東日本大震災のもとになった2011年3月11日東北地方太平洋沖地震は、大津波による被害が甚大である。そしてこの津波の大被害ははじめてのことではなくて、特に東北地方の三陸沿岸部はこれまでに何度もあったという。
1933年3月3日、昭和三陸地震がおきて大災害となっている。今の東日本大震災のほうが被害は大きいようだが、その頃の社会情勢と今とは大いに違うから、当時の社会ではどう受け止めたのだろうかと興味がわいた。
1933年といえば、世界恐慌、昭和恐慌とされる時代の中心にあり、失業者は町にあふれ、労働争議は頻発し、農村部の疲弊は悲惨であった。その前の1932年には右翼や軍のテロリストが横行して政財界要人たちが次々と暗殺され、政党内閣が倒れて元海軍大将の斉藤実を首相とする「挙国一致内閣」となっている。
満州では戦争、国内では大不況と政治不安という、どん底の時に東北地方で起きた大災害は、2011年の今の世情と大災害と、なにか似通っているかもしれない。
1933年3月の新聞を読んでみたら、この月は、新聞号外が4回も出た騒乱の日々であった。
戦争、大地震と津波、世界恐慌、外交問題などの事件が、その頃の日本を揺り動かして、更にその後の日本を下りの崖道に導いたのであった。
1945年には崖下に転落する日本の悲劇の序曲を聴くようである。実はちょうどこの時期、わたしの父が一兵卒として中国で戦闘の最前線に出て、弾が身をかすめる日々を送っていたのである。わたし個人としても気になる年月である。父はその戦争日誌をのこしており、その1933年3月の一庶民の戦場での日々と新聞記事を合わせつつ読んでみた。
その後の歴史的事実と今日の動きを思い合わせて、わたしは時間航行者の気分になってしまった。
●この続き全文はこちら→津波と戦争そして原発
http://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-senso-genpatu
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2011年8月7日日曜日
今年の広島の原爆忌でのエライ人たちの挨拶などで、福島原発に触れたところを読んでみた。
まずは原発地元の松井一實広島市長の平和宣言の原発関係部分です。
「また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。
そして、「核と人類は共存できない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。
日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです」
なんだかしゃんとしない曖昧きわまる言い方ですね。「……の人々がいます」って、余所事で言うんじゃなくて、市長ご本人はどうなんだいッ。広島市の人でさえ、こういうものなんでしょうか、それとも福島と広島は遠すぎるんでしょうか?
では、菅直人総理大臣の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつの原発部分です。
「本年3月11日に発生した東日本大震災は、東京電力福島原子力発電所に極めて深刻な打撃を与えました。これにより発生した大規模かつ長期にわたる原発事故は、放射性物質の放出を引き起こし、わが国はもとより世界各国に大きな不安を与えました。
政府は、この未曽有の事態を重く受け止め、事故の早期収束と健康被害の防止に向け、あらゆる方策を講じてまいりました。
ここ広島からも、広島県や広島市、広島大学の関係者による放射線の測定や被ばく医療チームの派遣などの支援をいただきました。
そうした結果、事態は着実に安定してきています。しかし、今なお多くの課題が残されており、今後とも全力を挙げて取り組んでまいります。
そして、わが国のエネルギー政策についても、白紙からの見直しを進めています。
私は、原子力については、これまでの「安全神話」を深く反省し、事故原因の徹底的な検証と安全性確保のための抜本対策を講じるとともに、原発への依存度を引き下げ、「原発に依存しない社会」を目指していきます。
今回の事故を、人類にとっての新たな教訓と受け止め、そこから学んだことを世界の人々や将来の世代に伝えていくこと、それがわれわれの責務であると考えています」
うん、まあ、広島市長よりよほどはっきりしていますね。
「原発に依存しない社会」とは、脱原発ってことかしら。それとも薬物依存なんていうように、原発に麻薬のような依存をしないってことで、やっぱり原発は容認だってことでしょうか。ウン、こっちのほうがニュアンスが近いなあ。
