『TAR/ター』レビュー

結末までのネタバレが含まれます。今回はほめてないです。※追記あり


 『TAR/ター』、日頃パワハラとかセクハラとかの問題に対して色々関心を持ってて、MeToo運動まわりのことも色々と追いかけている人間と、そうではない人間との間でそのリテラシーの差が鑑賞後の感想に出そうだと思った。
というのも、一緒に鑑賞した母には「リディア・ターに非はないのに不当に陥れられている」ように見えたというからだ。

母曰く、

①クリスタ(自殺した女性指揮者)はリディアの言う通り精神不安定なだけで、リディアが何かしたのかどうかは結局分からなかった
②新人チェリストは自ら進んでリディアの(性的な)関心をひき、NYへの旅行も望んで着いてきたように見えた
③ジュリアードで学生に説いていたことは正当性がある

(SNS上の感想を見る限り、以上と似たような反応がけっこうあった。)
で、私はそれぞれ以下のように母に説明したわけだ。

①メールの文面や助手の動揺した反応から、リディアのメール送受信をすべて(クリスタの就職を妨害するためのメールも含め)管理していた助手にはクリスタの言い分が事実だということが明らか。しかし、リディア視点では加害事実が一切描かれないため、鑑賞者が被害者を疑うほうに流れかねない。

②人事を含めオケのほぼ全てに権限を持つ首席指揮者と採用前の新人チェリスト、という圧倒的権力差を理解しないと、そもそも新人チェリストの立場では拒否的態度をとることなどできないということがわからない。オケ全員の前で頬を撫でて褒めるなどの過剰な身体接触(セクハラ)でさえ、それに反応する人間をリディアの妻にしているせいでただの嫉妬のように見える

③講師と学生の間にも圧倒的権力差があるし、当然圧倒的な知識差もある。最初から学生の曲のチョイスをバカにし(あの状況からして学生自由に曲を選ぶ課題だったはず)、自分に有利な話題(バッハ)に引き寄せ、選択した曲がバッハでなかった理由を当人の属性に基づく好みだと説明されるや、あたかもわがままであるかのように話をすり替え、バッハについて語る言葉をまだ持っていないだけの若者に、おまえは無教養だと宣告する。さらに、単位がかかっているため講師に逆らわないであろうほかの学生を味方につけて、1人の学生を糾弾させようとする。身体接触ももってのほか。教える立場の人間としてダメofダメ。リディアは自分の自尊心を満たすために未熟な学生たちを消費しているのであって、教えているのではない(実際、こういう大学の先生はたまにいるヨネー)。
しかし、劇中ではリディアの自分語りがカリスマチックに魅力的に演出されており、直前の小賢しいインタビューのすぐ後の場面であるせいもあって、学生の方が不勉強で非があるかのように見えてしまう。

確かに、うちの母は私ほどパワハラ・セクハラ問題について興味を持っていないだろうから、細かい部分を読み取れず誤解したのは仕方ない。
この映画は間違いなく、権力者によるパワハラ・セクハラを批判する倫理観に基づいていると思う。
リディアが告発の内容をデタラメだと一蹴し、告発者の悪意だと言い張る時の言い草は、典型的なセクハラ・パワハラ加害者の言い分と同じであるし、「グルーミング」という言葉を知っていれば若いチェリストの特別扱いも加害であることが分かる。
ただし、そうした善悪の判断は観客のリテラシーの程度に委ねられており、込められたメッセージが無効になる可能性も折り込み済みであるようだ。
それは演出の方法からよく分かる。
パワハラ・セクハラ加害者側の歪んだ認知を明確に「歪んでいる」と描かないまま物語が進行するし、そのため実際に行われた加害が見ようによっては問題ない、あるいは告発が一方的な言い分であるかのように描かれてしまっているからだ。

こうした、「分かる人にだけ分かればOK」という姿勢は、映画の冒頭で尺をとって披露される、非常に衒学的なインタビューと同じものを感じる。
トッド・フィールド監督の旧作『イン・ザ・ベッドルーム』も(かなり昔に観たきりだから記憶が曖昧だが)、観客に善悪の判断を委ねつつ自身の批評性は明確にしないところがあった気がするので、それが作風なのだと言われてしまえばなんとも言えない。自分の好みではないが。

◆◆◆

しかし、鑑賞前から懸念していたことだが、ただでさえマイノリティな女性指揮者、或いは出世しているレズビアンにとってはエンパワメントの真逆を行く迷惑な作品なのではないか。
そもそも現状、世界のどこでも権力を利用した加害を行える権力者ってシスヘテロ男性である率がきわめて高いのに、セクハラ・パワハラ加害をわざわざ女性・レズビアンで、そしていまだ超男性社会のクラシック音楽業界の人間として描くのって、どうにもいただけない。

もう一つ、転落した後のリディアの行き先について思ったこと。
ラストの東南アジア巡業、人や街の描かれ方はかなりオリエンタリズム的だし、東南アジアって未だにああいう風に「三流の仕事先」として表象されることから逃れられないのだなと。
また、落ちのび先で任された仕事がどうやら『モンスターハンター』のファンが集うイベントで、それもちょっと滑稽なものとして登場する。アマチュア吹奏楽団サークルとかでもなく、現地のプロのオケを相手に仕事をしている状況であるにもかかわらずである。そこに監督の「鼻の高さ」を感じてしまった。
コスプレしてイベントに来る聴衆とクラシックファンの聴衆は重ならない、別物だという確信が監督にはあるのだろう(イヤミ)。
今作の音楽を担当したヒドゥル・グドナドッティルだってゲーム音楽手がけてますけど。

この映画、確かに音楽やシネマトグラフィや役者の演技は良いんだけど、ところどころに想像だけの決めつけで描いているような部分があり(ジュディス・バトラーも指摘しているレズビアン表象は特に)、好きな映画とは言えなかった。
もしこの映画を観て女性指揮者の歴史に興味が出たら、劇中の台詞にも「客演指揮者にしかなれなかった」例として出てきたアントニア・ブリコの伝記映画『レディ・マエストロ』もぜひ観て欲しい。ちなみにその映画の終わりでは、女性指揮者の現状について、以下のように触れている。

”2008年にグラムフォン誌が世界トップ20の交響楽団を発表したが、その中に女性の首席指揮者を擁する楽団は1つもない。
2017年にグラムフォン誌は世界トップ50の指揮者を発表、そこにも女性は1人も見当たらない。”

(2023年5月15日)


【追記】
この作品はケイト・ブランシェット当て書きの脚本だったと聞いていたけれど、実際当て書きでリライトしたものの、当初は男性主人公を想定していたそうである。そのせいでレズビアンのリディア(の行動)がシス男性っぽくなっていたのかもしれない。あと、婦人参政権の闘士に花を捧げるのが3月8日と聞いたリディアがそれが国際女性デーだからだとピンと来てなかった場面とかも、男性のフェミニズムへの無関心さを表現していたとしたらとてもしっくりくる。もちろんフェミニズムに興味無いレズビアンもいるだろうけど、それが男性だった場合のほうが「あるある」としてすごく成立しそう。(5月17日追記)