遺構による近世公家住宅の研究1960(後編)

前編からの続き)

7.法然院方丈について

(1)前身建物

 法然院の寺伝によれば、この方丈は元は八百姫御殿であったものを下賜されたものである。
 この八百姫とは、後西天皇(在位1654~1663年、承応3年~寛文3年)とその女御明子との間に生まれた皇女で、誠子内親王といい清浄観院宮ともよばれた。承応3年(1654年)に生まれ、貞享3年(1686年)に死去した人である。
 ではその八百姫御殿とは、いったいどこにあって、なんという建物であったのか。

●法然院方丈写真

●法然院方丈 上之間 襖絵「桐ニ竹図」(狩野光信画)

 御西院御所は寛文度と延宝度の2回造営がなされたが、いま延宝度造営の御西院御所にかんする資料のうちのひとつである「新院御所様指図」(四分計、壱枚、延宝二年、中井主水控)に示されている平面図に、八百姫御殿と考えられるものを求めてみると、「姫宮御殿」と記されている御殿がある。
 (第22)図に示したこの姫宮御殿付近の平面図と、現存の(第23)図の法然院方丈とを比較して見る。

(第22)図:延宝度「新御所様御指図」の部分(宮内庁書陵部蔵)

●(第23)図:法然院方丈平面図

注:番つけは論文筆者の書き込み

 どのようにすれば姫宮御殿平面図が、法然院方丈平面図に替わるのだろうか。
 (第22)図の5列左、A列から上、E列から下のそれぞれのプランを取り除き、更に西縁側を取り払えば、そのプランはプランは(第23)図の5列より右のプランとほとんど同じである。違いは、柱位置と南畳縁の押入れである。

 (第22)図では10列より1.25間のところに柱の列(9列)があるのに、(第23)図では10列より1.5間のところに柱の列(9列)があり、1/4間ずれている。しかし法然院方丈を今回調査したところ、B列、D列の内法長押のB-9、D-9の柱より1/4間床に寄った方に、それぞれ元は柱があったことを示すあたりがあった。
 更にB列9-10の間に入っている2枚の襖絵は、どちらも約1尺巾ほどを後から描き足した跡が明瞭に示されていて、この2枚の襖は元は1.25間の幅であったことを物語っている。

 これらのことによって、現在の方丈の9列の柱は、もとはもう1/4間右の方にあったと推定される。これで姫宮御殿の9列の柱と同一位置になる。と同時に、この襖絵は移築時に共に移されてきたものであることも推定できる。

(第23)図のA列及びE列の5-10の間には長押がない。これは(第22)図で分るように北差出、南差出があるために内法長押は1直線に通らず、もしこの両差出を取り除けば当然内法長押はそのまま使うことはできない。現在の法然院方丈の両縁に内法長押がないのはそのためのと考えられる。

 次に、棚部の後が欠けこんだ形になっているが、これはもとの棚の裏にあった袋になった部分を、移築の際して取り除いたものと考え、押入れは後補と思われる。
 以上により、法然院方丈は寺伝が八百姫御殿であったと示すように、延宝度造営西院御所であったと断定して差し支えない。なお、残る食い違い田の字型プランの4室については判明しない。

 ところで、前身が姫宮御殿であり、そして前述のように襖も同時に下賜されたとすれば、その襖絵の画家が狩野光信であると現在は言われている寺伝は、しりぞけざるを得ない。
 というのは、姫宮御殿は延宝度御西院御所として造営されたのであるから、その建設年代は延宝3年(1675年)であるのに対し、狩野光信は傾聴3年(1608年)に死亡しているからである。

 では、この襖絵の画家は誰であったか。延宝度の御所造営に関する資料の中で、その造営の助役であった岡山池田藩の文書のうち、「延宝度新院御所造作事諸色入用勘定帳」(岡山大学図書館池田文庫蔵)の「絵筆功代」の項に、永信、洞雲、右京、内匠という4人の名が記されているので、この4人が延宝度造営時の画家であったことがわかる。とすれば、この襖絵もこの4人のうちの誰かの筆になると考えられる。

