくらい。あまり大きなものは対象にならなかった。
色とかツヤとか質とかは問わず、とにかく目に入るとそこでお別れできない。
「ここでこの石を拾わずに帰ったら、私はこの先一生、二度とこの石と再び会うことはない」
それがつらくて、小石を拾って持ち帰っていた。いわば一期一会を(小石相手に)めちゃくちゃ重く見ているような理屈である。
石と自分の一瞬で終わってしまうはずの出会いと別れを、一瞬で終わらせないためにやっていた。
今考えると常軌を逸しているけれど、その時は切実だった。大真面目だった。

拾った石はズボンやスカートのポケットに入れる。
いったんは拾わずに通り過ぎたものの、今生の別れのつらさに涙が出てきて、来た道を何メートルも戻って行って拾うなんてこともしょっちゅうやった。
なんだそのドラマチックさは。
なにせ、目に入る石すべてに対して「ここでこの石を拾わずに帰ったら云々」と感じるわけなので、家に着く頃には子ども服の小さなポケットがパンパンである。
そして帰宅後は、自宅の学習机の引き出しの中にポケットの中の石を全部しまって、ようやく私は安心するのだった。
これでいつでも石たちにまた会えるからだ。

自身はその行為をどう思っていたかというと、なんとこれがめちゃくちゃ嫌だった。まったく楽しくなかった。
ポケットの中にたまっていく小石は重く、布地の上から私の肌を叩き、時にはひっかいた。
感情の上では完全に嫌々、仕方なしに運んでいたにもかかわらず、拾うのをやめられないことに私はいつも苛立ったし、混乱した。
そりゃあ、見る石見る石拾って帰るなんて普通の行動ではないことくらい、小学校中学年にもなれば分かる。
私は頭がおかしい、私は異常だと自分でも分かっていたけど、どうしてもやめられなかった。
その後ろめたさ、恥ずかしさから両親にも内緒にしていた。


●当時のわたし

私には毎日必ず一緒に下校するような、仲の良い友達がいなかった。
そう、私はかなり敬遠されるタイプの児童だったのである。
同じ方向に帰る女子の同級生(同級生=クラスメイト。田舎なので1学年1クラスしかなかった)は自分以外に5人だけで──というのも、住んでいたのができたばかりの新興住宅地だったため──そのどの児童も私を自分の「仲良し」とは考えていなかった。
そのため、私は毎日どこかのコンビかグループに「一緒に帰ろう」と声をかけ、運良く「いいよ」と言ってもらえないかぎり、1人で帰っていた。
そもそも私に声をかけられないように、逃げるように帰ってしまう子たちもいた。
小学生なんて、同級生に嫌われるなんてのは人間として無価値であるのと同じ、みたいに考えたりする。視野が激狭だから。
私も当時は自分を無価値だと感じていたし、毎日がっつり傷ついていた。
母親にその悩みを話したりもしたけど、「べつに友達なんかいなくたっていいじゃん」という対応で、子どもとしては何の役にも立たなかった。

通っていた小学校は集団登校だったけど下校はバラバラで(まあ普通はそうか)、通学路の特性からして「誰か一緒に帰る人がいる」というのがものすごく重要だった。
学校は山あいの集落の中にあって、生徒の多くは地元集落在住、私と同じく新興住宅地の方面から来る児童は隣の町から通う格好。
小学校から新興住宅地までは2kmほど、小学生の足で30~40分の道のりだ。
アップダウンがあったのでかなりしんどかった記憶がある。
途中には住民が立ち寄るような場所は何もなくて、崖と林の間にアスファルトの道路だけが続いている。したがって基本、歩行者は登下校の小学生のみ。
まともな歩道なんてなくて、片側一車線の狭い道路の路肩に白線があるのみ。
日陰があまりなく、暑い日には水筒を忘れてきたせいで脱水症状を起こす児童もいた。
というわけでかなり過酷だったので、登下校の時間はただでさえちょっと憂鬱。
友達とふざけながら、お喋りしながら帰ることでそのしんどさが少しやわらぐのだった。一緒に帰る人がいればね!

