地震津波原発日記(その1)
2011年3月分

はじめに           伊達美徳

2011年3月11日から始まった大事件は、名づけて東日本大震災。もしかしたら日本の第二の大敗北事件になるかもしれない。もちろん第1の大敗北は、太平洋戦争である。原発事故が誘発されて、新たな思想史的展開が起きそうだ。

横浜に住むひとりの庶民として、3月11日の発災の日から地震原発日記をブログに載せてきたが、ここにまとめておく。こうやってまとめて読むと、なんだか説得力あるような気がする。
あれから4ヶ月近く、いまだに東北に足を踏みいれていない、ある種の心やましさを持っている。(110705伊達美徳)


2011年3月11日金曜日
地震で部屋の戸が開かない

13時40分頃、県立図書館からふらふらと坂を降りて、伊勢町のバス停留所でバスを待っていた。友人から電話がかかってきて話していると、めまいがしてきて足元がえらくふらふらする。あれれ、もしかして脳梗塞か?

見上げると電信柱も電線も左右に振れている。あ、地震だ、ゆらゆら、長いなあ、立っているのが不安で、そばの電信柱につかまって身体を支える。目の前の2階建ての店舗がゆれていて、なんだかこちらに倒れて来そうで、歩道から車道のほうに逃げる。友人と何を話していたか忘れて、あ、地震だ、またあとでねと切り、今度は自宅に電話すれども通じない、何度やっても通じない。周りのビルを見ても特に被害はなさそうだから、築10年と比較的新しいわたしの共同住宅ビルは大丈夫だろうと、自分に言い聞かせる。
少し揺れが収まりつつあり、やがてバスが来た。医者に寄って戻るつもりだったが、真っ直ぐに家の戻る。道に出ている人がえらく多いのは、ビルから避難したのか。

1階のビルの玄関を入るとエレベーターが止まっている。インターホンで妻に無事かと言えば、無事と答があってほっとする。7階まで階段を登って家に入る。げた箱の上の絵の額が壷に寄りかかっている。居間など特に変わりなしで安心。
ところが、わたしの部屋に入ろうとしたら、ドアが開かないのだ。1センチぐらい向うに動くが、そこに何かがつかえている。隙間から見ると、ドアの並びの壁の本棚が壁から浮いてドアの前に傾いていて、開くのをさえぎっているらしい。横から棒や板を突っ込んで本棚を押すが、意外に重くて動かない。ドアのまんなかぶち破って入るしかないかと思案しているところに、近くに勤め先のある息子が心配してやって来た。二人でどかどかと押しているうちに、隙間が2センチぐらいに開いた。そこからのこぎりを突っ込んでジャマしている棚板を切り落としたら、やっとドアが開いて部屋にはいることができた。この間2時間くらいだったろうか。部屋の中のドア近くには、本棚を押したり切ったりしたので20冊ほどの本が落下したていたが、これは地震の間接被害で、振動の直接被害で棚から落下したのは10冊程度であったようだ。壁にかけている弟が打った能面が傾いている。

とにかく無事でよかったが、こんなに大きくゆれたのは物心ついてからだと、1948年の福井地震以来の経験である。寒い東北地方が大被災のようで、気の毒である。まだまだ余震が続いていて、船酔いみたいな気分、これが酒酔い気分になればいいが。これで民主党政権は危機管理をいろいろと問われる試練になるだろうが、献金とか年金とかでマスコミと野党からあれこれ重箱の隅をつつかれるのは、とりあえずお預けであろう。

2011年3月12日土曜日 横浜都心地震探検

昨日の東北関東大地震で、太平洋岸の津波がものすごいことになっている。 東京は知らないが横浜都心でも、ビルの表で見たところでは数は多くはないが若干の被害が見えるから、内部では物が壊れたりしてかなり被害があるだろう。 自転車で医者に行ったついでに、ご近所の探検をしてきた。 ビルの壁のタイルや仕上げの崩落があるところが、あちこちにある。 地面の舗装が妙にひん曲がったり、落ち込んだりしているところがあり、修理をあちこちでやっている。 山下公園が立ち入り禁止となっているのは、どんな被害があるのだろう。 伊勢佐木モール入り口にあるゲームビルが、全館休業している。聞いたら電気系統が故障なのだそうだ。 モールの中ほどにあるゲームビルも、3階の窓ガラスが2箇所割れているが、こちらは営業中。モールの店で休んでいるものの点在するのは、片づけをしているのだろう。 街を行く人たちの会話や携帯電話の声が聞こえると、ほとんどが地震を話題にしている。露天商のおばさんが、今日は商品が来ないのよ、 と大きな声で言っている。 みなとみらい21地区は特に何もないように静かだ。 中華街も何もなかったように営業しているが、土曜日なのに人出が少ないのは、さすがに遊びに来る人がいないからだろう。

