●2002/5/12
これは当時の旅の記録であり、現在の旅情報としては利用できません。
北のテント形マーク(チュウ・ゴンパ)から、南の家形マーク(プラン)まで、緑色のライン。
●5月12日の行程
「マナサロワール湖」畔のチュウ・ゴンパ=「極物寺」→「プラン」=普蘭(プランの招待所)
●コースタイム・その他メモ
7:15 起床
10:10 出発 幕営地 チュウ・ゴンパ隣「雄巴村」(4,595m)
12:30 プラン着(3,950m)
■参照画像 P1:チュウ・ゴンパの夜明け
■参照画像 P2:マナサロワール四大宗教の聖域
●行動記録
聖域に一瞬の暁光 (P1、P2参照)出発前、薄明の中、チュウ・ゴンパ南の丘に登り一瞬の暁光をとらえた。
■参照画像 P3:ナムナニの右、山裾を回り込む
段丘の谷 マナサロワール湖とラカスタル湖「Rakshas Tal」を隔てる、なだらかな丘陵を越える。
(P3参照)ナムナニ西方、山裾の扇状地帯を突っ切り、さらに南へ向かって下ると「カルナリ河」源流です。
■参照画像 P4:カルナリ源流も三面の段丘面
ガンジス源流 (P4参照)ここからは「ガンジス」水系となる。
谷間に村が現れた。
標高は約(4,000m)です。
先ほどまでの乾燥地帯に比べれば、桃源郷です。
村は春の農繁期、チンコー麦の植え付けの真最中、ヤクや馬で起耕し、すぐ種籾をまいていました。
歴史ある古城と厚底ブーツ プランの町はカルナリ河の広い中位段丘面に開けた中規模な町で、耕地も多くこの辺りの政治・行政の中心地です。
インドのアスコット「Askote/अस्कोट」方面に通じるリプレク・ラ「Lipulekh Pass」標高5,000m級の峠越えも合流する国境警備の重要拠点であるため、軍人の姿が目につきます。
ランクルを町の南側、町外れに近い表通りに駐車した。
このあたりは軍人相手の飲食街らしく、厚底ブーツを履いた、若い女性の姿が目につきます。
町を見下ろす北西の岩山には古城跡が聳えている。
かつてプランが一国であったその誇り高き歴史を思えば、言葉にしがたい感慨が迫ってきます。
※岩山の古城跡、マップからの判読値(30°18'16.6"N 81°09'44.4"E)
出国できるのか? この町ではネパールへ出国の、重要な手続きをしなければなりません。
ここまでの道すがらチベット・ガイド氏と話し合って、はっきりしたのですが、我々には問題が二つあった。
一つ目はグループビザの問題です。
当初の計画では日本からの私たち3名と、ネパール・シェルパ2名で、計5名からなる一つのグループを作り、ネパール側の「シミコット」から中国へ入国するつもりでした。
それなら問題は無かったが、逆コースとなってしまい、私たち3名が先に航空機で「ラサ」入りし、ネパール・シェルパ2名は、後からトラックで中尼公路「Friendship Bridge/Kodari/Zhangmu」経由入国し、途中合流した。
そのため5名以上からなる、一つのグループとは認識されず、グループビザではないことです。
二つ目は、我々の持っている中国側発行の旅行許可証に、記載されているルートが希望するルートではない。
ラサから「カイラス」、「マナサロワール」までは良いが、その後、往路をラツェまで戻り、中尼公路「Friendship Bridge/Kodari/Zhangmu」のザンム「樟木」からネパール側のコダリ「कोदारी」へと、なっています。
旅行許可証の記載地は謎 この旅行許可証は、我々の旅行をアレンジした、ネパールのトレッキング・エージェントH.S.A.が、中国側の旅行会社を通して取得したものです。
ラサからカトマンドゥへFAXされてきた感熱紙を、H.S.A.のMr.Bから、ネパール出国の際に手渡されました。
カトマンドゥでMr.Bに、「私たちは幾つかの目的を持っている」。
「サイトシーイング拉薩、カイラス・コルラ、ヒマラヤ・トレッキング」。
「ナンバーワンの重要な目的は、トレッキングで、「シミコット」~「プラン」、ルートである」。
「ヒマラヤのコルをパスすることを望んでいる、歩いて、自分の足で」。
つたない英語ですが、くどいほど説明していたので、H.S.A.が手配ミスをしたとは考えられません。
しかし、中国からFAXされてきた旅行許可証は、当然漢字で記載されてあり、コース途中の通過地名がMr.Bブルバには、読めなかったのではないだろうか。
私たちも旅行許可証に記載されていた神山がカイラス、聖湖がマナサロワールとは、ただちに理解できなかった。
中国側旅行会社のMr.D なぜ旅行許可証のルートがザンム~コダリになっていたのか。
問題は中国側旅行会社にあったのか。
ラサのホテルで二度ほど会った、中国側旅行会社のボスMr.Dは、細身の長躯を黒のスーツでつつみ、髪は短く刈り上げ、くわえタバコで現れました。