それにしても個人発言なら「脱原発」、首相発言なら「原発に依存しない社会」か、そのうちに「脱原発に依存しない社会」なんて言い出さないでよね。
こうしてみると、市民に近い市長が曖昧模糊、市民から遠い総理大臣のほうがちょっとは踏み込むてのが妙だが、これは政治家の資質の違いか。次の長崎ではどうでてくるか期待している。なお、国連事務総長の挨拶には、原発には一言もふれていなかった。
ではちょっと新聞を見よう。「原発推進派」の読売と産経はどうなんだろうかと、8月7日の両社説を見た。
読売は「「脱原発依存」はそもそも個人的な見解だったはずだ」と、こんなところで言うなって噛み付いている。
産経も「脱原発にこだわる首相の言動は無責任としかいいようがない」と、これも噛み付いている。
あげあしを取るが、ここで「こだわる」って言葉を使ったのは、菅さんの言葉をわざと矮小化する意図なのか、それともうっかり用語を間違ったのか、どっちだろうか。
注:広辞苑の「こだわる」の意味には「気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる」とある。
(追記0809)
8月9日の田上富久長崎市長の平和宣言は、いきなり冒頭から原発問題に触れて、「原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進める」必要性を言った。しかも、かなり長文である。
「平成23年長崎平和宣言」の冒頭部分
「今年3月、東日本大震災に続く東京電力福島第一原子力発電所の事故に、私たちは愕然としました。爆発によりむきだしになった原子炉。周辺の町に住民の姿はありません。放射線を逃れて避難した人々が、いつになったら帰ることができるのかもわかりません。
「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのでしょうか。
自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか……、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきています。
たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です。
福島の原発事故が起きるまで、多くの人たちが原子力発電所の安全神話をいつのまにか信じていました」
広島市長の曖昧模糊と比べると、ずいぶん踏み込みに差があるが、同じ被爆都市としてなぜこうも違うのだろうか。市民はどう考えるのだろうか。
そういえば、長崎は市民参加の委員会で平和宣言原案をつくり、広島は市長が考えるとか。
中国黒龍江省方正県政府が建てた、日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が、建てて10日程で撤去されたというニュースが新聞に出ている。
侵略者の慰霊碑とはケシカランというネット批判にさらされた結果だそうだ。先日の高速列車事故の証拠破壊と復旧作業みたいに、なんだかすばやすぎる対応である。
それで思い出したのは、1933年3月のことだ。
その3日に起きた昭和三陸大津波のことを調べようと、3月の新聞を読んでいたら、こんな記事があった(3月20日 東京朝日新聞 夕刊)。
「第2回自衛移民団 関東、東北で募集 その人選、移住地等については、陸軍と関東軍と打ち合わせ中であるが、陸軍では第2回自衛移民は中国ならびに九州地方より選定する意向であったが、その後種々の事情から第2回自衛移民は大体第1回同様、青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、新潟、石川、富山、茨城、栃木、群馬、長野、山梨各県の在郷軍人から五百名を選定することに決定した」
この「自衛移民団」とはなんだろうかとネットで調べたら、「試験移民団」とも「武装移民団」とも言われたらしいが、1932年にできた日本の傀儡政権「満州国」の、辺境の地に送り込んだ農業移民「満蒙開拓団」の初期の名称である。
第1次移民団は1932年に送り出しているが、その名前のようにまさに武装しての移民であった。関東軍の庇護の下にあった。なぜ「自衛」とか「武装」の移民団であったかは、現地で地元民のゲリラに襲われるからだった。
その移植地が、もともとその地を開墾して耕していた現地の農民たちの土地を、日本政府が武力で以って安価に無理矢理に取り上げたために、当然のことながら抵抗がありトラブルが発生するのだった。
