太平洋戦争に翻弄された戦前モダン建築
慶應義塾大学日吉寄宿舎(その2)
伊達美徳
 
◆海軍連合艦隊司令部となった寄宿舎
 
 1944年3月に、政府からの要請で日吉校舎の一部を海軍に貸与した。海軍の軍令部、連合艦隊司令部などの枢要な機能が入った。その後、次第に貸与面積が増えていった。契約書によると貸与した土地面積は16ヘクタールに及んだ。
 ここに寄宿舎の建物も土地も貸与し、代わりとなる寄宿舎は線路西側の体育会合宿所を使い、寄宿生を移した。

 寄宿舎を明け渡したのは1944年9月29日、その1年後には必要なくなる運命も知らずに、ここに海軍連合艦隊司令部が入ってきた。
 明け渡しの日に部屋にいた舎生が、部屋の洋服タンスの扉の裏に書いた落書きが今もあるそうだ。(「日吉寄宿舎調査報告ー悲運の名建築が辿った歴史―」都倉武之『福澤研究センター通信第17号』慶應義塾福澤研究センター)
「思ひ出は湧きて尽せじ二本の櫟の本にあかねさす時/昭和十九年九月二十日海軍予備生徒入団奥津透/祖国勝利之日再び学之殿堂となるを信じて海軍に明け渡しの日」
「思ふこと数多あれど黙してぞ寮庭の楳に語れと告げむ/平賀雅晴昭和十九年九月十五日さらば懐しの寮よ」
 それより前の1941年日米開戦の日の落書きもある。
「日本英米に宣戦す銘記すべし/昭和十六年十二月八日」
「Wellinton's and Washington's boy can't、 but Togo's boy can standup /勝利平八郎」

 もちろん、海軍の枢要部門が日吉キャンパスに入ったことは、高度な軍事機密で、貸与した慶應義塾側も知らなかった 
 寄宿舎に入った大日本帝国海軍の連合艦隊総司令部といえば、日本海軍の代表的的存在で、事実上の最高司令部であった。
 そして、日露戦争で東郷元帥が旗艦三笠に乗って海上で指揮して以来、連合艦隊司令部は海上の旗艦にある伝統であった。
 それがなぜよりによって内陸部の日吉の台地の上に移ってきたのか。
 
◆陸に上がった連合艦隊司令部に見込まれた日吉寄宿舎

 それまでの戦況を観よう。1941年12月8日のハワイのパールハーバー攻撃のあと、初めしばらくは優勢だった戦局も、1943年9月にソロモン島ガダルカナル島をめぐる戦いで大きく敗北、44年6月にはマリワナ沖海戦でも敗れて、国防圏は縮小していった。そこで日本軍は44年7月に、陸海軍が共同する「捷号作戦」を立てた。
 日本の12倍もあるGNPを誇るアメリカは急激に戦力を増強して戦い、航空機による戦争時代になったのに、1944年末で日本の空母艦載機はアメリカのそれの1割以下になってしまい、実際に抵抗能力を失っていた。

 そのようなときに、連合艦隊司令部がそれまでは日露戦争以来ずっと海上にいたのに、司令長官もろとも日吉の丘に上ってきたのであった。
 
 当時の連合艦隊参謀長の草鹿龍之介が戦後に手記を発表して、こう書いている。
「戦況が非常に混沌としていても、指揮官自らがその中に乗り込んでいることが前線の指揮官のほんとうの陣頭指揮である。こんな信念をもっていたから、なるべく長官旗艦は母艦において戦闘を指揮するという方針であった。だが聯合艦隊司令部ともなればそれ
ではいけない。局所局所の戦闘を指揮するのではなく、その当時にしても北は千島から南は南西諸島、ニューギニアにいたる広い戦線を、一指揮のもとに全体をみて指導していかなくてはならない。それで、その局地の戦闘から離れたところに、どんなことがあっても揺るがずどっしりと腰を落ち着けた姿勢があって、全戦線を静かに眺めて指揮をすることが、連合艦隊司令長官としてやるべきことである。また、最近の戦争は戦線が非常に広いので、通信が全体の指揮と切っても切れない問題になってきた。ところが艦船にいて無線を出すということになると、その艦船の動きによって敵がわが方の企図を察する察知することができる。これを陸上に移せば、敵に通信をさとられないし、前述したような作戦の不利が少ない」

 そして戦線が海岸防御の役割が大きくなって、陸軍と似かよった作戦なので、陸にいる方がよいとなったという。だが、これは海軍内部でもずいぶんもめたらしい。

 要するに、太平洋戦争では、巨砲を持った大戦艦どうしが海上で戦う時代は終わって航空機による時代になったこと、敗北続きの海戦で旗艦とする艦船やその護衛艦も前線に出ざるを得なくなったこと、作戦は中央から無線通信による発信に変化したことなどで、海上に司令部があることは不利なことになったのである。
 海軍軍令部での検討で、聯合艦隊司令部を陸上に移すには、次のような条件が出された。
 移転先の候補は、東京又は横浜近郊で海軍中央機関と交通便利な場所として、東横線の大倉山にある精神文化研究所、小田急線町田の玉川学園、横浜航空隊、そして日吉であった。
 そこに設ける施設としては、それまでの旗艦であった大淀と同じとするが、作戦室、幕僚事務室、通信指揮室、暗号室、受信室等は地下に設け、参謀はひとり1室とする。そして無線、有線の通信施設を設ける。

