『別れる決心』

※ネタバレ全開です。

●言語能力へのマイクロ・アグレッション

いきなり自分語りから入るけど、私はかつて中国留学したことがある。
中国に行ったばかりの頃は、読み書きリスニングに比べて「話す」の訓練は大学でほとんど受ける機会がなく、かなり苦手だった。
最初はなかなかそれがしんどかったし、現地でそれをバカにされた経験がたくさんある。
留学生活自体はすごく楽しかったのだが、おかげで外国人として外国語を使って生活するプレッシャーは理解している。
帰国した時の喜びは、そのプレッシャーがなくなること一点に尽きたし。

だから、『別れる決心』の序盤、ソン・ソレに向けられる警察の人々からの、主に言語面に向けられたマイクロ・アグレッションのリアルさに唸った。
 ・最初から「中国人なので韓国語は不得意」と紹介されてしまう。
 ・「僕よりお上手ですよ」。
 ・言葉遣いの小さな誤りを、笑いや可愛さとして消費される。
 ・ちょっとした語彙を「知らないもの」と決めつけられる。
全部「あるある」だ。やる側からしたら、善意でやってるつもりのこともあるのだろうけど。

最近公的機関などを中心に、「やさしい日本語」という子どもや外国人向けの文章表現が最近活用されている。
公的機関などが採用していて、情報伝達のための公益性が高いものではある。
ただし、日本語を母語とする大人の基準をそのまま使って読むと、文字通り子どもに伝えるような感じに読めてしまう(例:内科 → 体の中の病気を治す病院 )。
私は韓国語が分からないので想像するしかないけれど、ソン・ソレの言葉遣いはこの「やさしい日本語」のような、大人の韓国人からすると、どこか子どもっぽく聞こえる言葉遣いなのではないか。
そういう言葉だけ使っていると、決めつけでナメてくる相手がいるものだ。
この映画、単にそれを差別的で屈辱的だと描くだけではない。
特に女性の場合に、そういう言語能力の不足が知性の不足にすり替えられ、「可愛さ」として消費される様も描いている。
(そういえばNetflixドラマ『ドラキュラ伯爵』では逆に、知的な女性が家父長制を内面化した男性にとって脅威になるというテーマが含まれていた)

ソン・ソレは、海外から密入国船でやって来て、生きていくために韓国の男に頼らねばならなかった。
帰国できない事情を持った外国人女性と、現地韓国の男性。
刑事ヘジュンも含め、ソレは誰が相手であっても、はなから大きな権力勾配のある関係にしかなり得ない。対等ではないのだ。
そして往々にして、権力を持つ側はそれに気づかないか、或いは気づいて利用するかのどちらかである。
夫たちはソレに本当の愛を捧げてはくれなかった。
彼らは彼女の美貌を手に入れたかっただけではない。
実際の知性を表現しきれない語彙を使う(使わざるをえない)相手とやりとりすることで、身勝手に感じる優越感。
帰国もできないという状況につけ込んで、思い通りに扱える気持ちよさ。
彼らがソレをナメてかかれるのは、ソレの元「所有者」たる父親(よその家父長)がいないためでもある。
ヘジュンの部下が酔ったまま家に押しかけるなんてことも劇中起きたが、あれだってもし父親の存在を感じるような相手なら、おそらくやらないのではないだろう。
(これは私個人の実体験から感じたことである)

そして、ソレに惚れるヘジュンにも、彼らと同じ欲望がなかったと言えるだろうか?
序盤のソレに対するマイクロ・アグレッションの多くは、ヘジュンから発せられるものだ。
最年少で原発の管理官になるほどの知的エリートな妻とソレを、彼は一度も比較しなかっただろうか?
妻がいる身でも気軽に楽しめる、刺激的な遊び相手と思っていなかっただろうか?

ソレは男たちからナメられ続け、生きていくために甘んじてきた。
でも甘んじ続けることはしなかった。

この映画のすごいところは、ソレをナメてたのが男たちだけじゃないのをきっちり見せてくるところ。
覚えていますか、「孫娘」という名が介護人派遣会社の名前に入っていたことを。
覚えていますか、孫娘だか介護人だか分からないと客たちは言う、との社長の言い草を。
なぜ、孫でも娘でもなく「孫娘」なのか。
あの会社に雇われて派遣されている介護人たちが、主に「韓国語が得意ではない」女性の外国人であろうことは想像に難くない。
易しい言葉を使う介護人が相手だと、やっぱり子どもと話しているようで、それで「孫娘」なのだ。