2011年3月13日日曜日
震災名と地震名は違うのか

●津波の街その前後

http://homepage2.nifty.com/datey/tunami0311/tunami-before-after.htm

ウェブサイトでのマスコミ報道を見ると、地震の名前がいろいろあるようだ。気象庁の命名は「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」という長たらしい名前だ。
主な新聞社のサイトには、朝日、産経、毎日は「東日本大震災」、日経、読売は「東日本巨大地震」、NHK画面は「東北関東大震災」と書いてある。「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」といっても誰もぴんと来ないが、これは「阪神淡路大震災」のことである。
ということは、「地震」とそれが引き起こした「震災」とは、命名が違うってことなんだろう。ではこんどの「震災」は、なんと言うのだろうか、そして誰が命名するのだろうか。

(追記110407)ネパールから帰ってNHKTVを見ると、「東日本大震災」といっている。あれ、いつから変わったのだろうとNHKのWEBサイトで調べたら、どうも4月1日の午後あたりかららしい。何があったのだろうか。

震災の名に地名がつくと、その地域はどんなメリットデメリットがあるのだろうか。復興支援を受けやすくなるのがメリット、観光客は来なくなるのはデメリットか。東日本と超広大な地域名をつけておけば、メリットもデメリットも分散する効果があるだろう。
でも、概念的には東日本というと、東北地方の印象が薄いように思う。こんなに広過ぎると大被災地への支援が手薄になりそうだとか、災害の記憶がぼやける感もある。「震災」への命名は、津波被害の中心は東北地方の東海岸地域だから、それをイメージさせる用語をあてたらどうか。

ところで、今回の津波被害は、阪神淡路や中越などの大震災とは異なる局面を見ることができた。土地と建物の位置関係が変わることはなかった阪神淡路よりも、土地が動いた中越に近いかもしれない。今後どのような復興をするのか、地域によっては復興するにも土地が海面下になったところもあるように見える。
リアス海岸にある過疎の小集落は、復興しても住む人がいないかもしれない。中には住民ともども消滅したかもしれない。海水をかぶった農地は、はたして復元できるのか。
そして人口減少社会である。短期的な対応は当たり前としても、このような状況での広域的かつ長期的な今後を見据える震災復興の都市計画とは、一体なんだろうか。


2011年3月14日月曜日
わからん震災言葉

いつもはほとんどTV放送みないが、さすがにこのところはよくみている。どの放送局も震災報道で一色に染まっている。同じようなことを何回も流しているが、時には異なることもあって、それなりに情報に厚みが出てくることが分る。
昨夜は「想定される停電地域」が放送されて、自宅はどうなるのかジッとみていたが、東電が悪いのか放送局が悪いのか、これがさっぱり分らない。まず「想定」であるが、なんで「想」うのだよ、自分のところの電気を止めるのに「想って定める」なんていい加減なことでよいのかい、ここは「予定」でしょ。

そして「される」が分らない。放送記者が東電からあやふやなことを聞いてきたので、しょうがないから「される」と受身で言っているのか、ではまだ決っていないんだなと思って聞いていた。ところが、東電の発表資料が映って、表題にそう書いてある。おい、自分がやることを受身形で書いてどうするんだよ。日本語知らないやつにはまったくもって困ったもんだ、日本語知っているこちらは迷ってしまったぞ。

で、その地域の発表なのだが、自宅は横浜市中区にある。放送で出てくるかと思ってジッとみていた。はじめのほうのグループに、いくつかの区の名が出てきたが、そこには中区はない。そのうちに別のグループで横浜市と出てきた。とするとここに中区は入っているのか。ということは、先ほど出てきた各区はずっと停電なのか。まあ、混乱中でしょうが、もう少しナントカならんものか。

今朝の新聞に、東電からのお願いとて、「需給逼迫による計画停電の実施と一層の節電のお願いについて」という1ページ分の広告がある。需給逼迫なのかしら、ここは需要側じゃなくてあきらかに供給側に責任があるのだから、「供給逼迫」でしょ。
その文章のなかほどに「計画的に停電をお願いさせていただきます」とある。おいおい、「させていただきます」はないでしょ、こっちが停電を指示したのでもお願いしたのでもないのだ、間違っちゃいけません。ここはきちんと「お願いいたします」とか「お願い申上げます」とか言いなさいよ。
●参照→
313させていただくhttp://datey.blogspot.com/2010/09/313.html

