太平洋戦争に翻弄された戦前モダン建築
慶應義塾大学日吉寄宿舎
(その3)

太平洋戦争に翻弄された戦前モダン建築

慶應義塾大学日吉寄宿舎(その3)

伊達美徳

第1章<戦前>慶応モダンボーイの新キャンパス

第2章<戦中>海軍中枢の秘密基地となった日吉キャンパス

第3章<戦後そして今>戦中の傷を癒しきれない日吉寄宿舎

第3章<戦後そして今>戦中の傷を癒しきれない日吉寄宿舎

◆戦後の紆余曲折の寄宿舎

 慶應義塾では進駐軍に接収された日吉キャンパスの返還運動を猛烈にくり広げたが、ようやく約4年後の1949年10月に接収解除されて戻ってきた。この間、寮生たちは、野球部合宿所や大倉精神文化研究所の宿泊施設富嶽荘、中島飛行機製作所の寮などをさまよった。ようやく日吉寄宿舎の戦後が始まるのだが、しかし、返還された寄宿舎は荒廃していたのだろうか、しばらく放置されていたようだ。

 1954年に南寮を、日米交換留学生の寄宿舎とした。その一部に書籍7万冊の「斯道文庫」が設けられていたこともあった。2012年、改修して68年目にして再び寄宿舎となった。
 中寮は、1950年3月に大改修して寄宿舎として復活して使用していたが、2012年に南寮に寮生を移して、現在は使われていない。
 北寮は、1951年から研究室として使用したが、寄宿舎として再使用したことはなく、現在は1階の一部を会議室と部室として使用中である。かなり老朽化して特に窓周りの破損が著しく、生い茂って迫る森の中の廃墟の感がある。接収時代に浴場機能を失ってから今も戻っていない。
 浴室棟はその機能をいまだ回復することなく、高く育った竹藪のなかに廃墟として建っている。学生の諸団体が部室に一部を使っている。
 慶応大学が寄宿舎をいまも有効な教育の場としていることは変わりないようだが、その理想の場として造られた日吉寄宿舎は、戦争の傷をいまだ癒し切れていない。
 足元の土の下には聯合艦隊司令部時代に掘った地下壕が今も残っている。その戦争遺跡としての保存運動もある。

 「慶應義塾百年史」に、1965年3月現在の寄宿舎の記録として、鉄筋コンクリート造3階建(中寮、南寮)2棟、各延坪271.36坪、収容人員60名、入舎費3000円、寮費月額1000円、食費1日2食付120円とある。
 この4年前に大学を出たわたしは、やはり大学内にある寄宿舎に暮らしていた。日吉につながる東急目黒線の緑ヶ丘駅近くにある木造平屋であった。費用を比較すると、こちらは入舎費は0円、寮費月100円、食費1日2食月額2000円(慶応は月額3600円)であった。これは当時の生活費をつけていた同期生から教えてもらったのだが、施設内容の違いはあるにしても私立と国立の差だろうか。

◆68年ぶりの南寮の復活

 2012年になって、慶應義塾大学日吉寄宿舎は、南寮のみを外観を復元して内部を大改修して、寄宿舎としての使用を再開した。そのいきさつについては、慶應の関係者がこう報告している。

「平成22年、慶應義塾は安全面・機能面・財政面から寄宿舎の再構築を検討し、南寮と浴室棟を改修、中寮と北寮は取り壊すという整備計画を立案、これを吉田鋼市氏(横浜国立大学)を座長とする諮問委員会に諮った(筆者も委員として参加)。委員会は昨年3月、南寮をできる限り当初の外観に復元すること、4棟の一体性を重視し、中寮・北寮も保存活用を模索すべきことなどを答申。義塾ではこれを踏まえてまず南寮改修を実施、本年4月には中寮を一旦廃し南寮の使用を開始した。さらに横浜市は南寮・浴場棟を歴史的建造物に指定、寄宿舎の再評価の動きが加速している。」(「日吉寄宿舎調査報告一悲運の名建築が辿った歴史-」都倉武之 『福澤研究センター通信』第17号 2012年9月30日 慶応義塾福澤研究センター発行)