 洞雲は益信といい永信の娘婿であり、右京は時信といい永信のこであるが、内匠については不詳である。では描き得るはずのない光信が、この襖絵の画家とされたのはなぜであろうか。
 たぶん、この襖絵(あるいは他の襖絵、障壁画も)の画家は、右京時信であったろうかと考えられる。それが単に右京とのみ伝えられたとすると、同じく右京と称していた光信と間違えられたのではあるまいか。これは推測の域を出ないが、時信とすることも可能であろう。

以上、法然院方丈の前身について調査、解明、推定を行ったが、更に詳しい資料による期待している。

(2)仕様書について

全く未調査のため判明しない。

(3)柱寸法について

(第26)図、(第27)図に示した頻度から、d=3.9、b=4.4と推定される。
 この方丈は前述のように2種の建物があわせられているので、頻度表にはふたつのピークが現れると思われたが、一つのみであった。すなわち、この方丈は2種の建物が合わせられているが、その柱寸法は全く同じで、両者の間に何らかの関係があったのであろうと推察される。

●(第24)図:法然院方丈柱寸法頻度(面内)、●(第25)図:柱寸法頻度(太さ)

●(第26)表:法然院方丈柱面内寸法実測値、●(第27)表:柱太さ寸法実測値

(4)実測値と木割

 (第28)表に示したように、d=3.9、b=4.4を基準とした木割のモヂュールと実測値との関係は、木割書で示されるものとはあまり一致しない。d、bを基準として入るが、3寸9分という半端な寸法を面内寸法に設計しているのは疑問である。

 一応は表に示したようなモジュールが考えられるが、他の場合とは少しく異なる。他にもこのようなbを基準とする寸法を多く採るモジュールがみられない現在、これを木割という考えがあってせっけいされたものと考えてよいか否か、疑問が残るところである。仕様書が判明すればあるいはもっと新しいことが分るかもしれない。

● (第28)表法然院方丈部材実測値

●法然院方丈矩計図

8.林丘寺玄関及び客殿

(1)前身建物

修学院離宮中茶屋客殿の項で述べたように、延宝度第二東福門院御所の一部が下賜されて、そのうちの女嬬詰所、物置が現在の林休寺の建物であるとされている。

●林丘寺写真

(2)仕様書

まず物置については、「御物置勘定所御菓子部屋共」の項に次のように記される。

梁間三間、桁行一九間半

屋根柿葺軒厚三寸高倍五寸三分軒出端裏側外三寸四分(中略)

右之御造作仕様柱太削立三寸八分垂木壱軒化粧裏板直打東縁側大桁作リ惣天井平縁(以下略)

女嬬詰所については「申之口御茶間女嬬詰所共」の項に次のようにある。

梁間三間、桁行九間(中略)

右之御造作仕様柱太サ削立四寸弐歩垂木壱軒化粧木口裏板かんき打(中略)

女嬬詰所弐間四間但弐部屋仕切東側次ノ間境ノ間板戸四本明障子弐本(以下略)

各部屋についてその仕様が記されているが、柱寸法以外に軸部を決定する寸法の記入がない。

●林丘寺客殿・玄関 平面図

(3)柱寸法

(第29)図、(第30)図の頻度表に表された柱太さは、かなり広く分布しており、しかも二つのピークが出ている。一方は4寸2分、もう一方は4寸3分である。
 前記の仕様書で物置の柱は3寸8分、女嬬詰所に関しては4寸2分と記されているが、物置の方に相当する寸法の柱はないが、女嬬詰所の柱とは一致する柱がある。物置の相当する柱がないことに疑問がある。
 しかし、二つのピークが示されたということは、2種の建物があわせられて現在の林休寺としてたてられたという推定を可能とする。

●(第29)図:林丘寺客殿・玄関柱寸法頻度表(面内)、●(第30)図:柱寸法頻度表(太さ)

●(第31)図:林丘寺客殿・玄関柱寸法実測値(面内)、●(第32)図:柱寸法実測値(太さ)

(4)実測値と木割

 d=4.0とする基準とする木割が認められる。しかし実測値が多くないこと、この建物が2種のものがあわせられてその部材が混合されていれば、二つの寸法体系が入り混じっていることになること、等により、はたして一つの体系によるものかどうかさらにくわしい調査でなければ断定できない。