この武装開拓団が試験的に第4次まで入植し、1937年から本格的に集団移民が始まった。
1945年には30万人前後となり、ソ連参戦後の大混乱で悲劇となり、帰国できたのは11万人であったそうだ。
満蒙開拓団は、敗戦での被害者である前に実は加害者であったのだから、慰霊碑への中国人の非難は当然だろう。戦争の被害と加害はあざなえる縄か。
1933年の三陸大津波の頃は、日本は昭和恐慌が続いていて労働争議は頻発し、特に農村は疲弊していたので、王道楽土・五族協和の美名の下に、植民で棄民をしたのであった。
今の日本はどうだろうか。リーマンショック以来の不況は深刻になり、そのようなところに東北地方を中心に大津波、その上に核物質が拡散するありさまで、先行きが見えない閉塞感が色濃く立ち込める。
この大不景気打開のためにイッパツ戦争を、なんてことにならないように、祈るしかない。
なにしろ日本が昭和恐慌から立ち直ったのは、1931年勃発の満州事変に対応する1932年からの高橋積極財政策があったし、1945年の敗戦疲弊から立ち直ったのは、1950年の朝鮮戦争特需だったのだから。
政府総務省が発表した東北地方の岩手、宮城、福島3県の2010年人口統計がある。
東日本大震災の直前年の調査だから、20111年以後はこれが大きく変わるだろう。
津波に襲われた沿岸地域の市町村の、高齢化率だけを見て、その原因とかいろいろ考えた。専門家ではないし、資料をあさるのも面倒なので、見て考えるだけである。
福島県の浜通り市町村ごとの65歳以上人口割合の図を見ると、おおかたは25パーセント以上であるが、福島原発のある辺りが21から23パーセントで、高齢化率が比較的低い。
これは、多分、原発あるいは原発関係企業への、若い就労者がいるということなのであろう。 福島県の人口の性格は、会津が超高齢化、中通は比較的若く、浜通はその中間と、明確に分かれて見えるのが興味深い。 推察するに、会津が第1次、中通が第3次、浜通は第2次と、それぞれの産業の中心が異なっているのだろう。 宮城県の沿岸地域の高齢化は、南部は比較的に遅く、 北部が三陸では進んでいる。 原発のある女川町が33パーセントの超高齢都市であり、福島の原発立地地域と比べてかなり高いのは何故だろうか。関連就労者の多くは隣接の石巻に住んでいるのだろうか。 仙台市で津波で壊滅的となった若林区は高齢化率18.4パーセント、宮城野区16.6パーセントで、高齢都市ではあるが比較的低いということは、多くの勤労世代が被災したのであろう。 岩手県の三陸沿岸部の市町村の高齢化率は、 ほとんどが30パーセント以上である。 福島や宮城のように、地域差が見られないのはリアス式の海岸が続く、漁業を主体とする同じような構造の生活圏だからだろうか。 考えてみると、漁業はその生産基盤は海だから、沿岸漁業は影響あるとしても大変化はないはずだ。問題は船、港、冷凍倉庫等の漁獲手段の崩壊だろう。 中越震災の農業地域のように、田畑が崩壊して灌漑も不能になるという生産基盤の被災とは違うから、当然に復興の仕組みが大きく違うのだろう。 それにしても今でも3人に1人以上が高齢者であり、この長高齢社会はさらに進むことは確実だから、震災復興はその人間の構造を見極めつつ進める必要がある。
元の町あるいは近くの高台に、復興に10年かかって完成してみたら、そこにはもう動けない年寄りばかりとなっていることもあるだろう。それを予想した老人の「死に甲斐のある町」(これは近江八幡の川端五兵衛元市長の言)への復興もあるだろう。あるいは、まだ高齢化の比較的低い内陸部地域に積極移転して、新たなコミュニティを共同して復旧するほうがよいかもしれない。このとき問題となるのは、住み慣れた故郷を離れることへの抵抗である。しかし、いずれ老いたままで過疎地域で暮らすことはできないのだから、その地域を閉じて都市部へ移転することが、今がチャンスととらえることも大いに意味のあることと思う。これは中越震災後の過疎山村に通っていて感得したことのひとつである。
参照→地域を閉じる
沖大幹さんて人が言ってるけど(『本の雑誌』9月号33ページ)、1杯の牛丼を作るのに必要な水の量は大体2000リットル、湯船にして10杯くらいだそうだ。え、どうして?
その丼の中のコメを作るのに200リットル弱、乗っている牛肉85グラムを作るには1700リットル、ほかにもタマネギとかショウガとかを作るに要る水を足すと、そうなるのだそうだ。
これをヴァーチャルウォーター、仮想水という。
