山手・本牧地区旧地図
テニス発祥
ビール発祥
君が代発祥
競馬場発祥
霞橋と新山下運河
【新山下運河】
●新山下運河は1923(大正12)年1月の山手町地先埋立竣工とともに誕生しました。
●当時の物流には水上交通が大きな役割を果たしていて、横浜にも多数の運河がありました。
●運河沿いには船で運んできた荷を揚げる倉庫や海運会社などが軒を連ねていました。
●そうした場所のルートを確保するため、埋立と同時に4本の橋もできました。
1909年(明治42年)に古地図にはありませんが、1917年(大正6年)からの地図には
4本の橋が記録されています。
●1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災があり、新山下運河も完成直後に被災しました。
震災復興事業により、市内の橋は復興が行われました。
【霞橋】
●霞橋は、明治時代に作られたトラス橋(イギリス製)を再活用。
●1896(明治29)年に日本鉄道土浦線(現常磐線)隅田川橋梁として架けられた橋で、機関車の
●荷重増加に伴い、1928(昭和3)年に撤去。1929(昭和4)年に江ヶ崎跨線橋として再利用され、
さらに「霞橋」(横浜市中区新山下1)として再利用(2013年3月 開通)。
●旧霞橋の老朽化から架け替えが検討されるなかで、歴史的価値のあるトラス転用の可能性が探られ、
およそ120メートル分あったプラットトラスから、腐食が少なく応力的に問題がない部材を再利用。
●一部新規に製作した部材を組み合わせて、約30メートルの霞橋に生まれ変わらせました。
(2014(平成26)年に「土木学会田中賞」を受賞。橋長32.96メートル、田中賞史上最も小さい橋)
鉄砲場跡
駅から一直線に続くこの道は、かつてイギリス軍とフランス軍の鉄砲場として慶応元年(1865年)に作られました。
昭和39年に開業した山手駅を中心に発展してきた「人と人のつながりを大切にする商店街」です。
1864年から1865年にかけて、現在の山下町の外国人居留区に住む外国人たちの運動のために、周回できる遊歩道が、幕府の費用負担で作られました。大和町はその遊歩道の中心部にあたります。
幕府は外国人を東海道の方には行かせないようにし、その遊歩道の内部や近辺にいろいろな遊興施設を作りました。大和町で有名なのは鉄砲場。根岸競馬場ができるまでは、鉄砲場で直線コースの競馬も行われました。さらに明治に入って1873年(明治6年)には大和町1丁目あたりに、陸上競技場も作られています。
(鉄砲場は大和町2丁目)
(文献:郷土史研究家棚橋誠資料より)
【現在の地名での道順】
石川町駅→地蔵坂→山元町交差点から打越橋→山元町簑沢入り口交差点・中華墓地地蔵王廟→
根岸森林公園・根岸競馬場観覧席跡・馬の博物館→根岸旭台交差点→不動坂→白瀧不動尊→七曲り坂→アメリカ坂→本牧山頂公園→
千代崎川跡→射撃場(鉄砲場)跡→山手駅