08.06/07:茂木一衞:クラシック音楽の再発見

投稿日: 2012/05/31 9:12:01

今週から四回ほどロマンス・グレー・シリーズ(先生の年齢の話です。他意はありません。そもそも白髪はまだない先生もおられるのでこれはちょいとした冗談ってやつです。内容的な関連もありません)です。

中川は「クラシック音楽の授業」を受けるのはおそらく初めてなのですが、楽譜を使わずにモーツァルトの個人様式を説明する、ということをやってました。実は結構高度なことをしていたような気がします。

全体としては、モーツァルトの時代の時代様式から逸脱した部分のある、モーツァルトの「個人様式」を説明することで、(クラシック)音楽の「リテラシー」について語る、ということをしていました(茂木先生は「リテラシー」という言葉は使っていませんでしたが)。

今日の授業によれば、現代では、モーツァルトにおける「音の遊戯性」のようなものを聴きとる能力が欠けているけれども、モーツァルトはそのような「音の遊戯性」のようなものを作品に込めることができた「個人様式」の持ち主だった、ということでした。

また、モーツァルトは「フモール」の描写が得意で、同時代人たちは持っていたけれども現代の私たちは「音楽における遊びとか笑い」を味わう能力を失ってしまっている、ということが指摘されていました。

基本的には、事例を実際に耳で確かめながら「モーツァルトにおける音の遊戯性など」を確認していく、という進行の授業だったので、試験問題を作りにくい授業内容でした。でもそうですね。こうしましょう。

今日のポイントは、同時代の「時代様式」を逸脱する部分を持つモーツァルトの「個人様式」の特徴は、「音の遊戯性」や「フモール」を作品の中に込めることができたことだった、ということにしましょう。「時代様式」とか「個人様式」という言葉の意味を把握しておいてください。

ちなみに、モーツァルト好きは、ピアノ協奏曲第27番の冒頭の「タラタラタラタラ」を聞くと「ああ、もう後は死ぬしかないな」と思うらしい。

しかもその後に変ロ長調でドミソファソラソファミレ〜みたいな音が続くと、簡潔で透明感があるメロディに聞こえるので、なんとなく納得するらしい。

中川は「”もう後は”って何やねん」と思いました。

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◯参考ウェブサイト

第13回 茂木一衞 :: 音楽エッセイ :: 公益財団法人 ローランド芸術文化振興財団

音楽研究会「音楽の集い」主宰:茂木一衞</a>:次は6月24日@ヤマハ横浜店

音楽宇宙論への招待

茂木 一衞

4393935519

◯取り上げられた諸事例

モーツァルトの「フモール」の事例:ジュピター交響曲(交響曲第41番)

いわゆるモーツァルトのデモーニッシュな性質の描写として映画『アマデウス』