一緒に帰る人がいないので、1人なので、私は石を拾い放題だった。なにせ帰る途中ですれ違う児童も少ない。
見とがめる人も不審に思う人もいないので、毎日ポケットをパンパンにして帰った。

それでもごくたまに、誰かが一緒になる時もあった。
運良く同級生が一緒に帰って「くれた」り、学年の違う顔見知りの児童となんとなく同道したり、そんな時だ。
やっぱり石を拾いたくなったけど、そういう日は拾うのを我慢できた。
拾う姿を見られたくない気持ちが勝ったわけではなく、拾いたいという気持ちがお喋りでまぎれて消散していたのだ。
登校時には石を拾いたくならなかったのも、集団登校で常に誰かが一緒だったからだと思う。

どんな病名がつくにせよ、私の当時の状況──「仲良し」がいなくて、同級生からしょっちゅう拒絶されて、それが自分自身の無価値さの証明みたいに思えていた──が、原因の一つだったと思う。


●親バレ

たしか夏休み中だった。長い間登校することがなく、石を拾うのも一時ストップしていた時期だ。母親にバレた。
何かの探し物をしていて、私の学習机の引き出しをあけた母が、そこに満ち満ちた小石に仰天したのである。
小石を見つけた母は大声で私を呼びつけ、きつく私を叱った。
まあ要するに「汚いじゃないか」ということだった。
普通より強く叱られたのは、母が潔癖症だったこともあるだろうし、想定外の事態に母なりに動揺もあったからかもしれない。
母が私に命じたのは、即刻引き出しの中から石を全て取り出して外へ捨ててくること、引き出しの中をきれいに掃除することの二つだった。なぜ石を拾ったのかについては問われなかった。
私はすごく悲しくて、泣きながら小石の一つ一つに別れと謝罪の言葉を言いながら、なるべく団地の入り口から近いところにまとめて捨てた。
ものすごく時間がかかったのを覚えている。
そして母が石を汚いものとしか見なかったことから、「誰にも私の気持ちは分かってもらえない」と孤独感を深くした。

ここまでの話だけでもかなり常軌を逸しているなと我ながら思うが、この「母に見つかって泣きながら捨てる」をその後もさらに2回やったのである。
石拾いは、やめたくても自分ではやめられなかったからだ。
長めの休みのたびに見つかった──というか母は休みのたびにチェックしていたのだと思う。学習机の引き出しを。

最近の親御さんだったらどうだろう、小児精神科に連れて行くとかするのだろうか。
平成初期の田舎暮らしの人間にはそんなこと思い浮かぶはずもなかった。
セミの抜け殻を集めるみたいな、よくある子どもの奇行くらいに思っていたのだろう。
実際その程度のことなのかもしれないが、よくわからない。


●治療?

私は3回目に石を捨てさせられる頃にはもう気づいていた。
いったん捨ててしまうと、石には何の未練も残らなかったことを。
そもそも、拾って持って帰った石を引き出しの中にしまった後、再び見返すこともまったくなかったのである。ただ、「いつでも見たいときに見られる」という安心感が重要だったようだ。

さらに3回目にはついに、困惑しきった母親からなぜ石を拾いたくなるのかと質問された。
多分ありのままを正直に答えたと思う。母親がどう返事したのかはちっとも覚えてないんだけど、そうやって人に話したことをきっかけに、自分でもこの癖をちょっと対象化できた。
そして、自分がつらいわけだし、なんとか治せないかと考えた。もちろん我流である。小学3年生の。