仮想水の重さは牛肉は20000倍、豚肉は6000倍、鶏肉は1500倍を必要とするのだってさ。
こうなると日本の半分以下の雨量のヨーロッパで、牛肉を食う文明が育ったのはどういうわけだろうかと思ってしまう。雨量が多いということは、それだけ食料が豊かで、自給自足しやすいってことか。なのに日本の食料自給率は4割を割ったそうだ。
重さの何千倍もの水を使うといっても、垂れ流しているのではない。また雨になって戻ってくるから、まさに再生可能な原料である。
水の無い地域の人々は、水を輸入するのではなくて、それを千分の1、万分の1に圧縮した食料として輸入するってことである。逆に言うと、牛肉を輸入するとその2万倍の水を輸入することになるのか。
人間も1キロ太ると10トンもの水を消費したのだろうか。
こうして見ると、太陽と水と土を資源とする農業が、もっとも再生能力が高い産業であることに思い至る。
ところが、福島第1原発の事故が、その再生の循環の輪を断ち切りつつある。
核物質に汚染されたらもう再生循環できないのである。今年だめでも来年があるさって、そういう期待をできない農業となった。
毎日降り注ぐ核汚染物質は、来年からの未来がある生活圏の復興をさえさせてくれない。生活圏が縮んでいく。
この食料と生活の場を奪われていく日々の状況が、わたしの心のなかになんともたまらない閉塞感を蔓延させる。
仮想水で思いついたが、仮想電力ってのもありそうだ。
近代農業は機械、プラスチック製品、農薬、合成肥料、照明など、多くの電力を使っている。
コメ1キログラムに何キロワットの電力を使うのだろうか。昔はトマトを真冬に食うなんてことはしなったが、温室栽培では1個に何キロワット要るのだろうか。
農業も原発の電力に頼るようになって、再生能力が低減しているかもしれない。
人間が生きるために働いているとしたら、そのもっとも根源にある目的は、毎日の安定した食料の確保である。
そこに避けようも無く遮断の手を突っ込んでくる核汚染事故の怖さが、人間の身に染みるには、もう一度くらい同じことが起きることが必要なのだろうか。
3月の地震以来、朝起きると新聞を広げて、二つの定例の記事を見る日々である。東日本大震災の「被災者数」と「各地で観測された大気中の放射線量」である。被災者数にある死者・行方不明者数は、震災から5ヶ月過ぎた8月15日は、行方不明者4,666人、死者15,698人となっている。この二つの数字は毎日変化していて、死者は増えて行方不明者が減るのだが、合計値が漸減傾向で、どうやら20000人ちょっとのあたりに収斂しそうである。
もうひとつ毎日掲載記事の「各地で観測された大気中の放射線量」は、地図の上に数値が載っている。
前日の核汚染物質空襲状況報告である。 太平洋戦争末期にあった空襲警報が、またもや出され手いるようなものだが、あの時は飛び飛びだったが、今度はず~っと出され続けているから大変だ。 福島原発を中心に、遠くは山形、南魚沼、わたしの住む横浜までの地図に数値(毎時マイクロシーベルト)が出ている。 実は勉強していないので、その数字の意味するところをよくは知らない。わたしの横浜は13日は0.027、この日の最高値は飯舘の2.62、この差はなんだろうか。 なんにしても毎日、減少を願うばかりである。
◆
ところで、この死者・行方不明者数と放射線量の記事は、西日本地域でも毎日の新聞に掲載しているのだろうか。 この数値を毎朝見るのと見ないのでは、ずいぶん意識が違うような気がする。 わたしはもしも見ないでいたら、すぐに忘れそうである。そして、まだ余震が毎日あるので、そのたびにはっと思い出すってことになりそうだ。
ということは西日本ではこれらの数字を見ることがないだろうから、おのずと東日本とは意識が異なるだろう。
思い出せば(といっても、もう思い出せないのだが)、阪神淡路大震災については、これと逆の状況であったのかもしれない。
核汚染物質の空襲が続く毎日であるが、太平洋戦争の末期は、爆弾と焼夷弾が日本全土に降り続く日々であった。
それは敗戦とともに止んだが、いまの核汚染物質はいつ降り止むのだろうか。そして地に降り積もった核汚染物質はいつ無害になるのだろうか。
66年前に降り止んだ爆弾は、その後の世にもたまに不発弾が被害を及ぼし、広島・長崎の核爆弾はいまも死者を作り続けている。
焼夷弾空襲は津波襲来であり、原子爆弾は原発事故であるとの、アナロジーが成り立つか。
◆
太平洋戦争の空襲の話で思い出したが、アントニン・レーモンドという人ががいた。
チェコ生まれだがアメリカに渡って、後に日本で有名な建築家となった人である。そのころはそうでもなかったが後に世界的な大建築家となったフランク・ロイド・ライトの弟子となる。
