津波と戦争そして原発

津波と戦争そして原発
1933年と2011年

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伊達美徳

●騒乱の1933年3月

 東日本大震災のもとになった2011年3月11日東北地方太平洋沖地震は、大津波による被害が甚大である。そしてこの津波の大被害ははじめてのことではなくて、特に東北地方の三陸沿岸部はこれまでに何度もあったという。
 1933年3月3日、昭和三陸地震がおきて大災害となっている。今の東日本大震災のほうが被害は大きいようだが、その頃の社会情勢と今とは大いに違うから、当時の社会ではどう受け止めたのだろうかと興味がわいた。
 1933年といえば、世界恐慌、昭和恐慌とされる時代の中心にあり、失業者は町にあふれ、労働争議は頻発し、農村部の疲弊は悲惨であった。その前の1932年には右翼や軍のテロリストが横行して政財界要人たちが次々と暗殺され、政党内閣が倒れて元海軍大将の斉藤実を首相とする「挙国一致内閣」となっている。
 満州では戦争、国内では大不況と政治不安という、どん底の時に東北地方で起きた大災害は、どう報道されたのであろうか。1933年3月の新聞を読んでみた。この月は、新聞号外が4回も出た騒乱の日々であった。
 戦争、大地震と津波、世界恐慌、外交問題などの事件が、その頃の日本を揺り動かして、更にその後の日本を下りの崖道に導いたのであった。1945年の崖下に転落する日本の悲劇の序曲を聴くようである。
 実はちょうどこの時期、わたしの父が一兵卒として中国で戦闘の最前線に出て、弾が身をかすめる日々を送っていたのである。わたし個人的にも気になる年月である。父はその戦争日誌をのこしており、その1933年3月の一庶民の戦場での日々と新聞記事を合わせつつ読んでみた。その後の歴史的事実と今日の動きを思い合わせて、わたしは時間航行者の気分になってしまった。

●満州建国1周年

1933年3月は、満州国のトップ記事から始まる。日本がその後にずるずると国際的に孤立して戦争に入る原因となった新国家である。
 1日の東京日日新聞夕刊の1面トップ記事は、「満州国建国一周年記念式 新京にて盛大に挙行 溥儀執政教書発表 3千万民衆待望の満州国1周年記念日」の見出しで、「3月1日、首都新京の慶祝大会は、熱河工作戦の中にもかかかはらず、いと厳粛盛大に挙行された」とある。
 いまでは中国の歴史では「偽満州国」といわれる、日本の傀儡国家の樹立がちょうど1年前だったのだ。満州帝国は1945年に崩壊する。
 この記事の隣には戦争の記事がある。
「南北敵軍総崩れ けふ赤峰に入城 茂木部隊先頭躍進 熱河陥落 時の問題となる 凌原から28里」
 これは1931年から「満州」でおきている戦争の一部の「熱河討伐」作戦で、日本軍が中国軍に出かけて行って戦っているのである。後の歴史を知っているわたしは、日本の暗い時代の始まりを思う。

●昭和三陸津波来襲

そして3月3日、「三陸沿岸に津波襲来、家屋の流失倒壊多数」(3月3日東京朝日新聞・号外)

この日午前3時32分に関東・東北一帯を襲った強震で、三陸沿岸に大津波が押し寄せた。のちに判明した規模はマグニチュード8.1、震度5、津波高さ28.7m、被害は死者・行方不明者合わせて3064人であった。

この頃の日本の人口は約6500万人(現在約12500万人)であった。年少人口は3人半にひとり(現在は7.5人にひとり)、老齢人口は21人にひとり(現在は5人にひとり)であった。

それから78年後の2011年3月11日14時46分、またもや大地震と大津波が三陸から関東地方にかけて襲った。

この東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9.0、震度7、津波高さ40.5m、7月末現在で死者・行方不明者合わせ約20000人である。

この地震津波に伴う福島第1原子力発電所(福島原発)の被災は、大停電はもとより核汚染物質を飛散・漏出をともない、地震災害を超広範囲に超長期にわたって拡大させている。