私が対策として実行したことは、
①石と「出会って」しまわないように、なるべく地面を見ないで帰ること
②ポケットに石を入れて帰るので、ポケットのない服をなるべく選んで着ること
の二つだった。
これがてきめんに効いた。
まず地面を見ないで前を向いて歩くように意識することで、「出会ってしまう石」が格段に減った。
当たり前のことである。それまで一体どれだけ地面を見つめて歩いていたのだろうか。
その上、たとえ拾ってしまったとしても入れておくポケットがないので、手放すしかなくなった。
もっと厳密に言うと、自分の中で「ポケット以外には石を入れない」というルールも作っておき、それを実践したのである。
拾い上げた石には、引き出しの中から捨てるときと同じようにねんごろに別れと謝罪を述べて、路上に戻し下校を続ける。
これを最初の頃はいちいち泣きながらやっていたけれど、何日かすると「もう今までにかなりの数とお別れしちゃってるしな……」という諦念のほうが出てきて、徐々に石と「出会う」こともなくなっていった。
最終的には、路上の石と目が合っても、かつては逃れられなかった別れがたい気持ちが、少しも湧かなくなったのである。


●回顧

思い返せば思い返すほど、9歳当時の自分は悩み多きお年頃だった。
小さい頃から続けていた習い事の挫折をしたのもこの頃だったし、ずっと書いてきたとおり仲良しがいないことに悩んでいたし、成績が良くても父親は絶対に褒めてくれなかったし。
ピアノを習ってもぱっとしなかった、運動神経は悪かった、学校の中にも外にも家庭内にも居場所がなかった。
唯一、フィクション小説を読むことで空想の世界にひたり、現実から束の間離れることができた(だから読書だけはやたらとしていた)。

たぶんあの小学3年生の1年間は特別に、子どもの心がちょっと負けてしまう程度の辛い時期だったのかもしれない。
そう考えるのは、4年生にあがってから色々と新しいことが起きたからだ。
ずっと興味を持っていた英語を習い始めて新しい世界が開けたり、地元の合唱団に入団して学校の外に居場所ができたりした。
実際、9歳の私がたてた対策が上手くいって石を拾わなくなったわけではなくて、単に精神的な抑圧が軽減されたことが大きいんだと思う。

その後も結局、「仲良し」がいない状況は小学卒業まで続いたし(1学年1クラスだからクラス替えもないんだもの)、学校も先生たちも嫌いなままだった。
中学卒業と同時に遠くへ引っ越してしまって、小学校時代に住んでいた町には一度も戻っていないけど、戻りたいと思うこともない。
同級生に敬遠されていた件は自業自得な面が大きいんだけど、おバカな小学生には自覚もなかったしどうしようもなかった。
あんなおかしな考えにとらわれてつらい気持ちになっていたのも不幸ではあったし、こういうのは所謂ネガティブな経験なのかもしれない。

ただ、おかしくなった自分を自力でなんとかした!(実際はそんなわけではないかもしれんが)という経験は、その後の長い間、自分にとっては希望の種になった。
あと、一人で遊ぶのが得意になったとか、読書に打ち込んでいたおかげで国語科が得意になったとか、自分の精神状態が危うくなる前に対処するという知恵がついたこととかは、中学にあがって以降もずーっと役に立ってきた。良くも悪くもあの小学生時代がなければ今の自分はない。
人生は、あなたの選択の総和である。……だったっけ。
どれを引いても今の私はない。今の私も100点満点ではないけど、なんにせよ。

このブログを書いていて気になったので、Googleマップのストリートビューで昔の通学路を見てみた。
今も小学生たちが歩いている姿が写っていた。水筒を持って。水分は大事だ。
私が石を拾っていた道の半分くらいは、新しくできた道に取って代わられて通行止めになっていたし、舗装は全部新しくなって、今ではきちんと防護柵のついた歩道が整備されていた。
一番大きな違いは、小学校が近くにではあるが移転していたこと。
歩く時間は昔と比べて10分ほど短くなっただろうと思う。地元集落在住の子どもたちにとっては、かえって不便になったのかもしれないが。
以前小学校があった場所も見てみた。何の変哲もない、ありきたりなアパートが何棟か建てられていて、ノスタルジーに浸る余地もなかった。

かくして私の思い出の小学校は、色んな部分が上書きされて、跡形も無く消え失せた。
悲しい思い出はあの木造の校舎と一緒に葬るのみ。どうせあと何十年かすれば、誰の記憶からも消えてしまうだろう。
だけど、身になったものは残る。だからこそ、こうして書き記され得るのだ。

2022/09/14