福島第1原発が発射した核毒物質に汚染された地域を除染(この用語がでてこないのでPCに今教えたぞ)するのだが、その汚染土壌などをどこにおくかということが、問題になっていると報道が伝える。
そんな毒物質を集めて、自分の家の近所に置かれてはたまったものではないってのは、実に健全なる考えである。そりゃNIMBYだよって思う向きもあろうが、これがNIMBYと違うのは、ゴミや車や火葬場のような、その発生に自分がかかるものではないことにある。
毒の発生源はあくまで東電のせいであるから、これは東電が引き取るのが当たり前と思うのだが、そんなことは新聞のどこにも書いてない。
誰もそう言っていないのだろうか。不思議である。
そもそも東電から、その毒物を返していただきますって、言いだすべきであると思う。原因者が責任とるのは、なんでもあたりまえでしょ。全部引き取るには土地が足りなければ、福島第1原発の周りの土地を買いとればよいでしょ。いくら地主が愛着あるといったって、あんな毒だらけの土地にだれが住むもんですか。今はやく、除染した毒物を引き取るって東電が言えば、それだけ社会不安も減少するはずでしょ。除染毒の処理で地域コミュニティが壊れそうなのが心配である。はやいこと、もう戻れない地域を決めて、そこに核毒をどんどん運び込むしかないと思う。そしてそこが「東日本大震災記念公園核毒禁断の森」になっていくのだ。
どうもわからない。原発から降ってきた核毒を、地上から取り除く「除染」である。おなじことを何回も考えては書いてしまう。「消染」ならわかるが、除ってのはとり除くだけで、染まった核毒が消えるのではない。消すことができないらしい。だから、ここからとり除いた核毒は、何十年か何百年か知らないが、あいかわらずどこかにあるのだ。しかも、除染作業によって集めた核毒ゴミは濃縮されたことになる。除染濃縮核毒である。そんな濃縮毒物質をどこか最終処分場にもっていくまで、あちこちの中間貯蔵場に積んでおくらしい。右にあった毒を左に置くだけである。で、その中間貯蔵場は、あたりまえなのことに、だれもがNIMBY(NOT IN MY BACKYAD)である。東電からの贈り物なんか、うちの裏庭においてほしくない。だからわたしはITNPY(IN TODEN NUCLEER PLANT YARDS)しかないと思うのだが、誰もそういわないのが不思議である。
そこで更に思うだが、もうものすごく核毒降り積もる東電福島第1原発の周りの除染はどうするのだろうか。あ、そうだ、原発そのものの除染はどうするのだろうか。ものすごい毒性でものすごい量のゴミが出るだろう。どこかに持っていくなんて常識はずれだ。考えてみると、原発を要としてひろがる核毒扇のどこまでを除染するのだろうか。その除染超濃縮核毒汚染ゴミを、常識的には持っていくところがあるはずがない。それなのに、中間貯蔵場とか最終処理場とか言う。そもそも処理できるものなのか。
わたしたちは核毒と共に生きていくしかない、いや裏庭の核毒に埋もれて死んでいくしかない、思えば思うほどそうとしか思えないのである。除染、除染とこのところ騒がしいが、多分、除染産業なるものがおきるだろう。いや、もう起きているだろう。福島の産業の再生は、除染産業がになうことになるだろう。そして除染科学が地域に学問を興すかもしれない。それは原子力産業が支える地域の、もうひとつ姿である。それは核で生きてきた地域の悲しい宿命である。福島のほかにもその宿命を背負う候補地があることを、忘れてはならない。
福島第1原発によって各地に降った核毒汚染物質を集めて、それぞれ近場に仮置き場を設けて3年間ほど置いておくそうだ。
参照 http://www.asahi.com/national/update/1029/TKY201110290361.html?ref=any
どこに置くかもめるだろうなあ、NIMBYで当たり前だもんなあ。絶対にNIMBYといえないのは東電ただひとりだけである。そうか、原発作っている東芝や日立、三菱もそうかな。山の中の国有林におくとかの話もあるようだが、水が流れてくる上流部においたら、雨のたびにだんだん流れて、人里にやってきそうだよなあ、いいのかしら。といって、隣の町との境のあたりに置くと、隣が文句言うよなあ。
3年ほどの後に、こんどは中間貯蔵施設に持っていくのだそうだ。で、この中間貯蔵施設だって、仮置き場と同じ問題を抱えてるから、難しいよなあ。