●内に津波、外に戦争

三陸大津波の惨害状況は次第に明らかになってくる。

「三陸一帯の大津波 惨害一報毎に甚だし」「岩手県 全滅部落続出し死者五百を超ゆ」、「そら大津波だ!」と叫喚 水地獄を現出」(3月3日金 東京朝日・夕刊一面) そしてこの惨事は中国での戦争ともリンクしてくる。 「3日朝東北東海岸大海嘯について目下判明せる流失家屋約2,500戸、その方面の満州派遣兵約420名ある旨盛岡聯隊区司令官の報告に接し、陸軍として罹災の出征家族及び遺族救恤のために取りあへず恤兵金中より金1万円を電報送金せり…」(3月3日金 東京朝日・夕) 中国戦線にいる兵士の留守宅や戦死者の遺族が罹災しているから、陸軍が1万円の支援金を支出するというのである。 更に3月14日にも、陸軍関係者の罹災者が予想外に多いので、更に2万円を救済費として陸軍関係罹災民に贈ることになり、この金は気の毒な在郷軍人にも贈る予定という記事(東京日日新聞夕刊)がある。 ちょうどこの頃、中国では「熱河討伐」作戦が進められており、約10万名の日本兵士が満州国軍と共に参加していた。
 熱河省は昨年3月に日本が樹立した「満州国」の南西にあり、万里の長城の北の地域であり、中国国民政府軍との間で争奪戦となったのである。
 地震津波で罹災した「出征兵士の家」は、父や子の徴兵あるいは戦死の上に二重苦三重苦であったろう。戦争が災害を増幅する。

●十五年戦争のはじまり

この2年半前の1931年9月18日、中国の奉天(現・瀋陽)の近くで、日本が権益を持つ南満州鉄道爆破事件がおきた。
 いわゆる柳条湖事件で、これは鉄道警備を名目に遼東半島に配備していた日本軍(関東軍)が、中国で日本の権益拡大を図り、中国東北地方の満州地域を占領して植民地にする意図で、戦火を拡大する陰謀事件であった。
 関東軍は、中国軍が鉄道を破壊したと称して、鉄道等の満州地域の権益保護の名目で出動し、1932年3月に満州国を独立させると日満議定書にある軍事防衛支援条項に基づいて、その領土保全の名目で当時の中国国民党政府軍と戦闘になった。形式上は満州国軍と中華民国国民政府軍との戦いである。だから日本の宣戦布告はないので、戦争といわずに事変とよんだ。
 日本政府は不拡大の方針であったが、現地の関東軍はそれを無視して中国領内に侵略を進め、奉天からハルピン、熱河省、ソ連国境へと戦火は拡大して、1933年5月のタンクー停戦協定まで続く「満州事変」となった。
 これが1945年の敗戦まで続く長い「日本の十五年戦争」の始まりであった。

●熱河作戦

 この満州事変に、わたしの父が参加していた。
 父の所属した岡山歩兵第十聯隊は1931年12月から1934年5月まで派遣され、 1933年2月から初めて戦争に出た22歳の父は、熱河作戦に通信兵として戦った。
  わたしの父が参加した「熱河作戦」の熱河とは、「満州」といわれる奉天省などの東3省と中国国民政府軍が制する北京・天津のある河北省の間にあり、境界は万里の長城である。
 その頃よく言われた「満蒙」地域の蒙つまりモンゴルにあたる。満州を領有もしくは独立国植民地にしようとする日本の意図として、東3省を制圧した関東軍は更に領域拡大を求めて熱河省に侵攻、万里の長城までの地域を確保する戦闘であった。
  約10万名の兵の日本軍は、約20万名とされる張学良軍等に勝ち続けて、1ヶ月ほどで熱河省の南境界線である万里の長城ラインまで占領してしまった。 更に勝ちに乗じて長城ラインを越えて満蒙地域とはいえない河北省に入り、蒋介石軍と戦いつつ北京(当時は北平といった)にまで侵略を進めていった。不拡大方針であった政府は、関東軍の行動をあとおいで追認した。

●出征兵士の留守宅の被災

 津波の被害は更に大きく分ってくる。
「流失家屋2千5百、行方不明無数 漁船の破壊五百艘 田老村の死者8百名」、「明治30年と同等 大きな地塊運動 三陸海岸は津波の常習地」「死者千5百35 行方不明948」(3月4日東京日日 夕刊)
 出征兵士の故郷の惨状にも目を向ける。
「罹災民のうちもっとも悲惨を極めているのは、満州第一線に出動している兵士家族の全滅乃至溺死である…家族の生死は出征兵士の士気に影響するを考慮し語るを避けている。8日までに調査した岩手県東海岸市街地における将兵の罹災家族は420家族、そのうち熱河討伐に出動中の兵士の家族は386戸、その中で涙なしに見られないのは倅の出動中家族の全滅したもの、老婆だけが生き残ったもの、兄と幼児だけを残して他は全部惨死したもの等で、その悲惨な家族は17戸に及び惨死75名に上っている」(3月9日東京朝日)
 中国内の戦地にいる兵士に、その故郷での大惨事はどう伝えられたのだろうか。「士気に影響するを考慮し」抑えられたのだろうか。留守宅が大惨事なった兵士は、帰郷を許されたのだろうか。戦地でも死ぬ、故郷でも死ぬ、どちらも運命は過酷である。