文中に2度も「申し訳ございません」、「申し訳なく思っております」とでて、申すべき訳がないんだと強調はするが、まったく「お詫びいたします」なる言葉はないのである。「申すべき訳けがない」のではなく、きちんとこういう「訳け」で原発がとまったのだと、懇切丁寧に「申す」べきなのだ。「申し訳けない」で、原発停止の理由説明も供給逼迫のお詫びもしない広告は、明らかに間違っている。

●追記(110318):3月18日の朝刊の東電の広告には、「申し訳ない」という言葉は消えて「お詫びいたします」となった。ただし、「計画停電させていただきます」は、いただけませんね。こちらから頼んでいるんじゃないんだからね。

危機に於ける広報は、説明の専門家が必要であると、つくづく思った。原子力保安院なるところの役人技術者だろうか、原発事故の説明を何回か行なっている放送も見た。ところが、こいつの言うことが回りくどくて何を言いたいのか分らないし、配布資料のないこちとらにも分るような言い方もしないので、さっぱり理解できない。あれはいったい何者なんだよ。


2011年3月14日月曜日
横浜都心地震探検その2

横浜駅あたりの様子をみてきた。

地下鉄は運行しているが、エレベーターもエスカレータも停止。

地下5階くらいの深い駅もあるから、これでは年寄りや子供連れはとても使えなくて、バスにするしかない。 京浜急行は3時半で今日はお終いだそうである。電力のせいだろうか。

駅ビルも岡田屋も休み。地下街は店は休みで薄暗い。高島屋百貨店は2時半でお終い。

一般小売店は営業している。食品量販店とコンビニエンスストアに入ってみたら、水は売り切れ、カップ麺も残り少ない。いつもあれこれいっぱいある棚が風通しが良い。いつもあれこれありすぎるから、これでいいのだ。

電気屋の前には「LEDライト、懐中電灯は売り切れ」と書いてある。

月末からネパールに行く予定だが、あちらは停電が当たり前の国なので、LEDライトを買って持っていこうと思っていた矢先にこれだ。

でも、近くにある小さな職人用の工具や衣料を売っている店にはあったので、用がたりた。穴場である。

新田間川の橋をわたるとビブレは休業、パルナードを行けばダイエーがしまっていて、その周りの歩道がめちゃめちゃになっている。

ダイエーは都市機構の市街地住宅付きゲタ履きビルの下に入っている。住宅は人が出入りしているから閉鎖してはいない。

周りを見ると、どうやらビルは問題ないが道路が10~15センチ沈下したらしく、建物の地下部分との境が割れて段差ができたのだ。

このビルの隣のビルは、角の柱から仕上げタイルがはがれて、内部の鉄筋が見えている。それが赤錆になってむき出しってことは、もともとこれは手抜きで、鉄筋にコンクリートがかぶさっていないままに、タイルでごまかしたのかもしれない。

このあたりはズブズブの土地で、もともと道路が波をうっている。

商店街の人出はいつもより少ないし、道路の自動車も少ないようだ。

ところが、道路が突然に大渋滞するところが、ところところに出てくる。その渋滞の先をみると、給油所なのである。どうやら油がこなくて休業している給油所が多いようで、開店している店に殺到しているのだ。

津波で流れてくる建物はともかくとしても、自動車の数の多いのに驚かされた。あんなにも必要なんだろうか。重いから片付けるのも簡単でないから、余計に救援を阻害しているように見える。またガソリンから火が出たのかもしれないともおもう。

地震、電気、石油、原子力などの一連のつながりを考えると、これからの生活のあり方を考え直す時代が来たような気がする。

原子力発電がクリーンエネルギーで、電気自動車がクリーンビークルなんて、大嘘って分った。


2011年3月15日火曜日
ガソリン携行缶を探して

独法の某機構の本社総務にいる息子が、東北地方被災地へ送る救援物資の調達を担当している。その息子からお願い電話が来た。「ガソリン携行缶」を探してくれというのだ。救援物資(ガソリンもそのうちのひとつ)を積んだ車を出すのだが、往きはなんとかなってもあちらや帰りにガス欠になったら、救援される側になる。高速道路の途中で自衛隊がガソリン供給しているとの話もあるが、万一に備えてガソリンを積んで行きたい。ところが、そのガソリン携行缶がどこにもなくて調達できないそうだ。徘徊老人の父親に、徘徊ついでに街場の商店街で荒物屋に立ち寄って、ガソリン携行缶を見つけてくれというのだ。で、横浜都心の商店街をうろうろ、売っているかもしれないと思う店にいくつも立ち寄ってみたが、これがないのである。ようやく小さな荒物屋でひとつだけ見つけて、息子に教えて買った。ささやかな被災地支援となったかもしれない。

