『イニシェリン島の精霊』感想

 アメリカの保守/リベラルの対立を例に挙げるまでもなく、多くの国の内部でイデオロギーによる市民の「分断」が起きている、という言説は、誰しも近年どこかで耳にしたことがあるだろう。ただし、「分断」については様々な指摘がなされてきた。分断を悪とするその言説自体がリベラル派を黙らせたい保守派の立場に基づいているとか、SNSの普及で分かりやすく可視化されただけで、分断自体は大昔からあったのだとか。


 ともあれ、イデオロギーの対立がいよいよ一般大衆にとっても身近なものになってきたこともあり、映画の中で大なり小なりそれが描かれることが増えてきた。『イニシェリン島の精霊』ではアイルランドの内戦時代を舞台に、島の中の男二人の対立が描かれると事前に聞いていたため、なるほど今作はそれがテーマかなと思っていた。

 しかしそこはマーティン・マクドナー、私が思いつくような話を書くわけがない。蓋を開けてみれば、男二人の対立はイデオロギーによる分断がテーマではなかった。その逆で、イデオロギーのない場合でも対立を生み出していく、どうしようもない人間の性(さが)のショーケースだった。

 

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 男二人の対立が本格化するのは、コルム(ブレンダン・グリーソン演)自身が、なぜパードリック(コリン・ファレル)のお喋りに付き合いたくないのかを説明する場面からである。ロバの糞の話を2時間聞かされたこと、音楽をやるためにこれ以上無駄話に時間を割きたくないことを、コルムはまくしたてる。何も生み出さない、重要な内容でもない退屈なお喋りは、芸術家のコルムにとって時間の無駄。

 この場面、自分の経験上思い当たることがあって、申し訳なさも感じつつ笑ってしまった。二人がそれまでどんなお喋りをしていたのか、それは映画の中ではそれ以上明かされていないが、長時間話したのに新しいことは何も聞けなかったお喋りや、お互いにとってどうでもいい話題なのに長く続いたりしたことなど、いくらでも経験がある。そんなお喋りをすること自体は別に構わないのだ、ただし、たまにであれば。それが毎日であればどうだろう? コルムの気持ち、めちゃくちゃ分かる。しかし、世の中にはパードリックのように、それこそが愉快であり毎日「やりたいこと」、という人々もいる。他愛のない話で時間を潰すことが楽しい、無為が毎日続くのが当たり前な人々が。自分の気持ちがハッピーであることが最重要で、世の中の制度がどんなに不公平で理不尽でも、改善させようとか進歩させようとか、そんなことは思いつきもしない。彼らは「良い人間」であろう、確かに。無害なだけでなく、親切で優しい人間であろう。

 でも、そんなお喋りはコルムにとってクソの役にも立たない。コルムにはもっと意義深い「やりたいこと」──世の中に自分が生きた証を残す作曲──があって、そのために無駄にできる時間はない。


 コルムとパードリックの対立、というか、コルムがパードリックとの友人関係を断ち切りたくなった理由は、要は知的階層の差として説明されている。

 まず、対岸で起きている内戦に対しても、コルムはある程度関心を持ち、何が起きているのかは理解している。一方でパードリックは、なぜ内戦が起きているのかもよくわかっていない(家にあった新聞もおそらくほとんど読んでおらず、シボーンが読んでいるだけなのではないか)。コルムの一人暮らしの家には蓄音機があり、いくつも絵が飾られ、使い勝手より見た目重視の灰皿があり、東洋の仮面(能面とおぼしきもの)がインテリアとして飾られている。芸術を楽しむアーティストの家だ。コルムの留守中に侵入したパードリックは、仮面を芸術品として鑑賞することもなく、自分の顔にかぶせて遊ぶ。音楽に限らず、創作は長時間専心して向き合うことが必要だが、パードリックにはそれも分からない。


 そもそも最初から、パードリックはコルムの言い分を真剣に受けとめることができない。彼にはコルムと自分の階層差が見えない(というかそういうものが存在することも分からない)からこそ、相手と自分が同じように考えるはずだと思い込んでいる。そして謝罪や話し合いで解決できるはずと信じてやまない。