●父も通信兵卒として戦場へ

 3年目になる熱河省での戦争は広く展開して、いよいよ激しい局面を迎えている「川原挺身快速部隊は4日午前10時30分日章旗高く勇躍承徳に入城した。敵は関内に一斉に退却中」「我空軍更に追撃 湯玉麟北平に逃走 後続部隊も入城 承徳城内万歳の嵐」(3月4日土 東京朝日 夕) 承徳は熱河省の省都で清朝の夏の離宮があった。
 そのころ熱河省の首魁であった湯玉麟をその離宮から追い払ったので、首都陥落したから大勝利と報道はあったが、実はこのあとも万里の長城線での攻防で長い長い戦いが続くのである。
 3月11日には日本軍は戦線の終わりの線となる予定の万里の長城に至った。万里の長城には、これを通過する何箇所もの関所があり、地名に口をつけて呼ぶ。 この頃、わたしの父は日本軍部隊の通信兵として、そのひとつの界嶺口に向っていた。
  1931年に21歳で初年兵となった父は、その年に始まった満州事変で除隊できずに、1933年2月に朝鮮半島経由で満州に渡り、新京に待機していた。 3月1日、奉天から南に行く列車に乗り、熱河作戦の最前線に向けて出発した。
 三陸で津波のあった3日は、列車を降りて渤海沿岸の綏中という街で、現地旅団司令部の電話線仮設をしていた。父は岡山県の出身だから、三陸津波には関係はないから手記にも現れない。
 3月5日から、万里の長城の界嶺口に向って山越えの行軍に入った。途中で急峻な峠越えで銃砲機の運搬に苦労しつつ、何度もゲリラ戦にであっている。
 「三月六日 午前五時出発、次第に人家はなくなり、山又山、川は氷結しているのですべりながら行軍す。午前十一時半先遣隊敵と衝突、山砲五門始めて火を吹く。通信班も軽機にて応戦す。敵敗退せり。午後四時頃より峠に差しかかり、午後六時最大の難所に係り、終に車両の行進不可能となり、荷物と車と別々に、百三、四十輌を人力により上げ下げ作業にかかり、寒さは寒し腹はへるし、大閉口し、夕食は乾麺パンでこらえるより仕方なし」(昭和八年二月熱河討伐日記 伊達真直)
 行軍の途中で父たちの部隊は食糧に欠乏して、馬の餌の高粱を粥にして食べている。15日には農民が蓄える野菜類を略奪し、農民が「種芋だけは残してくれと哀願するのが哀れだった」と父の手記にある。
 日本軍は兵站を軽視して、食糧は現地調達の方針であったから略奪は日常行為だったらしい。中国の戦場となった地域住民たちは、日本軍ばかりか国民政府軍からも略奪にあって、それこそ津波の後のように何もなくなっていた。後に中国共産党軍が農民の支持を得たのも、略奪に厳罰を以って臨んだこともある。

●世界恐慌

3月6日の夕刊には、二つの国際的なニュースが乗っている。
 そのひとつは、アメリカで3月4日に就任したばかりのルーズベルト大統領が、全国銀行の4日間の一斉休業と金輸出を禁止し、通貨統制を行なうことを発表したというのである。この頃は1929年にニューヨークで始まった世界恐慌の延長上にあり、日本も昭和恐慌といわれる深刻な時代であった。
 ルーズベルトは就任早々からその対策「ニューでディール」をはじめ、その最初がこの記入統制であった。歴史的にみてこの頃からアメリカの景気は持ち直してきている。
 日本では恐慌対策を誤った若槻内閣が1931年に犬養内閣に替わり、高橋是清蔵相が金輸出禁止をし、満州事変も戦費調達の必要もあって、積極財政を行なって景気回復を図り、1933年から回復への方向となっていた。戦争を景気浮揚の道具にしているのである。
 東北地方は、1931年に凶作で飢饉に見舞われていたが、1933年ようやく立ち直る兆しが見えたときに大津波、更に翌1934年には大凶作で飢饉に見舞われるのである。

●ドイツでナチス政権

 もうひとつのニュースの舞台はドイツである。
「5日挙行のドイツ国会総選挙結果は6日午前3時に至り公式に暫定最終結果が発表されたが、右結果によれば国粋社会党は全壊に比し無慮93議席を増加して国会に288名を擁し、オーストリア国権党52名を加えれば340名の圧倒的過半数を新国会に制するにいたった」(3月6日火 東京朝日 夕)
 この後の3月24日にもニュースがある。
「ナチス独裁の覇業遂に完成す…ドイツ国会は憲法の変更を目的とする全権委任法を可決した。全権委任法は憲法に規定された国会、大統領、参議院などの権限の重要部部分を政府そのものに譲渡するもので、国政の基準たる憲法はその髄を抜き取られ政府は名実ともに完全なる独裁権を握るに至った。国粋社会党の党歌の合唱耳を聾する「ハイルヒトラー」の交響楽のうちに議会は無期休会を決議し、かくてドイツ共和制は成立後14年にして実質的に圧殺された」(3月24日 東京朝日 夕)
 日本は後にこのナチスと携えて、共に崩壊に至るのだ。この朝日新聞の論調は、まだナチス礼賛にいたっていないところが興味深い。

