『コヴェナント/約束の救出』
(米2023年 ガイ・リッチー監督)
※重度のネタバレが含まれます。
まず最初に、この映画は、物語は実際の出来事の数々(多くの現地人通訳、そして彼らと行動を共にした多くの兵士の実体験)に着想を得てはいるが、ストーリー自体はフィクションである。軍曹ジョン・キンリー(ジェイク・ジレンホール演)も通訳アーメッド(ダール・サリム演)も架空の人物であり、物語の中のエピソードも複数の人物の体験をモザイク画のようにつなぎ合わせたものと考えるべきである。
映画にせよ小説にせよ、虚実を混ぜた作品において注目すべき点はいくつかあるが、その内の一つは、「実」の部分(今回は現地人通訳たちと兵士たちの実体験)をどのようなナラティブのために(何を語るために)使ったか、どの部分に真実味を付与しているのか、だと思う。
『コヴェナント/約束の救出』が持つナラティブは、早い段階で示される。
冒頭、部下の兵士ジャック・ジャックと通訳が爆弾で殺害された後、新たな通訳としてアーメッドが加わり、彼を伴って街の捜索などに向かうジョン・キンリーのチームは、ジャック・ジャックのことは偲んでも、一緒に亡くなった通訳には一切触れない。米軍にとっても米軍兵士にとっても、現地人通訳は作戦遂行のための一種の「装備」であり、けっして「仲間」ではない。
戦争をする国は、敵国民を他者化し、非人間化し、「殺してよい生き物」にする。
それだけでなく、戦争を継続する過程で使用する自国側の人材もまた、戦争の「コスト」としてやはり非人間化するものなのだ。
また、この冒頭から数十分の時点では、ジョンにとっても現地人通訳がその程度の存在であるということ、そしてそれを当然理解しつつ、最大限役に立てるよう職務を遂行するアーメッドの姿も同時に示されている。
アーメッドはけっして無私の人間ではない。
最初は事情通として役に立ち、のちに命がけでジョンを逃がしたアーメッドだが、彼にはそうする理由があった。
大きなリスクを冒してでもジョンを連れて帰ることでアーメッドが得られるものは、その功績に見合う報酬──迅速なビザ発給と家族の人数ぶんの飛行機チケット。
それはすなわち、アーメッドにとっては、ただ生き延びることよりも重要な、自分と家族の未来そのものである。
ジョンの家族にとってジョンが生死不明であった期間、アーメッドの妻にとっても夫が生死不明だったのだ。
重傷のジョンを置きざりにして一人で逃げるのが、普通ならアーメッドにとっての最善策だったはずだ。
しかし、彼は米国と交わした契約(コヴェナント)のために、その道を選ばなかった。危険を冒してもジョンを生かしたのは、単なる親切心ではない。
第一に自分と家族の未来のためだ。米国人兵士を救うという恩義を米軍に与えることで、早くビザを手に入れる期待があった。
ジョンのほうもそう理解していた。自宅に帰り療養し始めた頃のジョンは、アーメッドに感謝はしても、ただの利害の一致と考えていたのだろう。
ジョンが動揺するのは、米国がアーメッドとの契約を反故にしたことにより、自分の命を救われたことが職務外の恩義に転換してしまったからである。
それだけではない。
どれだけ問い合わせても梨のつぶての移民局、アーメッドを保護しようともしない軍、それが意味するのは、「自国民(=ジョン)の命が救われた」ことすら、アメリカ合衆国にとってはたった三人のビザを発給するのも難しい程度の恩義でしかない、という事実だ。
ジョンは、自分のような米軍兵士も、国から見れば実は現地人通訳と大差ない消耗品なのだという残酷な現実を突き付けられたのである。
この物語の、最も大きなプロットに使用された「実」がこの部分である。
ジョンはやっと自分とアーメッドが「同じく消耗品扱いされた人間」、言い換えれば「同じく非人間化された人間」であることを知るのだ。
ジョンは怒る。当然だ。
しかし、これは軍を通して契約で結ばれた職業上の関係(上下のある関係)でしかなかった二人が、完全に人間同士の関係に、対等な一人一人の人間になった瞬間でもある。