●(第33)図:林丘寺客殿・玄関部材寸法実測値と木割比較

●林丘寺客殿矩計図

9.大覚寺宸殿について

(1)前身建物

大覚寺宸殿は徳川和子(東福門院)入内当時の慶長度造営女御御殿の宸殿であったと指摘されている。しかし、寛永度造営にあたって明正天皇の仮御所の常御殿に改造されたため、最初とは間取りの上ではかなり異なっている。

●大覚寺宸殿写真

(2)仕様書

女御御殿の宸殿が明正天皇の常御殿に改造されるときの仕様書があるが、軸部寸法に関する記載は全く見あたらない。当初の造営時の記録は全く残されていない為不明である。

●大覚寺宸殿平面図

(3)柱寸法

縁柱はb=6寸3分、d=5寸5分、主柱はb=6寸1分、d=4寸8分と推定され、他の建物と比べてかなり太いことを示している。

●(第34)図:大覚寺宸殿柱寸法頻度表(面内、●(第35)図:柱寸法頻度表(太さ)

●(第36)表:大覚寺宸殿柱寸法実測値(面内)、●(第37)表:柱寸法実測値(太さ)

(4)実測値と木割

 上記のd=6.1、b=4.5とする木割の基準寸法によって各部材の計算値を算出しても、それらは実測値と類似した寸法では全くない。また、他のなんらかの基準寸法による寸法体系もみられない。
 この事実はいったい何を意味するのだろうか。前述のように、この建物が東福門院の女御御所の宸殿という、非常に格式の高い、しかも儀式的な伝統的性格の強い建物であったため、その設計は伝統的に伝えられた寸法、プロポーションで行われ、近世的な手法の木割の考え方は除外されるべきものであったと思われる。
 そのためには、それらの寸法を定める設計図書がなければならないが、既述のように古文書が全くの遺されていないために不明である。

●(第38)表:大覚寺宸殿部材寸法実測値

●大覚寺宸殿矩計図

10.勧修寺宸殿について

(1)前身建物

 勧修寺宸殿の前身については、延宝4年(1619年)造営の明正院御所の対面所が、元禄10年(1697年)に移築されたものということが立証されている。そして移築の差異に床棚の位置及び床の意匠が変更されたことが指摘されている。

●勧修寺宸殿写真

●勧修寺宸殿 平面図

(2)仕様書

明正院御所の仕様書は「本院御所様御作事御所作事御造作大工割帳」(宮内庁書陵部蔵)に示されているが、ここにその対面所に関する部分で軸部に関する点を記す。

御対面所

梁行四間 桁行九間 北廂壱間七間

屋根木賊葺高倍六寸四分軒之出端裏側迄七尺北廂裏側外迄六尺(中略)

右之御造作仕様柱削立五寸広縁柱削立五寸六分大桁作垂木弐軒木舞物仮粧裏板檜かんき打南入側九間壱間肘木作リ化粧梁屋根裏木舞物裏板檜かんき打拭板敷釘打雨戸側延テ九間両戸十二本同腰障子六本指鴨居上薄敷居鴨居木隔子(中略)長押内法長押半ノ長押地覆長押但錺釘隠ない内法長ニ蓋有(以下略)

(3)柱寸法

(第39)図、(第40)図の頻度表により、縁柱はb=5.4、d=4,8、主柱はb=5.0、d=4.4と推定される。仕様書の柱寸法と比べると縁柱には2分の差があるが主柱は一致する。

●(第39)図:勧修寺宸殿柱寸法頻度表(面内)、●(第40)図:柱寸法頻度表(太さ)

●(第41)表:勧修寺宸殿柱寸法実測値(面内)、●(第42)表:柱寸法実測値(太さ)

(4)実測値と木割

(第43)表で示したように、d=4.4、b=5.0、e=0.6とする基準寸法の木割には、どの寸法も合致、類似しない。これは前述の大覚寺宸殿の場合と同様である。即ちこれも実は、建具、縁の古式にみられるように、儀式的にも伝統的な要素の多い性格の建物であったために、伝統的な寸法がうけつがれて設計がなされたのであろうと考えられる。しかし仕様書にまったく部材寸法がないのは、全jつのとおりである。とすれば、これらの決定はいかにしてなされたのか、疑問がある。