●災害と子ども

 3月11日には、アメリカのロサンゼルスで大地震が起きて、死者500人以上との記事がある。ここには津波はなかったのだろうか。
 三陸では被害はますます拡大して、子どもが飢えている。
「罹災児童総数は岩手県7千2百名、宮城県千百名、青森県百名、死亡児童の判明せるもの岩手県365名、宮城県約10名、青森県1名 従来同地方の欠食児童は約300名であったのが一躍6千4百名に激増しいずれも給食を要することになった」(3月14日東京日日 夕)
「欠食児童に学校給食 文部省6万円追加要求 欠食児童約5000人これが経費6万円を昭和8年追加予算を大蔵省に要求」(3月17日東京日日 朝)
 災害はいつも弱いものに強くかぶさる。東北地方は翌年の19434年には食糧飢饉に見舞われるのだが、このときも欠食児童はもちろんだが、身売りされていく女子が続出したという。
 この頃の日本の年少人口は全人口の3分の1を占める約3000万人がいたから、それだけ多く子どもに被害がかかったことになる。
 現在は総人口は増えたが、年少人口は約1700万人に減っている。だが2011年の大地震は、こどもに大きな被害をもたらしている。それは地震で故障した福島第1原発から漏れて広範囲に広がる核汚染物質の影響である。小さい子ほどその健康への影響が大きくなるというのだ。多くの親が、その子を遠くに避難させている。
 これを書いている2011年7月末、福島の子どもが夏休みに大転校が起きるという。
「福島県のほとんどの小中学校は夏休みに入りましたが、……1000人を超える子どもが夏休みに転校することが明らかになりました。放射線への不安や家族の生活のために引っ越すケースが多く、長引く原発の事故が子どもの学校生活に大きな影響を与えています」(NHK WEB7月21日 )
 1933年、東北の子どもは津波の翌年も飢餓の災禍が続いたが、2011年の今は飢餓はなくとも、東北とくに福島の子どもは来年はどうなるのだろうか。
 後世の人が今の時代の新聞を読んでどう思うだろうか。

●万里の長城争奪戦

 一方の満州での戦争は進み、父の行く界嶺口がいよいよ新聞に登場したのは3月11日であった。

「古北口一帯を掃討 長城全く我手に回収」、「界嶺口、喜峰口も占拠服部中村両部隊の進撃」、「関門守備隊苦戦に陥る 長城をはさみ彼我激戦」(3月11日東京朝日)
 この日は父はまだ行軍中で界嶺口には到達していないが、3月15日に界嶺口近くの長城の麓に達している。16日は砲弾の行き交う最前線で通信線の附設作業をして、界嶺口を占領したと書いている。この16日の記録は異常に詳しいのは、身に危険が迫ったからあろう。
「…山腹に平蜘蛛のように停止した時、頭上に大音響、耳がジーンとなって聞こえない。黄色い煙が立ち上がっている。敵の山砲弾が破裂したのだが、運良く当らなかった…」(「昭和8年熱河討伐日誌」伊達真直)
  新聞報道だと10日に占拠だからずれがあるが、それは既に先行部隊が取ったのであり、その後でも何度も戦闘で取ったり取られたりしているから、どちらも正しいのだろう。 戦場のニュースは、長城で大勝利のようにも見えるが、実際には父の手記にもあるのだが、新聞をよく読むと苦戦しているのである。
「喜峰口一帯の戦雲いよいよ重大化 支那軍の逆襲態度に皇軍或は関内進出か」「界嶺口方面でも激戦」「関内に進出するも責は支那にあり 陸軍当局決意を語る」(3月16日 東京朝日 朝)
「今は止むなし我軍関内を爆撃 地上隊も一斉起つ 敵軍続々熱河に侵入」(3月16日東京朝日 夕)
 ここに関内とあるのは、熱河省の南限の万里の長城を越える地域のことである。熱河省までは満州だと強弁しての日本軍の侵攻であったから、長城を越えるべきではないのである。政府は不拡大の方針で長城でとめるとしていた。
「長城を越えるのは絶対に避けたい 外相希望 衆院予算総会 日本としては長城の南に兵を進めることは絶対に避けたい、ただ長城を境界として守りどう方面の治安を維持したいといふのがわれわれの希望で、…」(3月18日土 東京朝日 朝)
 現地の日本軍は、長城まで攻めて国民党政府軍を関内に撃退しては引き返すと、また敵が反撃してくるというくり返しであったので、敵を徹底的に叩くために長城を越えたがっていた。そこで「責は支那にあり」と勝手な論が出てくる。