ライトが設計した東京の帝国ホテル(1924竣工)の建設のために日本に来た。ホテル建設が終わってもそのまま日本で仕事をしていた。
太平洋戦争中にアメリカに帰国した。そしてアメリカ軍への東京大空襲アドバイザーをやっていたそうだ。
砂漠の中に木造長屋群の実物大模型を作って、日本の都市や家屋の燃やしかたを実験し研究した結果が、ヨーロッパのような破壊型爆弾ではなく、焼夷弾による焦土攻撃になったという。
日本の家屋や街をよく知っている専門家だけに、その指導で効果的な無差別攻撃となった。
戦後はまた日本に来て、有名な建築家として活躍した。さてこれをどう考えるか。
建築家の林昌二さんは、レイモンドのデザインや技術はすばらしいけれども、「人間としてはとんでもないやつだ」と言っている(2010『著者解題・内藤廣対談集2』)。
参照http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/cat_50031934.html#
戦中の日本の建築研究者は、防空都市の研究もしていたが、現実には木造ばかりの日本でできる空襲対策は、延焼防止の強制疎開であった。
ここで言う疎開とは児童疎開とは違って、燃えやすい家を撤去して、広い空間を作るのである。火がついても燃え広がらないように、街をあらかじめ疎らに切り開いておくことで、これが疎開の本来の意味に近い。
戦争末期には都市の密集地や駅や鉄道近くでは、木造家屋の引き倒し破壊をやっていた。その跡はいまも広いままに使われていて、例えば谷中銀座もそのひとつである(『谷中根津千駄木』80号2005)。
あまりに簡単に燃え続けた日本の都市の反省で、戦後の都市再生の出発は不燃都市を標榜して、いろいろな政策を行ってきたのであった。
◆
空襲といえば、連合軍の無差別爆撃に対する被害の怨嗟が語られている。それは当然である。
太平洋戦争を始めたのが1941年12月、次の年の4月にはもう東京が空襲された。
その時は洋上の空母から発進した爆撃機だったが、次第に日本が太平洋の島々で負け続けて、敵は近くの島から発進してくるようになった。1945年は空爆されるのが日常になってしまった。日常の死の恐怖はつらい。
だが、日本軍も無差別空爆をやっているのである。
1932年の上海事変では、洋上の戦艦からとんだ偵察機の10次にもわたる爆撃で、軍事施設のほかに市街地も破壊して多くの一般人死者を出した。以後、中国ばかりではない。
1938年から43年まで国民政府の本拠の重慶を200回以上も空爆している。この無差別爆撃が、後の広島・長崎の原爆を正当化するとも、連合国側では言ったらしい。
もっとも、中国やフィリピンなどでは地上の市街戦だから、空爆どころではない無差別攻撃に一般住民はさらされたのだった。
市街戦は日本では沖縄だけであったから、被害意識に大きな違いが出るのだろうが、無差別空襲、無差別攻撃は日本軍もやったことを忘れてはなるまいと、わたしは思うのである。
19世紀末から始まった足尾鉱毒事件という大公害があった。福島第1原発事件は、その21世紀版のような気がする。鉱毒ならぬ核毒である。
栃木県足尾の山中にある銅山から発生した毒煙・毒水の鉱毒が、周辺や下流域の地域に大きな災害をもたらした。足銅山周辺地域は、山林は硫黄を含む毒煙で丸裸になり、田畑も汚染で作物もできす、いくつかの村が廃村となった。銅ややカドミウムの毒水は、銅山下流の渡良瀬川流域の田畑に流れ込んで、作物を汚染して、流域の農業を立ち往生させた。洪水のときは利根川をへて関東平野東部にも毒水が及んだ。
どんな公害があろうとも、どんな抗議があろうとも、銅山経営者の古河鉱業は、責任をとろうとしない。流域被災農民からの鉱業停止運動は、官憲の弾圧を受ける。ついにリーダーの田中正三の天皇直訴事件が功を奏して、マスコミが取り上げて社会問題となる。窮した明治政府は、富国強兵殖産興業のために銅山に対する公害対策を後回しとし、たびたび起こる渡良瀬川の洪水の調整池づくりを理由として、その毒水の沈殿地としで渡良瀬遊水池を計画する。
遊水地の場所は、鉱業停止運動の根拠地である。その村と住民を根こそぎ取り除いてしまう作戦であった。それは20世紀末まで工事が続けられて、今、栃木・茨城・群馬・埼玉の諸県境にひろがる広大な湿地草原と谷中湖となっている。その広大な遊水地のためにために、田中正造の反対運動で有名な谷中村をはじめとしていくつかの村が強制廃村、強制移転させられた。