というわけで、南寮だけが今年に立派に修復されて、慶応義塾日吉寄宿舎の姿と機能を68年ぶりに取り戻したのであるという。 これをお書きになった都倉さんの話を聞きたくて、慶應大学であったこの寄宿舎に関するシンポジウムに行ったのだが(2012年12月8日)、都合で中座して話を聞き損ねた。

上記の委員会でどのような具体的なことが検討されたのか分からないが、「4棟の一体性を重視し、中寮・北寮も保存活用を模索すべき」とあるし、横浜市が南寮・浴場棟を歴史的建造物に指定したのを、慶応が受け入れたのだから、どうやら4棟とも修復活用する方向らしい。 ただ、気になるのは、この寄宿舎が、単に谷口吉郎設計の近代建築の初期作品であるという、建築史の世界だけの意義しか見ないことになるおそれがあることだ。
 なにしろ建築史や文化財の世界では、当初の姿に復元するのが大好きなのである。建築が長く使われてきたことによる変遷の歴史には、目を向けないのである。戦争の重要な舞台であった歴史がこの建築に刻まれていることが、ないがしろにされるかもしれない。
 そのよい(悪い)例が、最近、復原したとJR東日本が大宣伝してディズニーランド化している
東京駅の赤レンガの丸の内駅舎である。この復原する前の建物は、太平洋戦争の悲劇とそこからの復興を体現する重要な記念物であったのに、必要もない復原でその姿は消滅した。創建時復元第1主義でその後の歴史を抹殺する、建築史及び文化財行政の悪弊の見本である。

◆この戦争の歴史をどう伝えるか

 日吉キャンパスの南の台地下から見上げると、改装した南寮が真っ白なスカイラインを見せている。それは若い谷口の日本における戦前モダンデザインの嚆矢の姿を、見事に見せてくれる。それに並んで浴場の建物も見えるのだが、竹藪に半分隠れて廃墟の様子であるのが、もったいない。台地の斜面はかつては樹林だったろうが、いまは高層の共同住宅ビルが寄宿舎の足元まで迫っている。当時は見上げる人々は誰も知らなかったが、聯合艦隊司令部はこうして台地の上にのぼって眼の下に広がる庶民の世界を見下ろしつつ、遠くの洋上に結果として敗北続きの戦争作戦指令を次々に発していたのだ。この団地下に立つ共同住宅ビル群の背後の土の中には、聯合艦隊司令部の地下壕が眠っている。寄宿舎は日本帝国海軍聯合艦隊の墓標である。

日吉寄宿舎のことをここまでこまごまと書いてきたのは、慶応義塾における寄宿舎の意義、名建築家谷口吉郎の設計、戦中の海軍連合艦隊司令部、敗戦直後の連合軍の接収、そして復活という、数奇な歴史をたどっていることに注目したからである。その戦争という悲劇の歴史を背負っていることも、しっかりと後世に伝える役割をこの名建築は持っているのである。これからこの建物の修復再利用にあたって、それがどのように活かされるのか、あるいは活かされないのか、実に興味深い。なお、わたしは何が何でも復元保存論者には与みしない。その現代的な使い方と重層する歴史的事実の継承について、それぞれに適切な保全を探るべきであると考える。

わたしが聞けなかったシンポジウムでの都倉氏の配布資料が手元にある。そこの最後にこう書いてある。
  
「近代建築の保存・再生において、建築史のみならず多角的な視点を活かす重要性」
 
まさにそれが重要であると、わたしも思う。わたしがとりあえず慶應義塾大学関係者にお願いしたいことは、戦中と接収のことも含めてこの建物の歴史的意義を、若い学生たちにこそ伝えてほしいのである。