●被災地救援と言論弾圧

 3月14日に「作家同盟の暗躍 赤化の処女地へ 打続く「赤」の記念日に職場一斉蜂起を企つ」の見出しの記事(東京日日)がある。これはプロレタリア作家同盟の末端メンバーの教師、学生、俳優たち多数を赤色分子として検挙したのである。
 同じ日の小さなニュースに「先頃築地署で急死したプロ作家小林多喜二氏の『労農大衆葬』を3.15の記念日たる15日、築地小劇場において挙行する計画を立て、13日午前上村、布施両氏が代表となって警視庁を訪れ、特高課の了解を求めたが当局から不許可を申渡された」とある(3月14日 東京朝日 朝)。
 先月2月20日に治安維持法違反容疑で逮捕され東京・築地署に留置されていたプロレタリア作家の小林多喜二を、特別高等警察は拷問して虐殺した。このことは大きく報道されて一般に周知のこととなった。その葬式を警察が不許可にしたというのである。暗い時代が始まりつつあった。
 3月26日に、暗い時代を思わせるもうひとつの記事がある。
「文芸時評 削除は不愉快 徳永氏の大衆小説を読む 直木三十五」(3月26日 東京朝日 文芸欄)
 直木は文学賞の直木賞のあの直木である。直木賞は2年後の1935年から始まった。その直木が書いている内容は、警察当局の検閲によりプロレタリア作家の徳永直の小説の一部が「・・・・」や「何行削除」となっていることへの言及である。
「検閲方針の非文化的または非常識的取締り及び編集者の萎縮的伏字にも、この日はもちろんあるが、」と直木は書きつつ、徳永が敢えてそれを避けようともしないで、削除で意味を成さない作品となることを意図する態度に疑問を投げている。文章に技巧を凝らして削除されないようにせよ、というのである。これは検閲側にすり寄っているようにも読める。作品の検閲削除ばかりか、その作家の生命までも危険を及ぼす、暗い時代になりつつあった。
 同じ26日に、被災地救援活動と言論弾圧とを結びつける事件の報道がある。
「罹災につけこむ赤を大検挙 慰問品中に過激文」(3月26日 東京朝日)との見出しで、前日の明け方に宮古署と釜石署は若い医者、看護婦、学生たち6人逮捕した。その容疑は、左翼団体の密命によって慰問班、調査班、医療班の3部制で震災地の救援をして、「慰問品の中に階級意識をそそるような慰問文をいれ、各所に配給した形跡があり、さらに大規模なこの種企てをなしつつあったものの如く、引き続き取調べ中」とある。これでは団体でボランティア活動も、うっかりできない。そういう時代であった。

●2年間で戦死1700人

中国での戦争は厳しい。
「勇士の英霊千7百 靖国神社へ合祀」(朝日新聞3月17日朝刊)の見出しで、満州、上海両事変で名誉の戦死をとげた殉国の勇士1700名を靖国神社に合祀する、とある。つまり1931年から中国戦線で日本軍は、それまでに1700名もの死者を出していたし、その時点でも戦場では死者は増えていたことになる。
「陸軍徴募人員1万人増加 両3日中に上奏」(3月20日東京朝日夕刊)の見出しで、本年度より壮丁の徴募人員は、全国にて約1万人増加されることになったとある。中国戦線での死者がおおいので、次々と補充する必要があるということだろう。
 3千人もの三陸地震での死者行方不明者を出しつつ、一方では戦場で毎日死者を出し続けて、1万人もの補充をする。
 この満州事変(1931~33年)を通じての戦病死者は約4000名にのぼり、更にその後の支那事変の死者は約19万名であったそうである。
 ついでながら十五年戦争での戦病死者は約230万人という。もちろんこのほかに民間人の死者も厖大にいる。

