奇蹟の一本松のレプリカ復元保存は
どのような意味を持つのだろうか

伊達美徳
 
◆奇蹟の一本松をレプリカ復元
 先般、陸前高田氏を訪ねて、被災した街と松原があったはずの沿岸部、そして再建中の一本松も遠望してきた。
 陸前高田市では、3・11津波によって、ご自慢の「高田の松原」が壊滅した。
 その中で、1本だけ突っ立っていていて、感激させた松も塩枯れしたのだが、これを「奇跡の一本松」と名付けてレプリカ復元工事が完了したそうだ(2013年4月4
日ニュース)。
 そこには「奇跡」として、多様な被災者たちが、それぞれの多様な物語を、このレプリカに込めていればこそ、1.5億円もかけても復原したかったのだろう。
 
 その復原工事の最後に、ひと騒ぎあったとのこと。
 くだんの枯死した松は切り倒されて、どこかに持って行って、幹や枝はプラスチック注入強化され、鉄の心棒を差し込まれ、葉は(たぶん)プラスチックでコピー再現された。つまり松はサイボーグになった。
 そしてまた元の場所に戻ってきて、元の姿に組み立てられた。
 ところが、市民から異議が出た。枝ぶりの曲がり方が、以前とは違うというのだ。やり直してどうやら完成したようだ。
 どうも地元でも、これについては復元是非論があるらしい。余所者のわたしには、この一連の事件を理解することは難しい。
 どんな気持ちが込められているのか、一人一人違うだろうから、それを類推しても仕方ないので、よそ者なりの感想を書く。


 わたしの興味はそれよりも、枝ぶり曲りぶり振りまで完璧な元の姿を求める意味である。津波災害の思い出のよすがとしては、伐り倒す直前の枯死した姿にしたいのであろう。
 だが、既にサイボーグになっているのだから、元の松の木ではない。工事の瑕疵問題は別として、元と違っていても大した問題ではないだろうにと、わたしは思う。
 元の姿に固執するなら、緑の葉になっているのはおかしいだろう。津波をかぶって孤立して枯死して茶色になった姿こそが、この松の本来の復元すべき姿であるはずだ。
 
 また気になるのは、1本松の立っていた元の環境は、昔から1本松だったのではなく、7万本もあったと言われる「高田の松原」の中の1本だったことだ。
 松林の中で互いに支えあう植生環境にあったのが、元の姿である。こうして1本松としてシンボライズされたら、もうまわりに松林を復元することはできないだろう。そうしたら、「一本」松ではなくなるからだ。
(2012年)
 
(2011年津波被災直後)

(2010年 津波被災前)
 
◆失敗のシンボルとしての奇蹟の一本松
 ところが、この一本松は、単に一本の松ではなく、7万本もの高田の松原の象徴としての意味づけが付与されているはずである。
 これは地元の人々とは全く異なる考えになるだろうが、あえて書く。奇跡の一本松は、失敗のシンボルと思うのだ。
 三陸沿岸部では、津波被害の重層する歴史を誰もが知っている事実であろう。だから、陸前高田の松原が7万本もの植林事業で営々と築かれ守られてきた本当の意味は、松原の風景を愛でるためだけではなく、海からやって来る津波への対策が込められていたに違いない。
 
 それが全滅とは、松原は全く役に立たなかったということである。それどころか津波に乗った大量の倒木群が市街を襲ったに違いない。1958年の伊勢湾台風が、港の貯木場にある大量の材木群を市街に運んで襲い、名古屋が大災害になったことを思い出す。
 高田の松原は市民によって手入れをされて、大切に保たれてきたらしい。松林に自然に入りこんでくる広葉樹をそのたびに除去して、松林は文字通り松だけが立ち並ぶ単純林で、日本人が好きな白砂青松の風景をつくってきた。
 その風景は、絶え間ない手入れが必要な一種の里山風景である。その方法に間違いがあったのだろうとお思う。
 一本松は、失敗の松原を象徴するものとして、とらえることができる。
 
