東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】
東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】
復興で仙台・名取都市圏はどう変わるのだろうか
2013/04/29
伊達美徳
1.仙台空港に何もない風景を見に行く
仙台空港に行ってきた。仙台と名付けながら仙台市内にはなくて、その南の名取市と岩沼市にまたがってある。
ならば、なぜ宮城空港と言わないのか。たぶん、仙台平野にあるからだろう。千葉県浦安市にありながら東京ディズニーランドというがごとしで、あれは東京湾に面しているからだそうだ。
さて、仙台空港駅についたが、べつに飛行機に乗る用事はないのだ。空港を背にしてすたすたと外に出て東に向かう。
外に出てもなにもない、まったくと言ってよいほど、な~んにもないのである。
今日はその何もない風景を見学にやってきたのだ。そう、津波被災地である。仙台平野は見事といってよいほどに3.11津波に洗われた。
特に名取市の北部の閖上地区の消失を、わたしはその当時にメディアでいろいろと見て、息をのんだ。閖上なる地名もユリアゲなる読み方も、初めて知った。
今日やってきたこのあたりは、名取市の南端部の太平洋沿岸で、地名を下増田地区の北釜集落という。
空港の東に海岸に並行して貞山堀という運河がある。伊達正宗が掘らせて17世紀初頭にできたという。背後に空港のエンジンが轟々となる音を聞きながら運河にかかる橋を渡れば、前にはただただ草が地面をおおう巨大な広場である。
(図1)名取市沿岸部の被災前と被災後(google erth)
(図2)
(図3)名取市北釜地区の被災前と被災後
(図4)(図5)
2.あまりにもきれいすぎる被災跡地
ここに2011年3月11日まで、古い農村集落があった。ずっと向こうに見えるまばらな林は、海岸砂丘にあった松林の名残だろう。
集落は大津波で完全に破壊された。波は空港をも浸して機能を停止させた。
いまは集落跡地は瓦礫もゴミもきれいに片づけられている。見渡すかぎり空き地というよりも野原は、ここにちゃんとした集落があったとは、とても思えない。空港用地の一部かと思ってしまう。
眼に見える人工物は、工事の仮設物や駐車場の車を別にすれば、橋を渡った運河脇にあるコンクリート3階建ての建物(後で調べたら東北大学ボート部の合宿所)、右向こうにポツンと一軒の木造家屋、左向こうに数本の松の間に祠のようなもの、これら3つだけである。
(図6)
それにしても、このあまりにきれい過ぎる片づけようはどうだろう。
津波直後は壊れた家屋や塵埃でむちゃくちゃであったろうに、まるで掃除機をかけたようだ。被災直後の空中写真をみれば、何軒かの家は壊れながらも残っていたのだが、あまりにきれいだ。
ここに来る前の2日間は、三陸海岸地域の津波被災地を視察して巡っていたのだが、そこでもそうだった。これって、外国でもそうなのだろうか。それとも日本人はきれい好きなのか。
たいていの津波被災地は、もう住宅を再建することを放棄しているから(個人的にも法的にも)、片づけるのはずっと後回しでもよさそうなものだ。
しかし行方不明者とか貴重品とかの捜索のために片づけたのだろう。あるいは公衆衛生上のためだろう。それはまるで大津波の破壊への怒りが、復讐戦のごとくその跡を消し去らせたようにも見える。被災当事者でないわたしには分りようがない何かがあるのだろう。
(図7)
3.この平地でも社叢林のあった神社が津波に耐えた
橋を渡って野原に踏み出せば、まずは神社らしい疎林に行ってみよう。
むき出しの土の上にコンクリート舗装の長い参道があるから、鳥居や灯篭が立ち並んでいただろうが、消え去っている。参道の先のまばらな木立のなかに10段ほどの石段があり、両側に狛犬1対と灯篭2対(うち1対は新品)があり、ほんの少しだけ高いところに二つの社殿が並んで建っている。どちらも小さくて祠というほうがふさわしい。下増田神社と紙に書いてベニヤ板に張り付けた。急ごしらえの案内がある。
あたりに建物らしいものが何も見えないのに、この祠二つは、まさか津波前のままであったわけではあるまい。しかし流されてしまったのでもなく、壊れた様子も見せずに建っているのは、修復したのであろう。
あとで調べてみたら、WEBサイトに震災前の写真があり、ここに拝殿などもあったらしい。震災後の夏に撮った本殿と脇社の二つだけがある写真
(2011.07.31下増田神社)もあったから、被災した住民たちがいち早く復旧したらしい。