●父の戦場

さて、父の戦場の界嶺口はどうなっているだろうか。
「20日朝8時、界嶺口前面の敵大部隊は突如関門を守備するわが中村部隊に対し猛烈な攻撃を開始したが、中村部隊は直ちに応戦し壮烈な激戦が開始された。敵は正午に至るも頑強に抵抗を続けていたが、…敵の頭上より爆弾の雨をふらせ…午後1時半に至り総崩れとなって南方台頭営の本陣地に潰走した」(3月20日東京朝日夕刊)
「敵軍以前挑戦 各方面で戦闘」の見出しで、冷口では迎枝隊の肉弾で戦敵に全滅的打撃を与えたこと、界嶺口では中村部隊が交戦中、古北口では我兵負傷5戦死3」(3月26日東京日日)
 かなり苦戦をしているようであり、現地直接情報である父の手記にも、15日から毎日、断続的に長城線の争奪の戦闘が、一進一退しながら続いていることが記されている。21日は食糧がなくなり、また現地農家に芋を略奪(徴発という)に行っている。
 長城線を境にする戦いは、日本は長応戦を南に出ない方針であるため、国民政府軍を長城の南の関内に排撃するとそれ以上は押さない。国民政府軍とっては長城線の北も自分の領土だから、いったん南に逃げても直ぐに頂上線へ取って返して反撃を繰り返すのであった。現地の日本軍はそれに歯噛みをしていた。
「関内不進出主義を放棄 断固強硬政策か 親日の仮面を冠る積極抗日 我が軍部当局緊張 裏面に英米糸をひく」(3月24日 東京日日)
 とうとう長城線を越えて河北省への侵攻に踏み切ったのである。
 父の手記には「3月26日長城国境突破の命くだり北支那深く進撃開始」とあり、長城の南へと兵を進めたのであった。
 3月26日の東京朝日新聞には、2面を使って満蒙資源科学座談会の記事があり、各方面の科学者や技術者が、そこでの資源が豊かであるらしいと語っている。この頃に出された出版物「熱河討伐及び熱河事情」(1933.5新光社)にも埋蔵資源への期待に満ちている。日本が資源欲しさでの植民地政策であったことがよく分る。
 実は、もっとも大きな収入となる産業は、アヘン栽培とその麻薬製造販売であったと、今では分っている。

●急激に減る三陸報道

「三陸震災復旧費630万円 けふ閣議で承認 内務省2486千円、農林省3194千円 公債発行法案も同時提出予定」(3月20日東京朝日 夕)とあり、この予算は25日に衆議院で可決している。
 三陸災害のニュースは、3月半ば頃から急に少なくなる。義捐金や復興予算付けのニュースはあるのだが、現地被災者の様子のニュースがほとんど見えない。被災者や復旧の様子がめったに出てこないのだ。
 わずかに、朝日新聞の記者たちが手分けして、三陸の孤立した地域に歩いて行き、義捐金を手渡して感謝されるルポルタージュ記事が19日から3日間連載sれ、これに被災地の悲惨な様子が若干あるくらいなものだ。
 地方紙や全国紙地域版には掲載されたのだろうか。もしかして、中国大陸での戦意をそぐからとて、地域版のほかは悲惨な被害状況報道を当局が抑えたのであろうか。
 後に第二次世界大戦の敗戦濃厚となった時期の1944年12月7日に発生した東南海地震、1945年1月13日に発生した三河地震は、被害規模をあわせると死者・行方不明者が約3500人、住家・非住家全壊が約5万棟の大災害であったが、政府はその報道を厳しく規制した。
 東南海地震では、知多半島にあった中島飛行機の工場が倒壊して、大勢の少年少女の学徒たちが死亡したが、航空機生産ができなくなったことを秘密にするために、地震そのものの厳重な報道管制がしかれて、被災地には他からの救援さえも来なかったそうである。

●満蒙開拓団

 中国大陸では、日本によるもうひとつの侵略も始まった。
「第2回自衛移民団 関東、東北で募集 その人選、移住地等については、陸軍と関東軍と打ち合わせ中であるが、陸軍では第2回自衛移民は中国ならびに九州地方より選定する意向であったが、その後種々の事情から第2回自衛移民は大体第1回同様、青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、新潟、石川、富山、茨城、栃木、群馬、長野、山梨各県の在郷軍人から五百名を選定することに決定した」(3月20日 東京朝日新聞 夕刊)。
 この「自衛移民団」とはなんだろうかとネットで調べたら、「試験移民団」とも「武装移民団」とも言われたらしいが、1932年にできた日本の傀儡政権「満州国」の、辺境の地に送り込んだ農業移民「満蒙開拓団」の初期の名称である。
 第1次移民団は1932年に送り出しているが、その名前のようにまさに武装しての移民であった。関東軍の庇護の下にあった。
 なぜ「自衛」とか「武装」の移民団であったかは、現地で地元民のゲリラに襲われるからだった。その移植地が、もともとその地を開墾して耕していた現地の農民たちの土地を、日本政府が武力で以って安価に無理矢理に取り上げたために、当然のことながら抵抗がありトラブルが発生するのだった。
 この武装開拓団が試験的に入植し、1936年から本格的に集団移民が始まった。1945年には30万人前後となり、ソ連参戦後の大混乱で悲劇となり、帰国できたのは11万人であったそうだ。満蒙開拓団は、敗戦での被害者である前に実は加害者であったのだから、慰霊碑への中国人の非難は当然だろう。戦争の被害と加害はあざなえる縄か。
 1933年の三陸大津波の頃は、日本は昭和恐慌が続いていて労働争議は頻発し、特に農村は疲弊していたので、王道楽土・五族協和の美名の下に、植民で棄民をしたのであった。
 今の日本はどうだろうか。リーマンショック以来の不況は深刻になり、そのようなところに東北地方を中心に大津波、その上に核物質が拡散するありさまで、先行きが見えない閉塞感に閉じ込められている。
 この大不景気打開のためにイッパツ戦争を、なんてことにならないように、祈るしかない。なにしろ日本が1945年の敗戦から立ち直ったのは、1950年からの朝鮮戦争特需だったのだから。 (この項2011.8.9追加)