今、強制避難させられている福島第1原発の周辺の市町村のことを、わたしはいやおうなく連想してしまうのである。毒煙・毒水を核汚染物質に置き換えると、その発生も、その毒を取り除くことができなくて、人間のほうを強制的に動かすのもそっくりである。21世紀の谷中村が福島に出現するに違いない、と、わたしは思う。19世紀末に発生してこの大公害は、原因者の古川鉱山が認めて賠償金を支払ったのは、20世紀末のことであった。被害者にとっては、大企業と政府を相手とする100年かかった争いであった。廃止となった銅山は、その後も毒水を出し続けるために、その処理を延々と続けなければならない。これも核汚染物質の処理と同じである。
鉱毒もものすごい毒であるが、それよりも核毒のほうがもっと強烈である。ここが科学が人間の毒の方向に進歩した証拠である。わたしは1958年だったか、その廃村のひとつである松木村の跡にある松木沢に入ったことがある。谷の両側に赤茶けた荒涼たる岩山が続いていて、草木はほとんど見えない。ここは日本だろうかと思わせる、凄絶な景観であった。渡良瀬川にたびたび洪水が起きたのは、この禿山のせいであったに違いない。洪水被害も公害であったのだ。そこに行った目的は、所属していた大学山岳部の合宿で、その日本的でない岩肌が屹立する岸壁を利用して、ロッククライミング登山の訓練をしたのであった。その後、緑は回復しているのだろうか。
20年くらい前に、愛媛県新居浜の別子銅山跡地に行ったこともある。ここも谷だが両側の切り立つような山には、濃い緑が繁っていた。別子銅山でも19世紀末に煙害や銅山川の洪水による毒水公害が起きている。しかし、別子銅山経営の住友はここが本拠地であり、地域全部が住友銅山の町であったので、かなり早期から公害対策をしてきた歴史があるようだ。植林も住友の産業のひとつとなっているくらいだから、足尾の古河興業とはかなり態度が異なる企業である。この廃鉱跡地を産業遺産を生かした観光施設に転換しようというプロジェクトがあり、わたしはそのマスタープランづくりメンバーのひとりとして、現地を視察に行ったのであった。その計画は実現して、「マインとピア別子」として営業をしている。廃鉱となって40年ほど、いまだに発生する鉱毒水の処理を続けている。原発廃炉後も、長期にわたる核燃料や汚染物質の処理が必要なことと似ている。
足尾鉱毒事件とその対策のあり方が、今の福島核毒事件になんらかの示唆を与えてくれそうだ。資料を読みこんで考えてみたい。
あるブログで、なんと原子力発電船の建設が紹介されている。もっとも、造船所の倒産で頓挫したらしいけど。
「ロシア、世界初の洋上原発プロジェクト頓挫」http://infrascape.exblog.jp/16126557/
http://www.reuters.com/article/2011/04/18/us-nuclear-industry-floating-idUSTRE73H3S020110418
そのブログではロイターの記事を紹介して、要点をこう書かれています。
「2つの原子炉で構成されており、これにより35000世帯を賄う70mWの発電が行える。プラントはドックまたは沿岸に停泊しそこからケーブルで送電を行う」
「ロシアの国営原子力エネルギー企業のPosatomは、輸出目的で12の洋上発電所を建設する予定だ。」
「最初の原子炉の建設費用は5億500万ドルで、当初見積もりより4倍超も高額になっているが、それでも従来の大型原子炉に比べてればごく小額だ」
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驚きました、あるんですねえ、世の中に本当にそういう計画が、。実はわたしのブログ「伊達な世界」に、3年前に冗談に書いたことがあるのです。その要旨は、次のとおり。
「巨大な原子力空母は巨大な原子力発電所を抱えているのだろうが、波にゆれる洋上では地震の真上にいると同じだけど大丈夫なのか?、そこで突然に思いついた、アッ、そうだっ、原子力発電船を作ればよいのだっ、いい考えだぞこれは、。海に浮かんでいても、アメリカ政府や日本政府の言うように絶対に事故がおきないのなら、電力需要の多い地域の港に停泊して発送電すれば、エネルギー効率が断然良くなる。大規模工場はたいてい海べりにあるから、原子力自家発電船を作ればよい。万が一、事故がおきたらすぐにはるか沖に出て行ってしまえば、害を及ぼす範囲は格段に小さくなる」
●全文は→「地震に強いかも原子力発電船」2008年9月29日
http://datey.blogspot.com/2008/09/nuclear-carrier.html.