一方で、ソレの仕事ぶりはプロフェッショナルだった。なにせ元看護師、注射も上手だとの評価も貰っていた。
それでも会社の売りは、看板は、「孫娘」。
ソレ(とその同僚たち)は、ほとんど韓国社会から丸ごとナメられていたと言える。

そういうナメられる立場を最大限に利用した犯行が、転落事故に見せかけた殺人だった。
ヘジュンは、捜査の過程でソレに接近され、彼女の内面や知性を知り、ナメなくなっていったからこそ真実にたどり着けたのではないか。


●「ケア」の観点から

フェミニズム理論における「ケア」には、家事育児などの労働だけでなく、想像力を必要とする感情面のケアなども含まれる。
それを職業とするケア労働の従事者がソレだ。

ソン・ソレは介護人なので、他人のケアを仕事としている。中国にいた頃もケア労働をしていた。
職務外でもヘジュンに対してケアをする。ケアをすることで、好意を得たり油断させる、それが彼女の処世術の一つでもある。
彼女にとってケアは生きるための手段である。必ずしも「ケアする=愛情がある」ではないところがこの映画のポイントだ。

ケアを受けることは心地よいものであり、誰しもケアされる側にまわりたいものだ。
ソレだってケアは求めていた、なかなか得られないにせよ。
中国では人生を捧げて母親の介護をし、韓国に密入国船でやって来た時に「糞尿にまみれた臭いを嗅ぎ、話を聞いてくれた」のは最初の夫だった。
あんなDV男となんで結婚なんかするのか、と最初は思った。なにか目的があって、好きでもないのにくっついたのだろうかと。
しかし、最初の夫はどん底のソレをケアしたからこそ結婚に至ったのだと私は思う。

ヘジュンは妻との生活では料理も担当し、ケアする側にも回っている。
警察で出世が早かったとの設定もあるので、学歴も才能もありそうだし古いタイプの男ではない。韓国では比較的「まともな」男性なのであろう。
そんなヘジュンが抱える不眠を、ソレは特別なケアで解決する。
妻からは得られなかったケアを、プロフェッショナルなケア労働者のソレから得るのだ。

ヘジュンからソレへのケアも色々と描かれる。
刑事と被疑者でありながら、高い寿司を食べさせ、食後のあの妙に息の合った片付けシーンでも、最後にソレから布巾を取り上げてヘジュンがテーブルを拭く(細かい!)。
ほかにも、チャーハン(?)を作って食べさせ、部下がめちゃくちゃにしたソレ宅を片付け、そして極めつけのケアは例の「愛してる」だ。
ヘジュンはソレのアリバイ工作を隠匿したまま捜査を打ち切った。
ヘジュンが韓国社会になりかわって彼女の罪をなかったことにするということは、韓国社会と韓国の男たち(夫、警察、自分)がソレを軽んじることで彼女に与えた数々の傷を相殺するための、唯一の方法だったからだ。
自分の警察官としての誇りを(ついでにそれから生まれる上品さも)代償にしたこの最大級の「ケア」によって、ヘジュンはそれまでの自分が「崩壊」した。
それでもなお、ソレからの見返りを求めることもなく。
ヘジュンにすれば別れの言葉だったが、その告白はまぎれもなく愛を説明したものだろうし、ソレはそう受けとった。
だからこそ「そこから私の愛は始まった」のだ。
これはおそらく、ソレにとって家族以外にむける、初めての愛。
それまでの打算的な接近とは全く異なる本当の愛だ。

◆◆◆

ファム・ファタールは、あくまでも当人女性にとっては受動的なものであり、他称であり(存分にミソジニーも含まれる)、自らそうなることはできない。
ヘジュンが自分の破滅の原因を全てソレに押しつけることで、「ソレ=ファム・ファタール」が成立するのだが、ソレはそれを拒否する。
再捜査して「崩壊」前に戻れと彼女は言った。これは明確なファム・ファタール化拒否の立場表明だった。
この映画の中で、ソレはファム・ファタールではない。

では、ソレの側から見たらどうか?
ヘジュンと出会ったことで、そしてヘジュンから愛を捧げられ、愛してしまったせいで、最終的にソレは自らの死をもってヘジュンの人生に居残ることを選ぶのだ。
物語の続きを想像すると、ソレの死が、結局彼女をファム・ファタールにする可能性はゼロではない。
しかし、この映画のストーリー内に限定すれば、ヘジュンのほうがむしろ、ソレにとってのオム・ファタールであったことは確かである。

(2023年2月18日)