●父の熱河戦闘終了

中国の熱河戦線の月末からの状況であるが、決して楽ではない。
「敵軍以前挑戦 各方面で戦闘 冷口ー迎枝隊の肉弾戦敵に全滅的打撃 界嶺口ー中村部隊交戦中 古北口ー我兵負傷5戦死3」(3月26日 東京日日)
「敢然長城越え敵陣地を粉砕す 界嶺口で我死傷21」(3月28日東京朝日 夕)
「山海関緊張」「頑強な逆襲を怒り迎枝隊の肉弾戦 冷口前面の敵地線量」「中村部隊死傷者総計100名」(3月29日東京朝日 夕)
「九門口方面事態愈々急迫 優勢な敵の攻撃続く」(3月30日東京日日 夕)
 長城の界嶺口戦線にいる通信兵の父はなにをしているか。
「三月二十五日 午前六時宿舎を攻撃される。すわと飛び起きる。……午前八時に中隊前の山に突撃、撃退す。旅団ー聯隊間の線不通となり、我が構成班にて保線に出て、自分が断線箇所を発見、直ちに応急修理す。今朝の敵弾にあたった様でした。この部落民の密通により大行李奪取の目的で敵襲されたらしく苦力を強問中とのこと」「三月二十六日 長城突破の命くだり、北支那深く進撃す」(昭和八年二月渡満状況日記 伊達真直)
 この後は、4月9日界嶺口の関門にて午前零時より総攻撃開始、4月11日まで戦闘、長城に架線をする。この後は河北省内に入っていく。
「四月十五日 早朝より銃声はたと止み、戦場静かなり。……午前十時我が旅団は赤火庄に集結し、台頭営に向って前進す。……行く道の部落は我が飛行機の爆撃により、損害多大なり。……我々の行く道に生き残れる部落民は、我が軍をなぐさむる為か、湯又は水を汲み捧ぐ。日章旗は戸々に掲げられるが、心からかどうか歓迎している。亡国民は敵ながらも気の毒な次第である。午前五時台頭営に到着……」
「四月十六日 撫寧入城。ここは大城壁をめぐらし、ここに居れば堅固なものだ。昨日五百名からの苦力により飛行場建設さる。この町は略奪に会ひ、惨憺たる有様なり。我が宿舎の主人は剣身にてなぐられ、ほおを腫らし、我につらがり涙せり。妻は連れ去られたとの由」(昭和八年二月渡満状況日記 伊達真直)
 つまり、4月13日まで戦闘が断続的に続き、一進一退しながらも敵に攻め勝って、ついに界嶺口から長城を越えて河北省まで侵攻してしまう。現地軍は、長城を越えないという政府方針を無視したのであったが、結局は後追いで承認されるありさまだった。
 4月25日に、父の部隊は長城の東の末端にある渤海沿岸の山海関に入って、その後は満州の新京に列車で戻ったのであった。熱河の戦いはまだ終っていない。

●国際連盟脱退

 3月も押し詰まろうとする27日、新聞の号外が出た。この月の号外は、3日震災発生、6日省都承徳占領、17日長城古北口占拠につぐ4回目である。
「国際連盟脱退の大詔煥発せらる 同時に政府中外に声明」(3月27日東京日日新聞号外)とあり、天皇詔書は「今次満州国の新興に当り帝国は其の独立を尊重し健全なる発達を促すを以って東亜の禍根を除き世界の平和を保つの基なりと為す然るに不幸にして聯盟の所見之と背馳するものあり朕乃ち政府をして慎重審議遂に聯盟を離脱するの措置を採らしむるに至れり…」
 1932年3月1日に日本の後ろ盾で樹立した「満州国」について、国際連盟はその成立性に疑義を持ってリットン調査団を現地に送った。そのリットン報告書は必ずしも日本に全面的に不利ではない内容だったが、日本軍、政府は承認できなかった。 33年2月24日連盟総会がリットン報告書を、ただ日本一国だけの反対で採択すると、日本代表団は議場を退場した。そしてこの連盟脱退にいたった。