(図8)
(図9)
住宅は破壊されたらいち早く片付けてしまうが、寺社の社殿はいち早く復旧するところが、いかにも日本的というか、興味深い。
それにしても下増田神社は、この真っ平らな野原のなかで、わずかに高くなったところに(それとて周りのとの差は2mもあるかどうか)、小さな社叢林に囲まれて建っていたのだ。その微高地は、神社をここに勘定したときに盛り上げたのだろう。その故に本殿だけでもいち早く復旧できたのだとすれば、3.11津波から被災をのがれた神社が各地に多いという事象のひとつなのであろう。
山裾ならわかるが、ここのような4mもの津波に襲われた平地の真っただ中というのは珍しいだろう。社叢林が効果があったのだろうか。神社の隣に観音寺という寺院があったが、こちらは破壊され流された。そこは周りを囲む森はなかった。新しい本堂らしい建物を建築中であった。
(図10)下増田神社とその周辺の津波被災前
(図11)下増田神社とその周辺の津波被災後
(津波はこの図の上方から)
(図12)
寺の裏には墓地があったらしく、今は野の中に石塔が立ち並ぶので近づいてみる。新しい墓石も多いのだが、傷があちこちについてる墓石も立ち並ぶ。津波の傷跡だろう。
津波は墓石群をも倒して、もしかしたら骨壺も流したのかもしれない。被災直後の墓地の空中写真では、墓石群は見えない。今この形になっているのはいち早く修復した結果だろう。墓碑銘に新しく刻んだ戒名に、あの惨事の日付をいくつか読んだ。
神社本殿といい墓地といい、人間は肉体の棲む家はきれいさっぱり片づけても、心の世界の棲家は消えることを許さない。神社で生まれ育ちながら無神論者のわたしには、なかなかできないことだが、、。
(図13)
4.もしかしたらこの大通りが津波の侵攻を招いたか
海辺のほうにある砂丘のまばらな林を目指して、海に向かって直角につけてある広い道をあるく。その先は砂丘を低く切り開いて、砂丘の向こうの海岸に出ているようだ。
国土地理院サイトの古い空中写真を見ると、この道は1980年代にはまだ開通していないようだから、比較的最近になって作ったものだろう。
この道は津波の侵攻する大通りになったに違いない。まるで集落に招き入れるように、真ん中を貫いている。一般に、海岸に直角になって砂丘を切り開く道路が津波の道になることは、すでに指摘されている。ここには昔からの教訓はなかったのだろうか。
かつては歩くだけでよかったので、曲がった細い道が砂丘の上を越えて海につづいていたのだろう。それが自動車時代となって、津波のことは忘れて、直線で広く勾配のない道をつくった結果が、この惨事となった遠因かもしれない。
(図14)
(図15)名取市北釜地区の昔の様子
(図16)
もうひとつ、自動車時代となっての問題は、空港利用に伴う自動車駐車需要の波がこの集落に押し寄せていることだ。
多くの農家で、広い屋敷地の畑、植栽地、生け垣などをつぶして舗装して駐車場とした。それは農業でない新たな収入源が得られるメリットがある一方で、津波は集落内を円滑に流れやすかっただろうとも思うのである。
道の右にひとつだけが建っている2階建て木造の壊れかけ住宅に、ときどき車がやってきて、降りて眺めては出ていく。もしかして被災地観光コースに組み込まれているのだろうか。
このようにあたり一面がきれいになってしまっては、集落の悲劇を目で訴えるものがない。この住宅は悲劇伝承の役割を背負って、わざわざ残しているのだろう。もしこれが無いと、津波事件を知らないで見るこの地の風景は、ただただ平和な原っぱである。
南三陸町の防災対策庁舎の悲劇がその名とともに有名であるが、いま、鉄骨の悲惨な姿で建っている。記念碑として残すかどうか、地元では論争中だそうだ。
悲劇の当事者に対してよそ者があれこれ言えないが、なにか眼に訴えるものは残してほしいと思う。人間は忘れるものである。あらゆることを覚えているのもかなり辛いことだろうが、忘れて悲劇を招くこともある。
(図17)
5.海岸砂丘の松林と屋敷林(いぐね)は津波を留めなかった
大きな屋敷地の農家の集落だったらしい。かつては、それぞれの屋敷地に家と庭と畑をもっていて、周りを屋敷林(いぐね)が取り囲んでいただろう。
仙台空港ができて、空港線が開通すると住宅地への転換が起きつつあったろうと推測する。空中写真を見ると、最近は屋敷地は駐車場に転換しているのは、仙台空港利用者へ対応する土地利用転換であろう。屋敷林はほとんどないらしいから、津波は容易に屋敷を流しただろう。