だからこそ、ジョンにかけられた「呪い」は、アーメッドがジョンを逃がすために払ったリスクと同等のリスクを自ら払い、国に負わされた借りを返すことで解くしかなかった。
民間軍事会社のパーカー(アントニー・スター演)のような、「あのジョン・キンリーとアーメッドなら」といった「条件付き」の努力とは異なる、無私の努力で報いるしかなかったのだ(パーカーのあのセリフ、エモさどころか空しさを与えてくるものだった)。
また、アーメッドにとっても、潜伏中の自分の目の前にジョンが現れたその瞬間に、彼との人間同士としての関係がようやく生まれるのだ。
アフガニスタン派兵中、米軍兵士たちの中には現地人通訳と絆を築いた人々も多くいたという。
当然ながら、ジョン・キンリーとアーメッドのような体験はせずとも、共に行動する日々の中で、当たり前に人間同士として認め合う人々はいた。
この映画はそういう描き方をおそらく「あえて」していない。
「現地人通訳と米国人兵士が戦争を通して絆を築いた」という、ともすれば戦争称賛になりかねない安直な義理人情話に着地させないためだろう、終盤までジョンとアーメッドの関係にウェットなものを持ち込ませないようにしている。
その上で、現地人通訳との約束を反故にし命を危険に晒したという「実」──通訳と兵士をある意味強制力をもって媒介する存在、すなわち国家やイデオロギーの虚妄をジョンが知り、動揺する場面を起承転結の「転」にすることで、ナラティブの中心に据えている。
それらを通して、戦争とは国家が常に誰かを──敵国民も自国民も──非人間化し続けることで維持されるものなのだということを明確に示し、かつ他者の非人間化に気づくことがヒューマニズムの最初の一歩であることも同時に示そうとしたといえよう。
実はとてもシンプルだが、重要かつ基本的なことだ。
そもそも、どんな戦争も虐殺も他者の非人間化から始まるのだ。
ちなみに、非人間化への抵抗は、劇中のタリバン兵描写にも表れていた。
中盤、ジョンを発見したタリバン兵が激昂してジョンを殺そうとする(しかし生け捕り命令のため仲間に止められる)場面があり、そのタリバン兵はおそらくジョンに身内を殺害されたのであろうことを、観客が推察できるようになっている。
タリバン兵もまた人間であり、家族や身内がいるという当然の事実、そして中には強いられたり周囲からのプレッシャーによってタリバン兵にならざるを得なかった人々が存在するという現実を、否応なく連想させるシーンだった。
その一方で、タリバンの司令官はどこかの安全な部屋から電話一本で命令し、兵士たちを死地に向かわせている。
オフィスから一歩も出ることのない大佐(ジョニー・リー・ミラー演)と同じように。
このように、ストーリー上悪役にしかなり得ないタリバン兵にさえ、完全な非人間化はしないよう努力しているのが分かる(もちろん色々な意味で限界はあるものの)。
タリバン兵も、タリバンに協力する人々も、タリバンを嫌う人々も、嫌いながらも協力せざるを得ない人々も、皆アフガニスタンに住む一人一人の人間であり、一人一人に生活がある。
アメリカ合衆国の一部の人々が忘れているそれらの事実を、もちろん完璧に描けたわけではないが、指摘してはいる。
娯楽映画としての張力を保持しつつも、問題を正視しつつ制作されたように感じた。
現地人通訳たちが米軍と結んだ契約は反故にされたままである、との字幕で映画は結ばれている。
エンドクレジットの最初、実在の米国軍兵士と通訳らが一緒に撮ったのであろう写真が次々と画面に映る。
黒い線やボカシで顔を隠されている人々と、そうでない人々がいた。
きっと後者は、顔を出してももう命を狙われる心配のない人々、つまりその多くはもうこの世にはいない人々なのだろう。
我々はシオニストによるパレスチナ人の非人間化とそれに基づく虐殺を、現在進行形で目にしている。
種々のマイノリティに対する非人間化言説も、毎日目にしている。
この映画が示した問題はどの社会のどの人間にも無関係ではない、よね。
2024/02/27