 もしパードリックに、イデオロギーが宿る程度に物を考える性質があって、政治談義でもできたならば、どうなっていただろうか。イデオロギーの対立が起きてコルムと仲違いすることがあったにせよ、喧嘩の理由が分からずにもめることはなかっただろうし、少なくとも退屈な無駄話と見下されることはなかっただろう。

 ……と、コルムは考えている。

 そう、結局は知的階層の差以上に、コルムの側にパードリックに対する見下しが生まれてしまったこと、それが問題の根っこにあるのだ。


 とはいえ、パードリックを見下すコルムも、けっして知的と言えるほどではない。マーティン・マクドナーはさらに上層の知的階層にあるシボーン(ケリー・コンドン演)を使って、それを辛辣に指摘する。自分とパードリックの仲裁をしようとするシボーンに対しコルムは、「君には(パードリックの退屈さが)わかるだろう」と言う。シボーンとパードリックの知的階層が異なることを彼は知っている──シボーンは「こちら側」だと認識しているのだ。ただし、実際にはシボーンのほうがはるかに教養ある人間である。それは、コルムがモーツァルトを17世紀の作曲家だとしたのを、シボーンが訂正する場面からもわかる。

 また、前述のコルム宅の能面も、芸術品として大切にされているようには見えない。手が届く高さに吊るされて、暖炉から出る煤にも湿気にもさらされている。映画タイトルはコルムが作った曲のタイトルでもあるのだが、なぜ「精霊(バンシー)」なのかについてコルムは「響きが良いから」と、単に雰囲気で選んでいることも明かす。


 コルムのパードリックに対する行動も、実際には随分粗暴といえる。そもそも、付き合いを断ちたい相手がいたら──しかも徐々に遠ざかるのではなく、なるべく急いで距離を置きたい相手がいたとしたら、もう少し丁寧に説明してもよいだろう。コルムはそれをせず、性格も熟知しているであろう長年の友人に、突然もうおまえとは話したくないと告げ、話し合いも拒否し、それでもと説明を迫られると相手を傷つけることも厭わず本心をぶつける。それこそ、見下しているからだろう。さらに、混乱した相手が(当然)和解をとりつけようとすると、自傷行為で脅迫する。楽器が弾けなくなるにもかかわらず指四本切り落とすに至っては、音楽に打ち込むために友人関係を終わらせたことを思えばまさに本末転倒であり、もはや相手を無理矢理「加害者」の立場に追い込むための執念としか思えない。


 ただし、この歯止めのきかなさに訪れた転機が、ミニロバのジェニーの死だ。パードリックだけが負うはずだった「加害者」の看板を、自分も負うことになってしまったことで、今度は道徳的窮地に立たされる。だからこそ、パワーバランスを取り戻すためにコルムの放火を受けいれたのだろう。火が放たれた当初屋内にとどまっていたのは、自分が焼け死ぬことでパードリックを決定的な「加害者」にしてしまうことを考えていたからではないか。しかしさすがに命までは捨てられず、最終的には脱出し、一旦引き分けの状態として手打ちにする選択をした。

 どこまでも無意味な諍いである。周囲を振り回して迷惑をかけ、何も得ず何も守れなかった。もともと多くを持っていない男たちが、お互いに最も大切なものを失っただけで終わった。パードリックは妹とジェニーを。コルムは楽器を弾く指と家を。

 

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  以上のように、 『イニシェリン島の精霊』の登場人物には、特定の政治思想のようなもの投影されていない代わりに、いくつかの知的階層が設けられている。大きく下層、中層、上層と分けるならば、下層にパードリックやドミニク(バリー・キオーガン演)、中層にコルム、上層にシボーンという格好だ。現実には中層にあたる人口が最も多いだろう。知的階層の差の自覚からくる見下しや、文化が交わらず理解し合えないことで発生する悲劇。中層の人間が持つ危うさを物語の推進力としつつ、振り回される下層の側に視点を置いて観客にその危うさを体験させる、アイロニックな構成といえる。