それにしても、どうして横浜のような被災地でもないのに、コンビにも量販店も小売商店に物がないのだろうか、不思議である。まさかと思うが、不埒な買占めが起きているのかしら。横浜市内のどこかにガソリン携行缶を売ってる店をご存じありませんか。


2011年3月16日水曜日
地震津波火事原発で酔生夢死

こう毎日毎日四六時中ゆらゆらと揺すられていると、地震だろうか、脳梗塞がきたのだろうか、それともオレは酔っ払っているのか。どうせなら酔っ払ったことにして、酒代を節約している。こうやって、起きているときは酔っぱらい、夢見ているときに崩落する本の山に埋もれて死ぬ、つまり今や酔生夢死の世界にいるのだ。

今日も今日とて、朝早くから地下鉄に乗って友人の家を訪ね、その案内で近くの商店街あたりを、被災地に送るガソリン携行缶を探し求めて、ふらふらと荒物屋を巡り歩く。5軒のうち2軒で5リットル分をひとつづつ買い求めたが、いずれも最後の品であった。こんなものが売れているのは、多分、家庭に備蓄するためなのであろうと思うが、おかげで被災地救援にしわ寄せが行っている。

開店前の量販店のシャッターの前に長い長い待ち行列ができている。ガソリン屋の前から道路に長い長い車の待ち行列ができて、渋滞している。これって、もしかしてこちらにも大地震が来るかもしれないので、それに備えての買いだめなのだろうか。確かにそれらの行列をみていると、買わなくちゃって群集心理に駆られる。その分、ガソリン缶みたいに、被災地へのとばっちりが、あるかもしれない。

教訓「怖いもの」の変化:昔「地震雷火事泥棒」、3日前まで「地震雷火事親父」、今は「地震津波火事原発」


2011年3月18日金曜日
戦時中のような

太平洋戦争の時代みたいな言葉が行き交っている。「挙国一致」というのがいちばんすごいと思う。そのうちに大政翼賛になるか。西日本に住む知人たちから、関東に住むその子や孫が「疎開」してきたと、Eメイルで教えてくれた。そのような例は多いだろう。「疎開」も懐かしいといっては語弊があるが、戦中の言葉である。阪神淡路大震災のときには避難とは言ったけど、疎開はなかったような気がするが、どうか。
広辞苑によると、そ‐かい【疏開・疎開】①とどこおりなく通ずること。開き通ずること。②戦況に応じて隊形の距離・間隔を開くこと。③空襲・火災などの被害を少なくするため、集中している人口や建造物を分散すること。疎散。「学童―」「強制―」

太平洋戦争末期には、空襲に対応して避難路や延焼防止のために街を壊したり、空き地を作ったり、あるいは軍施設をつくったりしたこともあった。強制疎開である。今回はどうか。今後のまちづくりでは、津波に対応して街の疎開が必要かもしれない。
太平洋戦争末期に、都市空襲出被災し、あるいは空襲を避け、あるいは上に述べたような疎開にひっかかって強制されて移転せざるを得ない都市住民が、都市から離れて地方各地の移動したことがあった。
小学校がまるごと地方の町などに移ったのは、学童疎開である。1945年のはじめ頃、わたしの生家の神社の社務所には、芦屋市から小学校6年生のひとクラスが空襲を避けて学童疎開してきた。親戚の家などに避難するのは縁故疎開といった。

今回の原発疎開は、まさに空襲そのものである。そして強制疎開の再現である。避難よりもこの疎開が使われるのは、そのあまりの規模の大きさが、かつての戦争時代を思い出させるからだろうか。外国人がどんどん国外脱出しているし、関東の企業も関西に移動しつつあるらしい。これもまさに疎開である。外国人が脱出するのは、理解できる。もし自分が言葉も不自由な外国でそのような目にあったら脱出しかない。今、外国にいる日本人も心配で帰国したいだろう。もしかして、あの時の「交換船」のような交換飛行機が出るかも。