 海軍は候補地を調べた結果、日吉の慶應キャンパスが最も適切としてこれを選んだ。
 東京の霞が関にある海軍省と横須賀海軍鎮守府との中間にあり、高台にあって無線通信に好都合であることが、その選定の理由である。
 そして寄宿舎が選ばれたのは、24時間稼働のために、他の施設から離れていてしかも電気雑音がはいらないこと、爆撃を受けても地下に施設を設けることができること、宿泊も勤務もできる施設であることなどの条件に適切であったからだった。
 そして1944年9月末までに入るように工事を急いだ。工事の最大なものは通信施設であった。連合艦隊司令部が日吉移転を最後に決意したのは9月21日であった。
 
◆迷彩で真っ黒に塗られた寄宿舎
 
 こうして慶応義塾が海軍に貸与した日吉の施設のうち、寄宿舎は聯合艦隊司令長官等の庁舎兼宿舎となった。
 聯合艦隊司令部の人員は420人ほどであったというから、ほかの建物や急造した兵舎、あるいは地下に掘った壕にも入った。
 
 南寮には、司令官や参謀長、参謀副長、機関長、軍医長、主計長などの将官級と3長が入った。2階の奥は個室4部屋ぶち抜いて司令長官室になり、その他にもあちこちで壁を取り払い扉を新設など大改装された。
 中寮には参謀ら佐官級、北寮は尉官級がはいり、どちらもあまり改造されなかったが、食堂は会議室や事務室、作戦室、会議室などになった。
 浴場は海から上がってきた者たちには、疲れを癒す場として評判が良かったそうだ。
 寄宿舎は士官用であったが、下士官や兵たちは地下壕で2段ベッドだった。しかし地下壕は居住性が悪いので、地上の地下壕出入口近くにカマボコ小屋を2棟建てて、その上を掘り出した土で覆った。
 
 当時を知る学生だった人の話では、真っ白なタイルの外壁は、空襲の目くらましのために真っ黒なコールタールが塗られて迷彩が施されたそうだ。真っ黒なモダンデザイン建築はどのような姿であったか想像しがたい。
 戦争末期には日本中のどこでも、空中から識別しやすい白色建物は空襲の対象となるので、黒く塗るように指示された。コールタール塗りもあったのだろうが、多くは木炭を砕いて作った粉を水で溶いて塗っていた。
 伝統的な美しい漆喰の白壁の街は、薄汚れた風景になっていた。衣服も白色を避ける様にしていた。
 
◆日吉寄宿舎地下壕から発信指令した作戦
 
 このときの連合艦隊司令長官は豊田副武であった。彼の在任中の主な海戦としては、絶対国防圏が崩れたマリアナ沖海戦(あ号作戦)、神風特攻隊で有名なレイテ沖海戦(捷一号作戦)、戦艦大和が沈没した沖縄海上特別攻撃作戦(菊水作戦)などの、いずれも失敗作戦の指令を日吉から無線で発した。
 
 1945年5月に交替した小沢治三郎長官は、マレー攻略作戦、あ号作戦、捷号作戦などを日吉から指令をくだし、最後は本州に上陸してくるアメリカ軍と水際で戦う本土決戦の準備であった。
 日吉の地下壕から、霞が関でも地下に潜った軍令部と電話連絡をしながら、作戦命令をしていた。作戦の結果は、今では誰も知るとおりである。
 当時ここに勤務した通信員の話がある。
「なによりつらかったのは、艦船に突撃する特攻隊員との通信でした。飛行中の特攻機はほとんど信号を発信しませんが、しかし目標に近づくと「ツー」と信号を出しっぱなしにするのです。そして、この音が突然、途絶えるのです。これは当時は特攻機が敵艦等に命中したとの理解です。この発信音は今も耳から離れません。」(元通信員 伊東喜代治氏 『日吉台地下壕保存の会会報第101号』日吉台地下壕保存の会2011年)

 この寄宿舎の台地下には、アメリカ軍の空襲を逃れるために、連合艦隊司令部の地下壕舎が掘られている。1944年7月にサイパン島がアメリカ軍に取られて、ここからB29爆撃機で日本本土への空爆が可能になった。
 日吉のような田舎町が普通なら空爆を受けるはずもないが、海軍の中枢基地となったために、空襲に見舞われたのであった。1945年4月15日には、日吉、箕輪、綱島、篠原などの港北区一帯が爆撃にあって、医学部の予科と工学部の建物の8割を焼失した。しかし、寄宿舎は空襲から逃れた。