めったに笑わぬその細面の頬には、修羅場を潜り抜けてきた男の気配が、漂っています。
今にして思えば、外国人相手の手続きや許認可の重圧を背負う立場ゆえの、緊張や苦労が、あの表情に刻まれていたのかもしれない。
ガイド氏はどこへ? チベット・ガイド氏が言うには、出国手続きはまず軍に願い出て、許可をもらってからです。
我々に問題はあるが、自分は軍に友達もいるし、お願いすれば、何とかなるかも知れないとのことです。
さっそくチベット・ガイド氏が軍へ出向きますが、5/12は日曜日のため、面会は4時からと言って帰ってきた。
「この町は軍事施設が多く、やたらカメラを出してはいけない」と注意して、何処かへ向かいました。
我々の許可証にはプランの地名が無く、この町に居ることも、厳密にいえば違法です。
駐車したランクルからあまり離れる事もできず、車の中で軍との交渉結果を待って、期待と不安の時間を過ごしたが、時刻はもう四時半を過ぎています。
軍との交渉を終えたチベット・ガイド氏から、何らかの連絡があってもよい頃です。
しかし一向に姿を見せずどこへ行ったのか。
牌を握ったまま平然と ランクル・ドライバー氏に居場所を尋ね、教えられた店に入ってみれば、 何とチベット・ガイド氏は見知らぬ地元の人々と、マージャンに興じているではありませんか。
胸の内で「何をしているんだ」と、叫びたくなったが、そこはこらえ、睨むようにして問いかけました。
「いつ、お前はアーミーとコンタクトするのか」。
チベット・ガイド氏は牌を握ったまま平然と、
「After five minutes」と答え、局が終わるまで席を立とうとしません。
さらに彼は、「ポッセブルならプラン to シミコット」。
「インポッセブルならリターンでザンム to コダリ」。
「Do you understand」、
「Do you understand」、と同じ言葉を繰り返す。
思わず、何度も言うな、分かってる、と乱暴な言葉がうかぶ。
「シャタァップ、セーム・フレーズ、アイ・アンダスタンド」と喉まで出かかった言葉を飲み込みました。
交渉とは、こちらの意向を相手に理解してもらい、少しでも有利な条件を引き出すものです。
相手の言葉をそのまま伝えるだけでは、子どもの使いだ。
本当にやる気があるのか、と言ってやりたいところですが、語学ではとても彼にかないません。
ボーダーはクローズド やがてチベット・ガイド氏は軍の施設、辺検站へ入っていき、しばらくして戻った。
そして開口一番、「インポッセブルである」と告げ、さらに追い打ちをかけるように、「ボーダーはクローズドだ」と言うのです。
もはや彼だけに任せておくわけにはいかない。
再度挑戦です。
我々三人とネパール・シェルパ の二人も、軍の施設、辺検站へ向かいました。
正門警備の若い歩哨は、見慣れぬ外国人にさも困惑の表情です。
チベット・ガイド氏が守衛に用件を告げると、現れた軍人は迷彩模様の戦闘服に戦闘帽、黒の編み上げ半長靴、ガッシリした体躯の軍人でした。
どうやらこの問題に判断を下せるトップ人物のようです。
「我々はリーベンのグループ・ツーリストである」。
「ボーダー通過のパーミットを望んでいる」。
「イミグレーションのオフィスはどこか」?
そう告げても我々の言葉などすべて無視された。
たぶん英語では通じなかったのでしょう。
お前らの話を聞く耳持たぬ、早く立ち去れ、と言いたげな仕草で、追い払われてしまいました。
チベット・ガイド氏の説明によれば、3日前からボーダーはクローズドされ、他国のツーリストはパスできない。
このボーダーからエクジットするツアーをアレンジできるエージェントは、ラサのスペシャルな2社で、それ以外の旅行会社ではノーパーミッションだ。
今はその2社も含めて、オール通行不可で、閉鎖はテン・デイズだ、というのです。
今さら何ということだ 成り行きを見かねたネパール・シェルパS氏が、カトマンドゥH.S.A.のMr.Bや、ラサの旅行社Mr.Dに電話してみたらと言い、皆で辺検站向かいの電話局へ飛び込みました。
チベット・ガイド氏とネパール・シェルパS氏が交互にカトマンドゥのMr.Bと話をしたが、解決策など出るわけが無く、ラサへ電話を入れたところで、しょせん時間の無駄です。
簡単に諦めるわけにはいきません。
私は「トゥモロー、リトライだ」と繰り返し、明日もう一度挑戦する意思を示しました。
しかしチベット・ガイド氏は、「インポッセブルだからザンム to コダリである」、「リターンである」と、相変わらず同じ言葉を繰り返します。
さらに「プランでキャンピングはできない」。
「キャンプ・サイトはマナサロワールまでバックだ」と言い放ちました。
半日かけて来た道を、引き返せというのか。
胸の内で抑えていたのですが、もうこらえきれません。
「Mr.D イズ ミステイク」
