12.07/05:榑沼範久:地球物理学者・寺田寅彦(1878-1935)のサウンドトラック:作成中

投稿日: 2012/05/31 9:13:22

[このウェブサイトの「聴覚文化論の射程」にある他の回の授業レポートもそうですが、以下の授業レポートは、中川が受講できた限りの内容を単純化して記録して「ポイント」を記しているものです。授業内容すべての記録レポートではありません。これは基本的に受講者のためのものです。受講者は授業内容そのものは分かっているはずなので、このウェブサイトは、最終日の授業内レポートのためにこの日の授業内容を思い出すきっかけに使ってもらうための記録です。]

BGM付きのなんだか不思議な感触の授業でした。ああいう授業もあるんですね。

ともあれ、寺田寅彦の聴き方、聴いたものを中心に、視覚や聴覚のロジックとして知覚論を探求する授業として、中川は受け止めました。中川は、寺田寅彦のテクストは、大正から昭和にかけて音響テクノロジーを受容した証言あるいは歴史的資料として使うことが多いので、アクチュアルな知覚論を構想するためのとっかかりとして使うことはありません。なので、けっこう親しみのある、知っているつもりだった対象に、自分とは違うアプローチで近づく内容は、なかなか新鮮でした。

寺田寅彦といえば、自然科学者(宇宙物理学者)としても重要な仕事をしているようですが、文系人間にとっては、随筆家として知られています。またあるいは、黒澤明晩年の映画に映画『まあだだよ』(1993)ってのがありましたね。

まあだだよ デジタル・リマスター版 [DVD]

黒澤明

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また未見ですがこういう本もあるみたいです。

寺田寅彦 2009 『バイオリンを弾く物理学者』 東京:平凡社。 寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者

末延 芳晴

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ポイントは、複製メディアを経由した音楽経験や音響テクノロジー受容といった問題のみならず、聴覚のロジックを探るという問題意識があること、聴覚という知覚について考察するためのとっかかりとして寺田寅彦を使うことができること、としておきましょう。

知覚論が具体的にどのようなものとなり得るかは難しいし議論が噴出するところですが、それ以前にまずは、「聴覚という知覚のロジックを考察する問題領域があること」を知ってください。

以下、簡単な授業内容の幾つかのトピックの記録。

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進行の全てをひろえていない部分もありましたが、次のようなトピックがありました。

ふたつほど記しておきます。

◯知覚論:視覚と聴覚の比較

あくまでも「寺田はとっかかり」なので、寺田以外の事例も多く出されていました。中川が面白かったのは「☆光そのものを目で見ることはできないが、音そのものを聞くことはできる」ということを強調するために出されたオラファー・エリアソンOlafur Eliasson)というアーティストの光の作品です。榑沼先生は、この作品を提示して、光を見るとはそれが途切れるところを見るということだと考えることができるのではないか? というテーゼを出していましたが、これ、面白いですね。

もうひとつ、配布資料の4ページ目の寺田のテクストを使って、「耳には選択作用があるけど、目には選択作用はない」というテーゼを出していたのですが、その時中川はびっくりしたのですが、榑沼先生夫妻はUFOを見たことがあるそうです! これはびっくり。

で、もうひとつ驚いたのが、ここで話題を変える前に、一瞬「ブレイクの音楽」が再生されたことです。ブレイクのある授業…!

◯蓄音機の経験:蓄音機の「教え」ー意味の彼岸の「自由」

◯参考:フォノグラフについて

◯参考:寺田寅彦の音に関係のある随筆

寺田寅彦「病院の夜明けの物音」(1920):http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2435_10270.html

寺田寅彦「雨の音」(1920)

寺田寅彦「蓄音機」(1922):http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2446_10267.html

寺田寅彦「ラジオ・モンタージュ」(1931):http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2462_11118.html

寺田寅彦「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」(1932):http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2470_11117.html

寺田寅彦「ラジオ雑感」(1933):http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/42231_16357.html

寺田寅彦「試験管」(1933):http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2487_10344.html

◯榑沼先生の指摘事項

寺田寅彦「蓄音機」より、田舎の小学校に蓄音機を持ってきて行動で公開吹きこみを行った時、「ターカイヤーマーカーラアア」と声を吹き込んだ「その瞬間に経験した不思議な感じ」に注目し、「このとき寺田はある種の”意味の自由”を感じたのではないか?」という問いかけをしていました。「なぜならそれは”無意味な言葉”だったから」とのことのようです。

中川は、ここに「意味の彼岸の自由」を想定するのは榑沼先生の欲望ではないかと思います。その言葉はケージ的な意味での「自由な音」ではないので―”言語的意味を喚起するかもしれない音”はケージ的な意味での「自由な音」ではないので―、これは、寺田寅彦の音にまつわるエッセイや思考を読み解くうえでの思考の工夫のひとつなんだろうなあ、と思って聞いていました。

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このように幾つかの事項を取りあげつつ、聴覚という知覚の構造・構成・ロジックについて検討する、という方向で進んだ授業でした。

で、驚いたのですが、ここらへんで話題は寺田寅彦「病院の夜明けの物音」(1920)に移ったのですが、そこでなぜか! 榑沼先生と学生何人かによる朗読会になってました。

BGMはピンク・フロイド『夜明けの口笛吹き(The Piper at the Gates of Dawn)』(1967)より"Take Up Thy Stethoscope and Walk" 。

不思議な時間でした。

夜明けの口笛吹き

ピンク・フロイド ロジャー・ウォーターズ

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最後もエンドロールの代わりに音楽が流されていました。