 日吉の台地に陣取った海軍の各部局ごとにその地下に、敗戦の日まで網の目のように地下壕を掘って、海軍の機能を地下に潜らせたのである。
 寄宿舎の南寮と中寮の間に地下壕入り口があり、そこから地下司令部に一直線に126段の階段があった。地下壕舎はコンクリートや石で固めた構造だった。
 終戦時には日吉キャンパス内に2.6km、線路西の現在日吉の丘公園となっている海軍省艦政部が入る予定だった台地下に2.4km、全体では延べ5kmもの長大な地下壕ができていた。工事に関連して、近所の住家の移転が強いられたし、労働者には朝鮮からの徴用もあった。
 今もそれは存在していて、校舎等の工事の障害になる一方で、戦争遺跡として保存も図られつつある。
 
 ところで、実際はその前にポツダム宣言を受諾し回避されたが、実際に本土決戦となったらどうなったであろう
か。
 そうなった場合、戦後に判明したアメリカ軍のコロネット作戦(右図)は、湘南海岸に上陸する計画であり、日吉の海軍総隊司令部から水際の特攻作戦が司令されただろう。
 実はわたしの父が、その湘南海岸の本土決戦に対応するために小田原にあった陸軍の師団の通信隊に配属されていていた。上陸してくるアメリカ軍を迎え撃つために、ここでも丘陵に地下壕を掘っていて、まさに父もその穴掘り作業中に終戦となったのであった。
 ポツダム宣言受諾がもっと遅れていたら、日吉から作戦指令をしても海軍はアメリカ軍を海上で撃退できなかったろうから、その時はわたしの父は生き残らなかったであろう。幸いにも生き延びてくれて、85歳まで生涯を全うした。

◆海軍が去ったら米軍がやってきて戦中が続く日吉

 1945年8月15日、海軍総隊司令部(連合艦隊司令部を改組)は一切の戦闘行為の停止を各部隊に命令した。書類を焼き、月末に目黒の海軍大学校校舎に移り、日吉寄宿舎は空いた。
 この寄宿舎は、日本帝国海軍の敗北戦の一部始終を知っているのである。
 1945年9月1日には、アメリカ軍が横浜に進駐してきた。横浜都心や元軍事基地などをどんどん接収した。
 
 こうして日吉寄宿舎の戦後が始まるのであるが、またもや筋違いの運命が待っていた。
 1945年9月6日に進駐軍のジープが、日吉に突然やってきた。義塾は接収状を突き付けられて、有無を言わせず明け渡し命令を言い渡された。
 鉄兜とライフル銃で武装した兵士たちが第1校舎と寄宿舎の各部屋を下見をしていったが、まだ海軍は引っ越し荷物をまとめている有様であった。
 
 慶応義塾の戦争が終わった時点のことを「慶應義塾百年誌」から引用する。
「全施設のおよそ6割を戦災で失った慶應義塾にとって、復興の頼みとなるのは日吉地区の残存施設であった。もちろん日吉構内でも校舎の大部分を焼失したが大学予科の第1、第2両校舎など延坪8273坪余が被災を免れ、それらは義塾の残存全施設の5割に相当する面積を占めていたのである。それになんといっても13万坪をこえる広大な日吉キャンパスは全塾復興の足掛かりとして極めて重要な意義をもつものであった。しかるに、終戦後間もない昭和20年(1945)9月早々に、日吉の施設はアメリカ軍に接収されることになり、せっかく残った施設のうちの半分をまた義塾は失ったのである。」
 
 海軍時代はまだ一部を義塾の施設として使っていたが、日吉キャンパスのすべてが接収の対象となって追い出されてしまった。
 工学部校舎跡には料理学校、第2校舎は職業補導学校、第1校舎は宿舎にしたが、さらに空地にはカマボコ兵舎が立ち並んだ。
 そして寄宿舎はアメリカ軍の独身士官の宿舎となった。多分改装したのだろうが、寄宿舎に戻ったということには違いない。
 面白いことに、共同浴場の習慣がないアメリカ兵には、ローマ風呂は要らないものだったらしい。どこかにシャワールームを新設したのだろうか、ローマ風呂の円形の浴槽にはコンクリートの蓋がされて、浴室はバーラウンジになっていたらしい。
 それはそれで総ガラス張りの見晴らしの良いラウンジは、気持ち良いものだったろう。設計者の谷口の意図はそれなりに活かされたといえる。

 その頃、横浜は都心部や山手も港なども広大に占領軍に接収されて、戦中が続く苦難の時代であったが、日吉の広大な慶應キャンパスもそれに負けない苦難の接収であった。日吉の街はアメリカ兵士たちが闊歩して、敗戦日本の戦後風景が繰り広げられた。
  ただ、ちょっと不思議なのだが、公刊されている戦後接収に関する資料について、横浜都心部等に関しては詳しいのだが、日吉に関しては全くと言ってよいほど見つからないのである。
 こうして日吉キャンパスの戦中は、接収が解除された1949年10月までつづいたのであった。
 
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