◆慶応つながりの奇縁

 わたしと慶応大学の日吉キャンパスとの関係は、30歳代の10年ほどを日吉に住んでいて、子連れで散歩にちょくちょく訪れた程度である。そのころは寄宿舎には気が付かなかった。その後の慶応義塾大学との縁は、ずっとのちになって湘南藤沢キャンパスの大学院生に5年間、非常勤講師として講義をしたことであった。わたしの仕事のパートナーは、日吉で学生生活を4年間を過ごした人だった。谷口吉郎先生や慶応義塾大学に若干の縁がある者として、こうやって書くことも許されるだろう。

最後に大学時代のもうひとつの思い出を書く。当時の谷口吉郎教授の建築計画学の講座の助教授は、清家清先生であった。清家先生は谷口先生の高弟で、名建築家として知られる。わたしが4年生になって、清家研究室で卒業研究をしていた同期生の研究現場にちょくちょく遊びに行った。わたしは清家研ではない。現場といっても教室のある本館ビルの屋上広場である。住宅の浴室や便所などの原寸の簡単な模型をつくって、わたしのような仲間や知り合いがモデルになって浴槽に入ったり出たり、便器に腰かけたり立ったり、ドアを開けたり閉めたりして、使い勝手を調べるのである。そのモデルのひとりに、「アッチャン」とよばれる人気者の6歳の男の子がいた。そのアッチャンは長じて今、慶応義塾の清家篤塾長である。 (完 2012/12/30)

第1章<戦前>慶応モダンボーイの新キャンパス

第2章<戦中>海軍中枢の秘密基地となった日吉キャンパス

第3章<戦後そして今>戦争の傷を癒しきれない日吉寄宿舎

●参考文献

・『フィールドワーク日吉・帝国海軍大地下壕』日吉台地下壕保存の会 2006

・『証言 太平洋戦争下の慶應義塾』白井厚ほか 慶応義塾大学出版会 2003

・『福澤研究センター通信 第17号』慶應義塾福澤研究センター 2012

・『谷口吉郎著作集』全5巻 淡交社、1981

・『慶應義塾百年史 中巻前、後』慶應義塾大学 1962

・『本土決戦の虚像と実像』日吉台地下壕保存の会編 高文研 2011

・『日吉台地下壕保存の会会報第69号』日吉台地下壕保存の会 2004

・『日吉台地下壕保存の会会報第71号』日吉台地下壕保存の会 2004

・『日吉台地下壕保存の会会報第81号』日吉台地下壕保存の会 2007

・『日吉台地下壕保存の会会報第82号』日吉台地下壕保存の会 2007

・『日吉台地下壕保存の会会報第101号』日吉台地下壕保存の会 2011

・『戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<6>』防衛庁防衛研修所戦史室 1971

・『戦史叢書 海軍軍戦備<2>』防衛庁防衛研修所戦史室 1975

・『伝えたい、街が燃えた日々を』横浜の空襲を記録する会 2012

・『聯合艦隊 草鹿元参謀長の回想』草鹿竜之介 毎日新聞社 1952

●参考ウェブサイト

・慶応大学日吉寄宿舎http://www.hiyoshiryo.com/

・日吉寄宿舎が横浜市歴史的建造物として認定される(慶応義塾)

http://www.keio.ac.jp/ja/news/2011/kr7a43000007xp5e.html

・慶應義塾大学(日吉)寄宿舎(南寮及び浴場棟)横浜市歴史的建造物認定(横浜市)

http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/press/20111014/

http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/press/20111014/pdf/20111014.pdf

・慶應義塾日吉寄宿舎写真 (慶応義塾アーカイブ) http://goo.gl/1ZEdp

・新日吉寄宿舎(旧南寮)ダイジェスト

http://book.geocities.jp/hiyoshiryo1937/shinkishukusha20120421.html

・改修前の南寮の外観

http://book.geocities.jp/hiyoshiryo1937/75kinenshikiten20120512.html

・日吉台地下壕保存の会

http://hiyoshidai-chikagou.net/

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