『生きる Living』レビュー

※重度のネタバレがあります。



黒澤版『生きる』はそもそも傑作映画である。
それをさらにブラッシュアップ、リメイク作としてこれ以上ないほど成功したのが『生きる Living』だ。

まず、黒澤版『生きる』と比較すると、色々と整理されてより分かりやすくなっていた(特にフラッシュバックの使い方)。
物語自体はおおむね同じである。しかし、登場人物の設定や病気の告知の状況など、細かい所が改変されていた。

一番良かった改変は、主人公と元部下の女性との関係がジェンダー表象の面でアップデートされ、それにともなって物語のキモの部分である公園建設を決意するまでの流れがより主人公主体になっていた点。
黒澤版では元部下の女性・小田切とよの「課長さんも何か作ってみれば」という言葉をきっかけに、公園を作ることに思い至るのだが、今作では主人公が自分の想いを語る内に思いつくことになっている。

まず黒澤版のほうを考えてみる。
あの自分の残りの人生をかけた決意が、他人のアドバイスから生まれるという流れを、独立独歩をよしとするマスキュリニティからの一種の解放(=目下の女の意見に耳を傾ける)という風に解釈するならば、当時の作品として確かに意義があると思う。
実際にその後で渡邊は、陳情の女性たちの声を聴き、大勢を動かして建設を成し遂げるわけなので、黒澤版『生きる』では小田切の言葉がきっかけになるのは重要な設定といえる。
ただし、今見ればどうにも元部下の女性(小田切とよ)が主人公のケアをさせられているように見える部分があり、ちょっと気になってしまう。

オリヴァー・ハーマナス版(カズオ・イシグロ版というべき?)では、そのあたりも含めてアップデートされている。

特に、主人公が元部下の女性(小田切/ハリス)に余命が短いことを告白するあの場面に、その違いがかなり出ていた。
ハーマナス版で、ウィリアムズが話す時の態度は、取り乱したように話す黒澤版の渡邊よりもずいぶん冷静であり、聞き手のハリスがウィリアムズをなだめたり慰めたりすることはない。
人生を見つめ直すヒントこそハリスではあったが、人生を切り開くための目的自体は、自立した(そして人生経験もある)人間としてウィリアムズが自分の中から取り出していく。
主人公ウィリアムズにとって最後の大仕事は、純粋に自分の中から出てきたもので、誰かからケアされる中から生まれたものではない。
役場の中で交渉して回る時にも一人一人に感謝を述べるなど、建設を進める過程でも猪突猛進ではなく、周りを見ながら連帯してくれる味方を作っていく描写も加えられている。

そういう風に、自制心と内省の能力を充分に持ち、信念のもとで他者のために他者と協力して動き、大事なことを後輩に伝えて去る主人公ウィリアムズは、現代的にアップデートされた男性像・社会人像になっていた。
このアップデートによって、主人公の人間としての主体性も強化されているし、人生をしっかり「生きる」ことの重要性がより普遍的なメッセージになっている。

ついでに、「紳士(Gentleman)」という言葉をウィリアムズの夢として語らせることで、このイギリスの伝統的男性理想像の枠組を、提起し直した格好にもなっている。
Gentlemanはマナーだけが作るんじゃないのよ。生き様よ。
個人的にはカズオ・イシグロの書く男性像って、ある種の「男のロマン」のようなものを帯びていると思っていて、こういう、フェミニズムに完全投降してしまう──言い方を変えれば、フェミニズムに丸投げしてしまうようなアップデートをしないところがかえって好きである。
フェミニズムに完全投降するのであれば、紳士という枠組自体がまず疑義の対象になるのだろうし。

黒澤版のほうが良い部分もある(生まれ変わった渡邊の姿にハッピー・バースデーの歌が重なる演出とか。公園で遊ぶ子どもたちの映像も黒澤版のほうが楽しげで良かった)けど、全体的には今作で洗練さを増したと言いきってよいと思う。

2023年3月31日
加筆訂正:同日23:00