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どうです、思いがけずに福島第1原子力発電所の大事故です。あれがもし福島第1原子力発電船だったら、津波が来るぞとわかったらすぐに沖合いに出ちまえば、こんなことにはならなかったでしょうに、、なんて、、う~む。冗談と現実の境目が取り外されると、困ってしまうよ。
その地の人々には気の毒ではあるが、福島第1原発から出る核物質で強度に汚染された地域は、21世紀の谷中村にならざるを得ないと、わたしは思っている。
昨日、政府がそれをこわごわながらも言い出したのは、近日中に代わることになっているらしい首相の菅さんが、最後の一手として火中の栗を掴んだのであろうか。それは多分、後継の人が言い出しにくい種のひとつであるこの栗を、辞める菅さんに言いだしっぺとして掴ませたのであろう。
「平野復興相は21日、東京電力福島第一原子力発電所事故で高濃度の放射性物質に汚染された周辺地域への立ち入り禁止措置が長期化した場合の対策として、他地域に避難している住民が長期間住むことができる住宅を新たに整備する意向を明らかにした。(読売新聞 8月21日(日)18時16分)」
「政府は、東京電力福島第一原子力発電所の事故で、放射線量が極めて高いなどの理由で、相当長期にわたって帰宅が困難な、原発周辺の一部区域については、当面、警戒区域のまま解除しない方向で、こうした区域の土地については、国が買い取るなどの対策も検討していくことになりました。(NHKニュース8月21日 18時39分)」
「菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。(朝日新聞8月21日朝刊)」
わたしでさえ予想していたのだから、その筋の業界のかたがたは、現地地権者との折衝に、すでに動いていらっしゃるかもしれない。こうなったら、政府は土地建物立木等権利移動凍結・価格凍結の施策を今すぐにでも打つべきである。もたもた遅れている間に、妙なことをする人々が介入してきて権利移動・価格高騰が起きると、結局は住民にも国民にも迷惑がかかることになる。
足尾鉱毒事件は19世紀末からのながながい公害事件で、古河鉱山と手を結んだ政府が、渡良瀬川下流域の村々を強制収用して農民を追い払ったのであった。その跡には、銅山から出た重金属に汚染された広大な土地が広がる。これを渡良瀬遊水地という。鉱毒の言葉がないのは、鉱毒のためではなく治水のためと詐称して作った巨大空地だからだ。
福島核毒事件は、今年3月から始まったが、やはりこれもながいながい公害事件にさしかかっていて、東京電力と手を組んだ政府が、福島第1原子力発電所を取り巻く広範な地域から、住民を追い出すのである。その跡には、原発から出たセシウムなどの核物質に汚染された広大な土地が広がる。さてこの地をなんと名づけるか。
鉱毒の重金属は今も遊水地にあるが、核の毒もこれから百年以上も地に残るらしい。人間はそこに住むことも、そこから産物を得ることもできない。
人間ばかりか生物はみなそうであろう。人間の手が全く加わらなくなったら、日本の気候は多雨だから、ここにはかつての太古にあったような森林が復活してくる。これを自然遷移という。福島の太平洋沿岸地域は、植生学上の潜在自然植生分類ではヤブツバキクラス域だから、タブを中心にしてシイやカシの類の常緑広葉樹の森になり、内陸部はブナクラス域だからブナ、ミズナラ、ツガなどの森になるであろう。
この森を「鎮魂の森」とか「望郷の森」とか言いたい人もいるだろうが、わたしは「核毒の森」と名づけたい。当然ながら人々の進入を規制する禁断の森である。
この禁断の森を後世の人々が忘れないように、その所以を伝えていくべきであると思うからこそ、渡良瀬遊水地のような欺瞞の名称ではなく核毒をもって名づけたい。この「核毒の森」のイニシャルコストとランニングコストは、巨大公害を起こした原因者の東京電力の企業および株主が負担して、国有の公園とする。それらの費用の一部は、多分、わたしにもいろいろな形で負担を強いてくるだろうが、それは原発の発した電力を享受した罰として、負担可能な相応額は引き受けざるを得ない。
だが一儀的には、東京電力という企業とこれを支えた株主たちであることを、忘れないようにしたい。もちろん森の中心地には福島第1原発の廃炉群が無残な姿を見せている。廃炉の管理のための投資は長く長く続くだろうが、できるだけ無残な姿を露出して保存してもらいたい。放射線を出し続ける炉などはカバーするとしても、あの無残な建屋鉄骨はどこかにそばに移してでも、必ず保存してもらいたいのは、この大事故を後世伝えるには、目に見える姿が最も訴求力があるからだ。原爆ドームのように。
そしてこの地を今すぐに世界文化遺産に登録するのだ。この深い禁断の森と発熱する廃炉群を、そしてそこに至る道程のすべてを、現世と後世の地球上の人々にしっかりと伝える役割を持たせるべきである。それがこの土地を追われた現代の谷中村民に対する、わたしたちの基本的な礼儀であると思う。