●(第43)表:勧修寺宸殿部材実測値と木割比較

●勧修寺宸殿矩計図

11.実相院について

(1)前身建物

現存する実相院の建物の前身は、宝永度造営の仙洞御所のうち、中御門院中宮の御殿であったと伝えられているが、立証はされていない。仕様書についても、もちろん不明である。

●実相院写真

(2)柱寸法

 実測による頻度図(第44)図、(第45)図に見るように、その太さはいちおう5.08寸のところにピークは見られるが、他の5寸から5寸2分の迄の柱数もかなりあって、どの寸法を設計地にとつか困難である。
 また、(第46)表、(第47)表にみるように、各種寸法の柱が入り混じって配置されている。これは平面の複雑さ、屋根伏せの複雑さ等と共にこの建物は種以上の建物が、まったく組み直されて合わせて建てられたのではないかということを、推測させるものである。

●(第44)図:実相院柱寸法頻度表(面内)、●(第45)図:柱寸法頻度表(太さ)

●(第46)表:実相院柱寸法実測値 (面内)

●(第47)表:実相院柱寸法実測値 (太さ)

(3)実測値と木割

上記のように各種の部材が組み直されて建てられたとすれば、それらの間に一定の基準寸法による寸法体系を見出すことは困難である。実際に(第48)表にみられるように、実測値の間に一定の体系は見られない。ただし、実測値があまり多くないのではっきりと断定はできないかもしれない。あらゆるところの部材寸法を実測してそれらを整理すれば、あるいは一定の寸法体系に載るものが出てくrかもしれないが、今回ではその迄詳細な実測を行っていない。しかし方法としては、一つの寸法体系にのる部材群を見つけ出せば、逆にそれらを組み合わせることによって、復元することも可能であろう。

●(第48)表:実相院部材実測値と木割比較

●実相院矩計図

Ⅲ.京都御所造営における設計方法について

京都御所造営にあたって、その建築にはどのような設計方法によって各部材の寸法、プロポーションが定められたのであろうか。

近世における京都御所造営は8回にわたって行われたが、それらに関する設計図書は多く現存している。その設計図書および今回の調査をもとにして、造営に際しての設計方法について考察しよう。

仕様書は全勝の各項で示したとおりであって、それらは各部材の有無は記されても、それらの寸法については柱寸法以外はほとんど記されていなことを特徴としている。

仕様書以外の図書には、指図、建地割、積書等があるが、それらのどれにも部材寸法は記されていない。とすれば、いったい部材寸法はどのようにして定められられたのであろうか。

これには次の二つの場合が考えられる。

まず、京都御所は非常に短い期間を間隔として何回も建てられて、しかもほとんど前規模を踏襲して建てられ、そして更に造営にあたった大工は常に中井家であったことなどから考えて、各建物の部材は彼ら大工に記憶され、あるいは経験的にただちに割り出されるものであったとの考え方が一つである。

第2には、仕様書に柱寸法、柱間、梁行、桁行は必ず記されていることから考えて、これらの寸法が与えられると他の部材は全てそれらの寸法を基準として割り出される寸法であったということが考えられる。

各造営ごとに必ずどうきぼで受け継がれる紫宸殿、清涼殿等の非常に格式の高い儀式的、伝統的な建物については、その部材寸法が記憶されて、それによって部材が直ちに作られていくということは言いうる。

しかし、内向きの居住用的な建物、すなわち伝統的束縛を受けることの少ない近世的な建物は、前規を踏襲しないばかりか、まったく新しいものが作られることさえある。このときは第2の方法のある基準寸法から割り出して部材を決定する方法が取られたと考えられる。

前章の各項で実測値と木割との関係を見たように、修学院離宮中茶屋客殿、円満院宸殿、勧修寺書院、妙法院大書院では、それらの設計に木割の考え方があったらしいことがみとめられた。ということは、これらの前身建物が近世的な建物であったからであるからと思われる。

また、勧修寺宸殿、大覚寺宸殿については、木割が認められなかった問うことは、これらが移築前は格式の高い、儀式的な、伝統的な建物であったためと考えられる。

「匠明」の木割書にも「古人ノ作リオカルル所ノ好悪ヲ見合ワセ分別」せよとある如く、部材間隔、プロポーションについては各建築ごとに設計者にその寸法を任されていた傾向がある。事実、全勝の各表で見るように、部材間も寸法は木割書の寸法体系にのらないものが多い。