「ウィ ウォント、プラン to シミコット・ルート」
「ノット ザンム to コダリ・ルート」
思わず声が荒くなりました。
するとチベット・ガイド氏も負けじと、
「アイム ノット エージェンシー」
「アイム オンリー ガイド」
と応じてきます。
私の脳内アドレナリン濃度は 閾値を突き抜けてしまいました。
「オブコース ユー アー オンリー ガイド」
「ガイド イズント マージャン プレイヤー」
「ユー キャン ノット プレイ マージャン」
そこまで言うと、もう英語では続けられず。
あとは日本語で怒鳴ってしまいました。
声を荒げたことで、少し気持ちは落ち着きました。
結局のところ、明日もう一度挑戦するほかに道はありません。
ひとまず招待所で冷静に 宿泊先について少し揉めたものの、外国人が泊まれるのは表通りに面した招待所のみで、結局そこに落ち着いた。
国境閉鎖のため、旅の商人らしき数人が足止めになったのか、皆それぞれ静かに時を待っているようです。
壁には、何年か前にチベット西部で行方不明になった日本人の捜索願が貼られており、留守家族が情報提供を求めていました。
チベット・ガイド氏は二十代後半ほどの若さながら、私より落ち着いた大人でした。
マージャンをしていたことを素直に謝ってきたので、私は「Don't mind」と返しましたが、内心は少し引きつっていたはずです。
大声を上げても状況は好転しない。
プランから国境を越えたいという私の強い思いを伝えるには、もっと冷静であるべきでした。
旅のあいだ、自分の言葉が十分に通じないもどかしさが、ストレスになっていたのでしょう。
ネパール・シェルパたちの肉体労働を苦にせず、時に客と命運を共にする気風と比べてしまったのも事実です。
けれど、チベット・ガイド氏はシェルパではなく、語学と調整を担うガイドで、彼には彼の役割があります。
今夜も軍の友人に会い、できる限り手を尽くすと言ってくれました。
明朝、改めて軍と交渉することで互いに了解しました。
■参照画像 P5:招待所より南方、旅友T君撮影。このしばらく後に一瞬だけ、美しい夕陽となった。カメラを取り出すさえ、忘れるほどであった。
一瞬だけ訪れた、神々しい夕景 (P5参照)招待所より望むヒマラヤ白銀の峰々は、折からの夕日で薄紅に輝き、その絶頂からは次々に雲が湧きいで、高速の気流に乗り流れゆくようすが、手に取るようです。
しばし呆けたように眺めていました。
あの見晴らしの良さそうな岩山の古城に登り、思う存分写真を撮りたいと思うのですが…。
その眺めは、 ニコライ・レーリッヒが描く神秘的なヒマラヤの絵画のようであった。
※ニコライ・レーリッヒの絵画紹介(You Tube)
出典:Nerses Ghukasyan
日本食でホットし明日を思案 この日の夕食はネパール・シェルパR氏が腕を振るい、天ぷらを用意してくれた。
私たちを元気づけようと思ったのでしよう。
久しぶりの日本食は美味しかった。
その夜、私たち三人で話し合いました。
ボーダーの閉鎖など次々に不都合な話が出てくるが、チベット・ガイド氏の言うことも、どうやら虚言ではないようです。
彼にしてみれば、ここで我々が国境を越えてくれれば、仕事が早く終わり楽なはず。
ラツェまで引き返してから、ザンム→コダリ、ルートはより手間取ります。
とにかく明日は私たちも精一杯、納得のゆくまでやります。
ラサからここまで来れたのは、もちろんH.S.A.やガイドの助けがあったからですが、最初に私たちの強い願望があったから、ここまで来れたのです。
引き下がるわけにはいきません。
招待所の夜も更けてゆきますが、今日一日の出来事が次々と頭の中を駆け巡り、なかなか寝付けませんでした。
◉プラン招待所GPS測定値
(30 17 41.6N 81 10 31.3E)標高⟦3,910m⟧
※( )括弧内座標値コピペでGoogleマップ検索できる。
※測地系はGoogleマップと同じWGS84適用、標高は国内のテストで±30~50mの誤差があった。
★今日の地点
プラン=普蘭
【プランの招待所】
※検索済みクチコミ地は星印などのリスト保存で迷子防止。
※中国領内では航空写真と地図表示にずれがあり、Googleマップ検索では要注意。
★次のクチコミ地
ネパールのヒルサ、カルナリ河のつり橋
【Hilsa-Karnali Suspension Bridge/हिल्सा–कर्णाली झोलुङ्गे पुल】
★前のクチコミ地
マナサロワール湖畔のチュウ・ゴンパ=
■参照画像
P1:チュウ・ゴンパの夜明け
P2:マナサロワール四大宗教の聖域
P3:ナムナニの右、山裾を回り込む
P4:カルナリ源流も三面の段丘面
P5:招待所より南方、旅友T君撮影
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本日は5/12