悲惨であった足尾鉱毒時代とは違うから、十分な金銭補償等はなされるであろうが、それで済む問題ではない。だから登録は今すぐ行うべきである。3.11以来起きている物事のすべてを文化遺産として、後々まで伝えるべき重要なる人類の資産であるからである。世界遺産登録の基準に適合しないからできないなどという、手続きで反論があるだろう。だが、今の基準に適合しないような世界文化遺産に相当する事件が起きてしまったのだから、今の基準に拘泥する理由はまったくないのだ。もちろん世界遺産が観光資源と思われている世の中だから、その視点から登録の是非が議論されるかもしれない。だがこれは、論外の誤解曲解そのものである。できればチェルノブイリとスリーマイルも合わせて世界遺産に登録したいものである。そうすれば、すでに世界遺産登録となっている広島原爆ドームとビキニ環礁を合わせて、一連の人類愚行の核毒遺産として認識されるであろう。
震災に関しての悪稼ぎは、避難後の空き巣盗、放置被災自動車盗などがあるらしいが、それはコソコソとやるだろう。ところが、トラック野郎たちは昼も夜も堂々と盗人たけだけしいのだから、なんともいやはや、いくら犯罪にならないといってもなあ…。震災復興の支援策として、東北方面の高速道路利用のトラック通行料金を無料にしたら、これを悪用して関係ない方面にも無料通行するヤカラが続出、無料制度を取りやめにするそうだ。まあ、復興支援を急ぐためにチェックシステムがないままに、トラック屋のありもしない良心を信じたのが間違いのモトであった。悪貨が良貨を駆逐した、、か。
今わたしが心配しているのは、被災地のどこかを公有地化する必要が必ず出てくるが、そこを国や自治体より先駆けて買い占めるヤカラがいるだろうことである。かつて、「ダム屋」といわれる人たちがいた(今もいるか)。河川のダムによる水没予定地の土地を買って小屋を建てて暮らしているように見せて、ダム事業者が買収にくるとなんだかんだとゴネて値を吊り上げて不当利得をせしめるのである。こんどは「震災屋」とでも言おうか。特に、福島第1原発の周辺地域は、核毒汚染で使えなくなったのだから、東電の金で公有化して、人間の場所でなくしてしまうしかない。ここの土地にダム屋のようなヤカラが目をつけないはずがない。いますぐにでも地価凍結、権利凍結の手を打つべきだが、政治のごたごたでモタモタしてると、利に敏い「震災屋」さんたちに食いものにされるぞ。
●参照→「核毒の森」
政治家も、行政マンも、そして多分もっとも痛切に住民さえもが、そう、だれかれもがそう思っている、そう思うしかないのだが、どうにも言いにくいことがある。それは福島第1原発の周辺地域は、もう人間の場ではなくなったことである。しっかりと核毒が降り積もっていて、これを解毒もできないし、どこかに持っていくこともできないのだから、当然のことである。
そしてまたもうひとつの言いにくいことだが、原発周辺地域を越えて広く薄く降り積もった核毒まじりの土砂や瓦礫などを持って行って置いておくのは、この人間の場でなくなったところしかない。核毒を振りまいた東電が引き取るのである。そう、これをわたしは「核毒の森」と言うのである。http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.html
ところが、ついにそれを公言してしまったのが、首相の菅さんである。昨日(201年8月27日)、管首相は福島県知事と会談して、原発周辺では長期間住めない地域が生じること、県内に放射能汚染の土壌や瓦礫を中間貯蔵する場所を作りたいと、伝えたと新聞の報道である。そして怒る福島県に謝ったそうだ。これは実は誰もがわかっていて、実に言いにくいことだが、誰かがいつか言わねばならないことだ。それもできるだけ早期に。菅さんの次の首相に言わせて、彼は逃げてもよさそうだが、あえて言ったのであろうか。
もしかして次の候補者たちが原発にはあいまいな態度なので、ここで言っておかなければなるまいと奮起したのか。辞任の置き土産だろう。菅さんの言葉は、長期間住めないとか、中間貯蔵とか、時間と空間をあいまいにして言っているが、はっきり言って人間の場ではなくなるのは明白だろう。そんな汚れきったところで誰が働き、だれが暮らしたいと思うのだろうか。フクシマ「核毒の森」にならざるを得ないと、だれもが思っているに違いない。
そもそも東京電力が発した毒物であるから、原因者の東電が回収するのが当然のことだろう。こういうときに首相の菅さんが登場して謝り、どうして東電の社長が出てきて謝罪と核毒回収を言わないのか不思議である。政府は東電の手先か。そりゃ東電だけでは解決できない政治的な問題となっていることは確かだが、それにしても不思議きわまることである。モラルハザードの典型のような気がする。
受益圏と受苦圏という考え方が、環境社会学の世界であるそうだ。事故以前の福島は、原発受益権だったのか、それとも受苦圏だったのか? 今まさに福島が受苦圏になったことの社会的な意味はどうなんだろうか? 一般に原発の受益圏、受苦圏はどう考えるのだろうか? この受益圏と受苦圏について、もう少し考えてみたい。