では京都御所造営の大工は、それらの寸法をどのようにして決定したのであろうか。それは建地割に寄ったのでああろうと思われる。建地割には小屋組みを示すと同時に部材構成のプロポーションを示し、大工はこれから経験的に部材間隔の寸法を割り出したものであろう。

設計寸法が記された設計図書が全く見当たらないということから考えて、上述のような設計方法以外には考えられないのである。

建築家(Architect)は創造者・綜合者でなければならないという現代的観点に立てば、京都御所造営に携わった大工は、床棚、欄間、建具金物等の局部的なデザインにのみ走り、建築全体については前規を踏襲し、あるいは一定の寸法体系のもとに設計をおこなっていたということは、その当時としては最高の仕事をなした大工さえも、建築家(Architect)という名を冠することのできる者は存在しなかったと、極論することもできる。それは政治体制、伝統的束縛という背景の故でもあろうが、建築家のとっては不幸なことであった。

Ⅳ 結

以上、各遺構の調査によって、それらの前身を明らかにし、あるいは明らかにするに一助となる資料を得た。更に実測によって、公家の建築にも基本的には武家系統と同じような寸法体系の考えがその設計に取り入れられていたことが明らかになった。

京都御所造営にあたった大工の設計方法を、一部ではあるが解明することができて、研究の目的を達成した。

この稿を閉じるにあたって、藤岡通夫先生をはじめ、藤岡研究室の平井聖氏、鈴木解雄氏、内藤昌氏から非常に多くの助言指導を受け、伴野松次郎氏、野村修道氏には調査に参加していただき、また木村正氏には資料整理の手数を変えるなど、多くの方々のお世話になったことを、深く感謝する次第です。

またさらに、実測の便宜を与えていただいた大覚寺、勧修寺、林丘寺、妙法院、法然院、随心院、実相院、毘沙門堂、青蓮院、仁和寺、円満院の各寺院及び宮内庁に心からお礼を申し上げます。

ーーーーーーー以上で1960年執筆論文了ーーーーーー

後日の解説 伊達美徳

 本論文は、わたくしの1960年度東京工業大学理工学部(建築学課程)の卒業研究論文である。ご指導いただいた平井聖先生が保管してくださっていたので、そのコピーをいただいて、55年ぶりに読み返したであった。
 その感想は、第1には、文字が実にきれいであることだ。現代とは違って、原稿用紙に手書きできちんとかいてあるのだが、今のわたしの悪筆とは大違いで、本当にこれをわたしが書いたのか疑わしい。でも誰かに清書してもらった記憶はないから、自分で書いたのだろう。
 第2は、当時は助手の平井先生と当時博士課程だった鈴木、内藤両先生のご指導を、とことん受けたことが、ありありと分かることだ。いくつかの実測した寺院のなかで、修学院離宮中茶屋と法然院方丈の2件については、かなり詳しい分析があるのだが、当時のわたしにここまでわかるはずはないから、とことんご指導を賜ったものである。
 この二つに関しては、平井、鈴木両先生の名前で1961年の建築学会に論文発表(わたしの卒論よりもはるかに内容がある)されているから、それなりに成果があったことであろう。そこにわたしの名も添えてくださっているのが嬉しい。
 第3に、その2件のほかの調査に関しては、これではあまりにもツッコミが足りない、ということである。よくまあこれで卒業させていただいたものである。感謝を申し上げます。

 思い出せば、1960年の夏、研究室の一行は京都にしばらく滞在して、毎日毎日お寺を訪ね回って実測し撮影していたのであった。その間に祇園祭があり、山鉾の引き回しをはじめて観たことが印象に深い。その後も何度も京都を訪ねたが、いまだに山鉾を見ていない。
 そしてその夏は忙しくて、仲間の卒業研究調査にもついていった。金沢の武家屋敷群と、丹波の農村の民家群であったが、これらも思い出に残る旅であった。丹波の民家調査は、東京大学の太田博太郎研究室と共同研究だったので、リーダーだった伊藤ていじ先生がまだ助教授になり立てで、若いわたしたち学生にに饒舌に語りかけた多く話題は、実に印象深い思い出である。
 わたしの人生アーカイブスに、人生最初の論文をようやく載せることができた。

(2015/02/20)