それからまた30年以内に福島県外の最終処分場に移設するのだそうだ。そこには大量の核毒がやってくるのだろうなあ。お近くの人は、30年も毒に行き来されては、たまったものじゃないよ。県外に移設って、はて、どこかで聞いたような、あそうかUSARMY普天間基地移転の話だ。そう、大迷惑施設の受け入れ先が、福島県外って言っても、どこなんだろうか。これって原発立地の交付金以上に持参金をつけたら、こんな醜い嫁あるいは馬鹿な婿でも、もらう気になる自治体が出てくるのだろうか。もういちど鳩山宇宙人にでも、ゆきさき探しをお願いますかねえ。
このブログに何度も書いてきたけど、わたしはどう考えても、東京電力が福島原発敷地とその周辺の土地を買い増しして、そこに持っていくしかないと思う。ITNPYである(in TODEN nuclear power plant yards)。あ、そうだ、そこは福島県から分離して、東電県としてはどうか、それなら県外である、って、冗談を言ってみたが、考えるとありうるかもなあ。
あ、そうそう、で、東電県を世界文化遺産に登録するのであったよ。東電はご自分が出したすべての核毒を抱えこんで、その毒が消えるまで何百年間かしらないが、世界の文化遺産としてずっと県土をお守りなさって下さいませ。
それにしても不思議なのは、原発事故問題で、政府の偉いおかたばかりが福島にたびたび行くし、たびたび謝ることだ。
これってほんとはぜ~んぶ東電がやることでしょ。
除染ってのも、ほんとは東電がやることでしょ。なぜ政府がしゃしゃり出るのかしら。東電の尻をたたいてやらせるのが政府の役目のような気がする。ってことは、つまり東電がその能力を欠いているので、緊急を要する社会的大事件なので、政府がかわりにやってるってことかしら。もしそうだとしたら、そんなアホな事業者に危険とわかりながら原子力発電を任せていたことが、そもそも間違っていたことになる.
ということは、他の電力会社もそうなんだろう。能力ないのは困るけど、せめて政府のあとをくっついていくぐらいするモンでしょ、直接原因者なんだから。あ、もしかして東電も動いているんだけお、マスコミが伝えないだけかもなあ。
世の中には、なんでも政府が悪い行政が悪いと言っていれば、とりあえずは万事がうまく収まるって、そんな風潮があるのに、メディア連中も尻馬に乗って煽っているのだろう。そして本当の敵を忘れさせる。なんだか東電の身代わりで政府が怒られているような。
ということはその政府を作っているわたしたち、みんなが東電の身代わりになってるのか。東電の不始末の尻拭いを、日本中でよってたかったみんなでやってあげるって、そんな構図になってるのは、いったいどういうわけなんだろうか。だんだんと東電のことを忘れて、基地問題みたいに政府を追及するばかりになるのかしら。
だんだん敵を間違えてきているような気がする。
横浜の都心部の日本大通りで、東北復興支援のイベントが開催されていた(2011年10月29日)。
福島県の観光パフレットをもらってきた。震災後まだ行っていないので、震災と核災のお見舞いには、どう行けばよいか知りたかったのだ。
ところがである。震災も核災(原発事故被災)も一切書いてないのだ。う~ん、そういうものかしら。それらしいことは、地図の上に事故原発を中心に灰色の半円が書いてあるだけ。その半円も何キロか分からない。それが原発関連だと、わたしは知っているけど、地図には何も書いていない。
常磐線久の浜駅ー亘理駅間は運転見込みが立ってない、と書いてあるのだが、地図には久の浜駅も亘理駅も記載がないから、どこか分からない。観光パンフレットだから、震災や核災は関係ないのだってことだろうか。福島には震災も核災もなかったことにする、そういうようである。
なんだか間違っているような気がする。
これをおつくりになった方の意図を忖度すれば、ひとつは災害情報は物見遊山の来客を阻害する、もうひとつは物見遊山気分でこられては困るって、そういうことなんだろう。
しかし、いまの東北に行くのは物見遊山だけではない、いやあってはならないと思うのは、いまや世の常識である、とわたしは思う。その地の光を見るという古典的な観光ではないが、震災と核災というその地の闇をこの眼で見ることで、次の時代への光を探る(当て字をすれば「観荒」か)のも、重要なる観光であると、わたしは思う。
福島の人たちの気分を害してもいけないと思うが、世の警鐘として震災・核災をひろく知らしめることが、いまの福島の役割でもある、福島観光はそういう新たな時代に突入していると、そう考えてはどうだろうか。
わたしが福島原発を世界遺産にせよと唱えるのも、物見遊山の見世物観光ではなくて、深い沈思の文化への志向をも観光に意図するからである。