 これだけでも充分に含蓄ある物語だが、この映画はそれだけではない。パードリックとコルムの無意味な諍いの過程に、知的階層とは別の、制度的階層も重ねられている。権力の象徴たる神父と警官が上層に、普通の男たち(コルムやパードリックら)が中層に、家父長制下の女性(シボーン)と子ども(ドミニク)が下層にある階層だ。神父も警官も制度的には島内の人々を上から見下ろしているが人間としては低俗で、警官に至っては完全に悪人である。イデオロギーはないが、権力を笠に着て暴言を吐き、暴力を振るい、自身を正当化する。矛盾に満ちた、知的階層を上回る強固さで人間関係を縛る階層である。


 知識人女性シボーンは、本土で図書館員の仕事を得られる程度の教養があり、色鮮やかでお洒落な服装で暮らし(黄色のコートや赤のストールにカーディガン、青のワンピースと3原色使い)、単調な島での生活に限界を感じている。シボーンが未婚でいるあたりも、彼女の知性に見合う相手が島内にいなかったことをうかがわせる。友人はもっぱら本で、おそらく兄がパブに出かけている間が、彼女にとっては読書に没頭できる安らぎのひとときだったのに(兄がパブから早く帰ってくるとはっきり邪魔そうにしている)、コルムが兄を拒絶したせいでそのひとときすら奪われてしまう。

 彼女が兄パードリックに対して母親のような態度で接し、彼が良い人間であることを「それでいい、そのままでいい」と説くのは、単純な兄妹愛だけからくるものではないだろう。パードリックの退屈さ──物事をよく考えないからこそ無害な性質、すなわち家父長としてシボーンを支配できる立場でありながら、それを自覚していないことが、実は得がたい美点でもあるということを、その知性で理解しているからだ。

 しかし、それでも島内でシボーンは「いきおくれの女」でしかなく、知性は二の次とされる。

 ちなみに、シボーンが家で使うマグカップは海を渡る鳥の模様が描かれている。物語の終盤に海を渡り新天地に向かう彼女を象徴するかのようである。シェリー酒を好むという設定も、彼女が作家になる未来を示唆しているように見える(ディキンソン、ウルフ、クリスティなど女性作家が好んだ)。シボーンが島を出て行くは、この映画の中で唯一の明るい展開だ。


 ドミニクは本で得た知性は持たないが、天性の勘と純真さゆえにパードリックの美点を理解し、尊敬していた。家父長であり警官という二重の権力を持つ父親から虐待されながら暮らし、島内でも人々からはやや見下され、自立の目処も立たない境遇のドミニクは、しかし唯一信頼していたパードリックの変節に失望し、ついには悲劇的な死を迎えることになる。

 劇中「足を滑らせた」と言われていたが、あれが実は自死だったと考えるならば、シボーンへのプロポーズはドミニクが家を出て父親の支配から逃れ自立するための、最後の頼みの綱だったといえる。当然あっさり断られたが、断った側のシボーンはそれを知るよしもない。おそらくドミニクの死を事故死と聞くだろうし、そもそもドミニクの境遇もよく知らなかっただろう。

 ドミニクは、知的階層および制度的階層の両方で下層にあり、それゆえに真に理解されることがないまま、歴史に残ることもなくこの世から消える。コルムは芸術によってそうした運命を避けようとしたし、シボーンは新天地で自分を理解してもらえる人と出会うことができたかもしれないが、ドミニクにはそんなチャンスすら与えられなかった。権力の象徴たる教会にドミニクが行かなかったのは、自分を支配するものをこれ以上増やしたくないというある種の抵抗だったのかもしれない。

 

 これらを考えると、パードリックやコルムの諍いに潜む特権性が浮かび上がってくる。彼らは友人を選ぶことができ、抑圧に抵抗することも抑圧を気にしないことも選ぶことができ、どう暮らすかを自分で決めることができる。だからこそ無意味な対立に専心することもできるのだ。

 シボーンには彼らと同じ特権はなかったが、教養を得る特権があったことで少なくとも島を出て行く力を得た。

 一方、ドミニクには何もなかった。

 

 イニシェリン島と似たような島国に、私は住んでいる。たくさんのパードリック、コルム、ドミニクとともに。