野原のあちこちに、大きな石がいくつもごろりごろりとあるのが不思議である。このあたりで出るものではない。たぶん、これは庭石だったのだろう。生垣で囲まれた豪壮な石組を持つ庭園を、それぞれの家が備えていたのだろう。
庭園は造っても、津波除けになる屋敷林がなかったのだろう。
屋敷林に頼らなくても、海岸沿いに小高い砂丘があり、その上には立派な松林が繁っているし、その外には防波堤がある。それで津波には十分対抗できる、たぶん、そういうことだったのあろう。
その防潮あるいは防風または防砂林の低い砂丘にのぼれば、まわりはまばらな松林である。もっと密に立っていたのだろうが、津波は松を倒しながらすり抜けたのだろう。畳が絡んだままになってい、真っ黒に潮焼けした倒木もあった。
松林を抜けると向こうに海が見えると思ったら、工事中の高い防波堤が左右に延々と伸びて視界を遮っている。その堤防の手前には枯れた沢山の松の木が黒々と横たわる。
空中写真では、この堤防と砂丘の間にも家々があったが、もちろん今はなにもない。このあたりでここだけが砂丘の外に家があったのは、どのような事情だろうか。古くから開けた集落なので、海際まで私有地があったということだろうか。この南北の他の海岸部はかなり幅広の防潮林だが、このあたりだけが幅が薄いのものそのせいだろうか。
ここには集落があり、その南北には集落がない。それならばこのあたりだけこそが防潮林の幅が厚くなければなるまいに、それが薄いとはどういうわけか。古くからある集落が、生活圏としての土地利用を広げるために砂丘を崩していったのだろうか。
(図18)
6.新たな海岸森林に津波減災機能を期待する
そのまばらな松林に沿って北に歩くと、突然に自然砂丘の林が消えて、その先には人工の赤い盛り土がとてつもなく広がっている。そばに工事看板があり、「治山工事 発注者 東北森林管理局仙台森林管理署長」などと書いてある。治山工事とは、その名のように山の中でやるものだと思っていたが、このような海岸平地でもそういうのであるか。
どうやら、津波で倒されてしまった今までの砂丘の松林をすべて撤去して、これまでよりも広く高く土を盛りあげて、人工の砂丘と森林を作り直していいるらしい。
森林管理局とは、農林水産省のお役所らしい。さきほどの防波堤工事の看板には、発注者は「国土交通省東北地方整備局仙台河川国道事務所海岸課」とあった。ということは、いちばん外の堤防は国交省が、そのすぐ内側の盛り土の森林は農水省が、それぞれ造るという役割分担であるのか。
それらは一体となって津波を防ぐのなら、設計を統合してあるのでしょうね。縦割り行政の典型で、こんど津波が来てなにか事故があったら、互いに国交省堤防のせいだ農水省森林のせいだ、などと言わないようにね。
(図19)
ところで、新たな治山工事の砂丘にもクロマツばかり植えるのだろうか。でも、今度の津波でまったくもってほとんど役に立たなかったような気がするのだが、どうなのだろう。津波除けでクロマツを植えていたのではない、潮風や飛砂除けだったのだといわれれると、そうですかというほかない。
陸前高田で奇跡の一本松が評判になっているが、あれこそご自慢の松林が全滅して役に立たなかったことのシンボルツリーのように、わたしには思えるのだ。被災前の写真を見ると、高田の松原は高木層の松ばかりで中層や低層の植栽が一切見えない。一般に自然遷移が起きるから、広葉樹が林内に生えてくるから、松のみが立つ自然林はありえない。人間が手を入れて中木層や低木層を全く排除した林だったようだ。つまり白砂青松という日本人が大好きな風景としての松林をつくっていたのだ。松は下半身を覆う広葉樹がない裸のままに立っているから、津波は通り抜けやすいし、波が直接に当たるから折れやすいだろう。
(図20)
昔は松林の落ち葉や掻きとり、枯れ木や低層木を持ち帰って家庭の燃料としていたから、それ自体が手入れとなっておのずから裸松の立ち並ぶ林であり、海岸べりは白砂青松となっていた。プロパンガス、オイル、電気エネルギーの普及でそれは必要でなくなったが、長年の習慣で裸松が好きになってしまった日本人は、それを風景として保つための手入れをするようになった。そこに千年に一度の大津波がやってきた。
わたしが住む神奈川県の湘南海岸の防砂林では、松の高木層の下にある常緑樹の中木層も低木層も伐採せずに育てていて、かなり密度が高い林となっている。わたしは植生のことも津波のこともよく知らないが、素人目には湘南海岸のような樹林密度が高いと、津波への抵抗力は疎林よりも強そうである。 新たな海岸森林づくりには、津波減災の機能も取り入れるのだろうか。