 これで日本は世界の孤児となり、戦争にずぶずぶとはまっていく。
 4月半ばから日中両国から停戦を模索する動きが起きて、紆余曲折の末に5月30日に停戦協定(タンクー協定)が成立して、熱河の戦いは停止した。しかし日本軍の都合の良い方向瀬の協定であり、その後もあちこちでゲリラ戦がたびたび発生していた。結局は1937年に日中戦争は大規模に再発して、泥沼状態になっていく。
 熱河戦線の後の父は、満州東部の間島にいてこの年末に除隊して帰郷した。だが、父もずぶずぶと戦争に取り込まれて、1938年6月には中国戦線にふたたび送られて1940年末に帰り、更に太平洋戦争で1943年12月から45年8月まで国内で兵役についた。わたしは8歳まで、父といたのはその年月の半分だけだった。

●戦争と原発

 2011年東日本大震災と1931年昭和三陸大震災を比較しようと思って、1933年3月だけに限定して新聞の縮刷版を、わたしは読んだのであった。その後の世界を知っている立場で読んで気がついたのは、このあたりから大きなあるいは小さいながらもこの後の日本の運命を予告する事件がたくさんあって、時間を越え空間を越えて興味がつきなかった。
 戦争と津波、この時代と現代、その間の報道姿勢の違いが興味深い。2011年3月11日の東日本大震災のニュースは、これを書いている4ヵ月半後も、新聞紙面には継続掲載している。だが、1933年の三陸大災害の報道は、1ヶ月のうちにほとんどなくなった。死者行方不明者3000人余とは、その程度のものだったのだろうか。
 中国大陸での熱河作戦に関する戦争報道と三陸地震報道のそれぞれの記事数を、東京朝日新聞の3月縮刷版の目次欄で拾ってみた。
 三陸地震の現地報道記事数は、3日の号外は別として計63件、このうち4日が15、5日が7、6日が3、8日4、9日2、10日4、11日3、12日3、13日1、そしてその後は1件づつである。この急減する様子が奇妙でさえある。
 では、1933年3月熱河作戦の現地報道記事はどうか。こちらは毎日のように登場して3月の合計は131件、このほかに号外が3回出ている。三里地震の倍以上である。
 この地震津波被害報道の数との大きな差は何だろうかと思う。
 熱河省での戦争は日に日に状況が新展開し、その行方は国運を左右し、そして戦死戦傷者は全国へと波及する悲劇であるから、全国紙としてのニュース性は高い。
 これに対して三陸罹災記事は、地方限定だし復旧事業は全国ニュース性は薄い。憶測だが、悲惨な記事は戦意高揚にジャマだとして規制されたのかもしれない。そのあたりに差が出てくるのだろう。
 ところが現代の災害報道は、2011年の東日本大震災の報道記事は、5ヶ月経つ今も毎朝夕に報道されている。たしかに被災規模が巨大だから、復旧も時間がかかるからニュースは続くだろう。幸いにして一方に戦争がないせいもあるだろう。
 だが、思うに、昭和三陸地震とどこが違うのか、報道屋が好きなニュースとなる新奇性があるのか。この今の報道継続の裏には、福島第1原発事故が、津波以上に奇怪にして新奇性を持つ事件を拡大しつつあることがあるのだろう。これが東日本大震災をメディアに飽きさせない原因だろう。

●またもや業を負ったか

 今の原発というエネルギーを求めた結果の事故と広範な大被災を思うと、十 五年戦争と奇妙に符合するのは、かのときも石油というエネルギーを求めての大陸や南方侵略の結果の悲劇であったことである。
 その悲劇の終幕は原爆であったことを思うと、今の悲劇への連続性に驚くばかりである。
  かつて被爆があったように今は被曝が進みつつある。これは現代の戦争である。戦争はそして核汚染は、子どもに特に悲惨になる。
  原発事故沈静への一生懸命の処理作業にもかかわらず、被害は広く深く続く一方にある。核物質の空からの降下は被曝地域を拡大し続けているし、核物質汚染の食品は全国に被害を及ぼしつつある。
  戦争なら講和もあるが、原発事故には無条件降伏しかない。いつか沈静させて廃炉になったとしても、その後にも長い長い敗戦処理、つまり核汚染廃棄物質の鎮静には何十年、何百年、いやそれ以上の対応が避けられない。
  熱河の戦争は1931年から始まって1945年に終るまで十五年戦争の始まりであった。そして日本が立ち直るには更に10年は必要であった。
 その期間の長さは、原発事故という現今の戦争そして終戦から再び立ち直るまでに、あるいは似ているかもしれない。
 十五年戦争が原爆で終わり、その後遺症が今も続くことを思うと、今、私たちは原発によってまたもや業を背負ってしまったのだ。(20110731)

参照

地震津波核毒原発おろおろ日録

http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

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