 今、一部の津波被災地沿岸部で、「森の長城」と称する津波対策の森づくりプロジェクトが、植生学者の宮脇昭の提唱で動きつつある。
 宮脇の森づくりは、松の単純林ではなく、広葉樹と混合する多様で多層の森を沿岸部に長城のように築き、津波に対応しようというのである。多層混合林こそが、日本の本来の森であり、単純林にはない自然対応力があるというのだ。
 宮脇がこれまで日本各地で、世界の各地で実際にやってきた実績に基づく提唱だから説得力がある。わたしは宮脇先生とは既知であり、昔からその手法を見ているので、昨年11月に森の長城プロジェクトのもとになるドングリ拾いに、仙台や塩竈あたりに行ってきたのだった。
 
 高田の松原は、復元に向けての活動が行われていることが、ウェブサイトで分かる。さて、またも松だけの単純林を再現しようとしているのだろうか。
 「奇跡の一本松」の教訓を、地元ではどうとらえており、どう活かされるのだろうかと、余所者は興味を持つのである。
 一本松の復元、そして松原の復元、これを一連のものとして考えているだろうか。

◆被災の記憶を風景としてどう伝えるのか
 被災地のあちこちで、災害の記憶を消さないように、視覚的な記念物として被災風景の一部を残していこうという動きがある。
 おおくのそれは人工物が対象となっているが、高田の一本松が自然の植物であり、しかもレプリカ復元であることが、異色と言えば異色である。
 もっとも、この元の松も厳密な意味では自然ではなく、人間が植えて育てた人工物であるから、それが人工物のレプリカとなることも当然かもしれない。
 
 災害を記憶するために、被災物の何かを残すとか復元するとかの行為については、悲劇を忘れたい人たちと、忘れたくない人たちのあいだで、実に人間的な葛藤が繰り広げられて、悩ましいことである。
 しかし、記憶をすることは次の災害を防ぐ、あるいは減災するためには必要なことである。問題はそれをいつまで記憶するかである。
 だれが見ても分かる形で未来永劫に記憶するためには、どうすればよいのか。過去の津波の記憶が消えようとしていたことが、このたびの災害の規模にかかわっているだろう。
 
 今、日本で忘れ去られようとしつつある時期に来ている大災害は、アジア太平洋戦争の惨禍である。300万人もの日本人が死んだのに、その記憶のよすがとなる風景遺物は、わずかに広島の原爆ドームのみになっている。
 実は、東京駅の赤レンガ駅舎は、東京が戦火に焼かれた大災害とそこからの復興を記憶する絶好のよすがであったのだ。しかし、敗戦から60数年戦たってそれを忘れられた結果、今は戦前の姿への復元されてしまった。もうあの東京空爆による20万人もの死者があった戦争はなかったかのごとくである。
 
 高田の一本松は、あの大災害をきちんと伝える役割をいつまで果たすだろうか。大災害を伝えるに足る姿として復元されたのだろうか。
 この松の木が孤立して残った一本であり、一本松は単なる立木というモノではなくて、荒野に中に一本立ちの風景にこそ意味があるはずだ。この松は残ったのではなく、実際は最後の松として枯れて倒れたことで、松原の全滅の象徴でもあるのだ。

 とすれば、この周囲には松林を復元するのではなく、荒涼たる高田の松林の消滅跡の荒れ地をも保全して、そのなかに一本松が枯れて立つ風景を残さなければなるまい。そうしてこそ、この一本松を1.5億円もかけて再現した意味があるのだ。風景としてこそ意味を持っているのだから。
 しかし、荒野のままでは津波を防ぐ森づくりにはならない。この一本松がかつての高田の松原とは比べ物にならないほどに深い密な森林の中に埋もれて、津波除けの一員になってこそ、1.5億円もかけて再現させた意味があるのだ。

 この矛盾した両意味の間に挟まれて、陸前高田市民はやっかいなものを残したことになる。
 松も土地もユースホルテルのものらしいが、だれが管理するのだろうか。
 これからどう災害を物語として、この松が後世に伝えるように保持されるのだろうか。(2013/06/04)

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