自衛隊の予備自衛官に召集令状が来たとニュースで言っている。「予備自衛官」という制度があったのか。これはまさにあの戦争時代の予備役軍人への非常時招集の再現である。太平洋戦争末期には、40歳以上の老兵の予備役も招集され、兵役年齢も21歳から19歳に下げて、若者だけでなく少年も中年も戦場に駆られたのであった。
まさに「挙国一致」の翼賛体制になり、その後は歴史の示すとおりになったが、あれとこれは違うとしても、さて、この大災害がどのように日本を変えるのだろうか。ちょっと気になるのは、震災対策への批判、例えば東電や当局の発表の仕方などが下手で分りにくいのでこのブログで批判したら、ある人から今はマイナスの言を慎め、現場は寝ずにやっているんだと、なんだか「非国民」みたいに逆に非難されてしまったことだ。これも戦時中の言葉である。戦争中は、政府、軍部、兵士への批判を、そして遊びをも「非国民」なる言葉で、庶民自身が互いに封じたのであった。


2011年3月19日土曜日
巨大津波と原発被災言説等

高度情報時代で、WEBサイトでいろいろと知りたいことが出てくる。内容はともかくとして、ここに気になったものを後々のために挙げておく。

●巨大津波の大災害とその復興の事例はほんのちょっと前にもあった。

北海道南西沖地震と復興への道のり

http://unimaru.com/?page_id=80

北海道南西沖地震の概要

http://www.town.okushiri.lg.jp/bousai_kyukyu/nansei/nansei003.html

●原子力発電の問題

破局は避けられるか:広瀬隆

http://diamond.jp/articles/-/11514

大前研一

http://www.youtube.com/watch?v=U8VHmiM8-AQ&feature=player_embedded

原子力資料室

http://www.ustream.tv/recorded/13293716

●津波の前と後

津波前後

http://picasaweb.google.com/118079222830783600944/Japan#「まちもり通信」編集の津波前後写真

http://homepage2.nifty.com/datey/tunami0311/tunami-before-after.htm


2011年3月20日日曜日
内陸母都市に疎開定住公共賃貸住宅を

民主党政権になって、公共政策としての居住政策が強化されるのかと思っていたが、反対で自民党よりも劣った政策であった。公営・公社・都市機構などによる公共賃貸借住宅が、このところ縮小に縮小を続けている。東北関東東部大震災で、これだけ多くの人たちが避難や疎開をしているが、これに対応する仮設住宅の建設がこれから進められるが、それまで待っている人たちの生活が思いやられる。しかし、仮設住宅はあくまで仮設であり、いつの日か本設の自分の家にもどるのが筋道である。

ところが今回の場合は、戻るべき自分の家のあった土地が、沈下して水面下になっている、海に近くて再び住む気にならない、放射能汚染されていて戻りたくない、今後も放射能汚染事故があるかもしれないから戻りたくない、高齢でいまさら戻る資力も気力もない、などなど、今までの地震災害とはかなり異なる局面があるように思うのである。
つまり元に戻らないで疎開先に定着することになる。そこで浮かび上がってくるのが、それらの人たちに、適切な地域に安価な疎開定住住宅として公共賃貸借住宅の供給である。ところがはじめに書いたように、公共住宅賃貸借住宅は少なくなっているので、現在の空き家を提供しようとすると、元の居住地とはかけ離れた遠くの地に、しかもバラバラと求めざるを得ない。これでは移る人たちにとってはまことに不安である。
わたしは公共賃貸借住宅の減少政策に反対、更なる建設促進をこれまで唱えていた。それは大規模震災への対応がベースにはあったが、今回のような移転疎開用までは思いが及ばなかった。これでその面でも必要と分った。

これからぜひとも公共賃貸借住宅を災害疎開者のために建設してほしい。新たな住宅建設のための負担を、持家優遇政策で被災者に借金させてはならない。それも被災した地域の内陸にある母都市の中心部に、疎開者の元のコミュニティ集団に対する単位として建設するのだ。こうすることで、災害疎開者のコミュニティの継続と、空洞化する地方都市の再生とをセットにする震災復興都市計画、いや震災再生国土計画とするのである。
繰り返すが、災害復興政策として持家建設やマンション購入を優遇する金融や税制を優先するのではなく、
震災疎開先定住用の公共賃貸借住宅を内陸母都市の市街地に計画的に建設してほしい。