(図21)
7.集団移転は名取市の都市構造をどう変えるか
名取市ではこの北釜地区を含む下増田地域を、広範囲に災害危険区域に指定した。北釜の集落の被災住民たちは、もう少し内陸の「りんくうタウン」のあたりに集団移転することにしたそうだ。これで伝統ある集落は完全に消え去ることになる。
三陸地方と違って、こちらでは高台造成の必要はないが、りんくうタウンの中に移転するとしたら地価が高いだろから、被災した都市計画市街化調整区域の北釜の土地との価格差がなかなか大変であろうと思う。それは北釜地区被災者に限らない。
だが、たぶん、集団移転先は「りんくうタウン」の区画整理事業区域に接した、市街化調整区域を開発するのだろうと思う。高台移転ではないから造成費も比較的かからないだろう。価格差は少なくなるかもしれない。
(図22)名取市復興計画における北釜の移転先
わたしには個別の移転問題はよくわからないが、仙台と名取の都市計画上のこれからの動きが気になる。
「りんくうタウン」の整備は、空港アクセス鉄道敷設のための用地取得という目的が強い県指導のプロジェクトであったようだ。立地的には仙台の郊外、名取市の市街地縁辺部である。
これの事業を組合施行として成立させるために、巨大なショッピングセンターを誘致したので、仙台や名取市の中心市街地の商業にかなりの影響を与えているようだ。2007年の街びらき以来、リーマンショックなどで必ずしも用地販売は円滑ではないらしい。
北釜地区の集団移転先は、りんくうタウンの外縁部の農地を充てるとの報道があるから、そのほかからの集団移転も同様になってくるとすれば、りんくうタウンの拡大である。
ここにきて3.11災害による人口移動が始まった。これがりんくうタウンにどう影響するだろうか。そしてそのことは仙台や名取の市街地にもどう影響するだろうか。まだ詳しいことはわからない。
こうしてみると、前から私が提唱する復興計画のひとつに、集団移転先整備や災害公営住宅の整備を母都市の中心部で行い、空洞化する中心市街地の再生と結びつけるという都市計画的な手法は、名取に限らず現実には地価差、復興スピード、市民コンセンサス形成等であまりに難しそうで、絵空事らしい。(2013/04/29)
関連ページ
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
・東北に大津波被災地を訪ねて【東松島・野蒜】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama
・地震津波原発コラム集
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
・森の長城づくり 瓦礫ゴミを積んで緑の森を
https://sites.google.com/site/dandysworldg/greatforestwall
・震災核災3年目(その1)復興計画の向こうにある次の災害への対策は
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme
参考資料
・名取市震災復興計画
http://www.city.natori.miyagi.jp/fukkoukeikaku/node_13268/node_14152
・名取市災害危険区域
http://www.city.natori.miyagi.jp/content/download/17501/105787/file/kuikizu.pdf
・東北地方太平洋沖地震における津波被害と海岸林の状況
~仙台平野(福島県、宮城県)における海岸林被害状況調査結果~
埼玉大学大学院理工学研究科・(兼)環境科学研究センター
http://www.sasappa.co.jp/shokusei/pdf/Disaster_area_status2.pdf
・今後における海岸防災林の再生について
(東日本大震災に係る海岸防災林の再生に関する検討会)
http://www.rinya.maff.go.jp/j/tisan/tisan/pdf/kaiganbousairinsaisyuuhoukoku.pdf
・北釜暮らしの資料館
・日刊建設通信2013.4・28「下増田の集団移転 月内にも事業申請(名取市)」
http://www.jcpress.co.jp/wp01/?p=7737