●参照

たった一人キャンペーン:分譲マンション反対論
http://homepage2.nifty.com/datey/kyodojutaku-kiken.htm

384また住宅政策の後退
http://datey.blogspot.com/2011/02/384.html

357今度はURも賃貸住宅縮小か
http://datey.blogspot.com/2010/12/357.html

353公営住宅縮小の愚策
http://datey.blogspot.com/2010/11/353.html

095貧困な住宅政策
http://datey.blogspot.com/2009/02/blog-post_13.html

187民主党の居住・住宅政策は?
http://datey.blogspot.com/2009/10/187.html


2011年3月21日月曜日
NPOネットワークはないのか

新潟県にいる友人が、いても立ってもいられなくて、会津若松の避難所まで救援の灯油を運びこんで喜ばれたという。
http://irp1999.at.webry.info/201103/article_14.html
首都圏から行くよりも近いし、ガソリンも食糧もあるのに、これを送り出しあるいは受け入れるシステムがあるのかないのか分らない。個人で行っては混乱するかもしれない、でも待っていられない。行動力ある友人は、とりあえず個人ネットワークを生かして、車を駆ったのであった。平常時からNPOのネットワークがあると、こういうときには柔軟な活動で救援ができそうだと思ったのであった。


2011年3月20日日曜日
福島第1原発を世界遺産に登録しよう

東北地方太平洋沖地震による被災者のかたがたに深甚のお見舞いを申しあげます。
地震動と津波で大変なところに加えて福島第2原発事故という3重の被災には、驚愕するばかりです。
一介の年金暮らしの徘徊老人としては、救援物資を送る仕事をしている息子を、ちょっとだけ手伝ったくらいなもので、お見舞いの言葉と節約と寄附ぐらいしか、被災者のかたがたへの対応はできません。お詫びします。

地震動→津波→原発の順に、自然災害から人工災害の度合いが高まってくる。特に福島第1原子力発電所事故による被災の広域拡大には、事業者が日ごろから大丈夫であると宣伝していただけに、人災の度合いが高い。多くの人々が放射能の飛散地域から避難せざるを得なくなって、その人々の多大な損害はいくばくになるのだろうか。そしてこれは地域だけの問題ではなく、原子力発電所のあるところは世界中のどこでも起きうる災害であり、世界の原子力政策の転換を促しつつある。
チェルノブイリ事故のときは、どこか後進国の未熟な技術がなさしめたこと、スリーマイル事故ではバカなヤツのうっかり間違い結果のこと、で、先進技術大国の日本ではそんなことはありません、てなことだったようだと、わたしのような普通の人は思っている。ところが、そんなことがおきてしまったのだから、人災と言われても仕方ないだろう。

常識的に考えて、これで福島第1原発は閉鎖になるだろう。いくら技術大国に本の先進技術でもってして、技術的に再稼動が可能となっても、これだけの広大な地域に被害を与え、そして世界の原子力政策に影響を与えたのでは、社会的には再稼動できるはずがない。
そこでわたしの提案だが、福島第1原発を世界文化遺産に登録してはどうか。人類の英知の結晶である技術文化が、自然の威力の前にこれだけの災害となった記念建造物である。廃炉となってもすぐに取り壊すことは不可能だから、今後ともその爆発による姿を人々の目に見せることで、人類の英知の限界を警告する世界的遺産となるだろう。既にその前例は、日本では原爆ドームが世界文化遺産登録している。昨年は、太平洋のまんなか水爆実験のビキニ環礁を、世界文化遺産登録に登録した。原爆ドーム、ビキニ環礁、福島第1原発は一連のものとして、原子力のもっている脅威をまざまざと世界の人々が認識できることだろう。このような遺産登録こそが、人類のこれからの文明永続のために必要なことだ。世界遺産登録で観光振興なんていうチャラチャラした考えは吹き飛ぶのだ。

関連ページ
◆大佛vs観音世界遺産談義(2010.12)
http://homepage2.nifty.com/datey/kamakura-sekaiisan2010.htm

◆裏長屋の世界遺産談義(2009.12)
http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm

◆300南海の苦楽園世界遺産
http://datey.blogspot.com/2010/08/300.html

◆Bikini Atoll Nuclear Test Site
http://whc.unesco.org/en/list/1339

◆Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)
http://whc.unesco.org/en/list/775

追記110429)こんなことを言うのはわたしひとりかと思っていたら、WEB検索してみてほかにもいることが分った。
例えば、
http://ameblo.jp/worldheritage-next/entry-10859655181.html