東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜】(その1)
自然と人間はどこで折り合って
持続する環境を維持できるのか
伊達 美徳

(2012年11月11日 宮城県東松島市東名駅近くの跨線橋の上から)

●仙石線に乗って東へ
  東北被災地に行ってきた。自分で写したこの写真(上、図1)の水没する風景にショックを受けたのに、どこで撮ったのか正確には分からずに、あれこれ地図や航空写真でようやく判定した。
 宮城県東松島市の野蒜地区、JR仙石線の東名駅近くの跨線橋の上からである。田畑も街も、あれから1年8か月たっても、いまだに海に占拠されたままだ。
 実は向こうに見える山は海を隔てた島であるから、この一帯は海に戻ってしまったのか。

 仙台から石巻までJR仙石線に沿って地震津波被災地を瞥見してきた。(図2)
 まさにホンの短時間の瞥見でありながら、ネットや新聞等の写真で見ていた被災地風景を実際に眼で見て、ずいぶんと考えることがあった。
 仙石線は途中が未開通で、代行バスでつないでいる。バスルートでは被災の様子をしっかりと眺めることができた。仙台から行くと松島海岸駅で降りて代行バスに乗り換える。

 あの日本三景のひとつとして有名な松島はここであるのか、さぞ被災で観光も大変なことになってるだろうと思って降りてみると、意外というか幸いにも被災の様子は見えない。
 駅前はどこの観光地に共通するいかにも通俗的な猥雑な風景(図3)が健在だし、観光客もたくさん歩いている。観光船も出ている。
 ここには津波が来なかったのかと思いつつ、待ち受ける代行バスに乗り、東に向かって再出発する。

●これは海か陸か
ところがちょっと小高い峠を越えてまた平地に下り、東名運河に沿った道をバスは行くのだが、東名駅のあたりから風景が一変してきた。
 まわりの集落は、津波が通り抜けたらしく開口部がことごとく破れた家々がある。あれから1年8か月だから、倒壊家屋や瓦礫廃材はほぼ片づけられているが、それだけに草の生い茂る跡地や廃屋が目立って、痛々しい風景である。(図4)

 列車の通らない東名駅近くの線路をまたぐ陸橋の上にきて視界が開け、向こうは海かと思うような広い水面が広がる。(図1)
 だが、水面に家がポツリポツリとあり、田んぼのような区画線も見える。どうも海ではなく、津波でやってきた海水がいまだに引かないらしい広大な宅地か水田のようだ。

 実はこのあたりは初めて来たので、まったく土地勘がない。このあたりどころか東北地方に土地勘がない。
 少年時代は東北とは本州の真反対に位置する中国地方の小都市で暮らし、長じて関東に住んでも、仕事の縁は東北地方にはほとんどなかった。
 これから書くことも、もどってから調べた知識で、見てきたことを補強している。

●松島の自然が津波被災を軽減した
 被災地を自分の眼で見てきたいと思いつつも、どうも行きそびれていて、仙台で震災復興関連の「森の長城プロジェクト」ボランティア募集(図5)に応募してようやくやってきた。
 その活動の一日をさぼって出かけての被災地見学である。

 松島の観光地が全く被災していないと見たのは、もちろん誤りだった。その松島湾内の松島町にも塩竈市にも津波はやってきて、1階あたりはしっかりと水没したそうだ。
 それなのにどちらの街にも目で見たところの被災の様子がないのは、津波が緩やかにやってきて水面が徐々に上がったので破壊が少なく、水が引いたのちに比較的復旧しやすかったからだそうだ。もちろん地震と津波の被災はしている。

 そのような緩やかな津波であったのは、松島湾の海側を取り囲むように名勝松島を形成する島々が連なり、それらが盾になって津波のエネルギーをそいだからだそうだ。
 そのことはウェブサイトに書いてあるし、仙台の人からも聞いた。空中写真を見ても、それがよくわかる。(図6)
 つまり名勝の自然地形が被災を軽減したのである。いわば自然地形が観光資源であったがために保全されて、それに救われたのである。
 では、ほかの大被災地の地形はどうだったのだろうか。

●東松島は巨大津波で大被災
 そのすぐ東隣の東松島市の東名駅や野蒜駅あたりの、あまりにものすごい被災状況との違いは、いったいどうしてだろうか。
 それは空中写真や地図を眺めてわかったのだが、東松島は湾の東の外にあって海には島はない。津波は強力なエネルギーをもって、いきなり野蒜海岸から上陸してきたらしい。
 さらに、こちらは遠浅の海を干拓して、宅地や田畑を造成しているところで、そのエリアが津波の襲われている。昔の海岸段丘の上や、島であったところは津波から逃れている。

 松島湾内地域とその外とは被害に大きな差があるのは、どうやら自然地形に近い土地利用と、海面や低地の埋め立てによる人工の土地利用の故のようである。
 そこで冒頭の、海のようになった被災地の写真(図1)
に話を戻す。

 そこは東松島市東名地区といい、松島湾の東の付け根あたりの島々を間を埋めて造った陸地であるらしいことは、空中写真を見てその地形が幾何学的なことで分かる。
 津波前(図7)と後(図8、図9)を比べると、あまりに違いに息をのむほどだ。大干拓地の田畑は、海そのものとなっている。
 このあたりは昔は海だったのを人間が埋め立てた。今回、その元の持ち主の海が取り戻しに押し寄せてきて、そのまま居座ったのか。

 いろいろ調べてみると、このあたりは古代から塩田開発をしていたようだ。松島湾の西にある塩竈神社が、塩作りの神様であったように、この地域はかつては塩田があったらしい。
 東名でも遠浅の海を埋めて塩田を作り、それが今は田畑や宅地になったのだろう。塩田は海の水を引き込むから、当然のことにその標高は海に近いから、その跡地は津波に飲み込まれると海水が引かないことになる。

●野蒜は人と水の戦いの歴史
  東名駅の次が野蒜駅である。野蒜といえば、有名な明治政府の築港の歴史の場である。わたしは知識で知ってはいたが、ここにあると初めてわかった。(図6 右方)
 明治政府が、東北開発のために野蒜港を造ったのが1882年、巨額な投資をして難工事の苦労の末だったが、翌年に台風による大水害で破壊されてしまった。(図10)
 その後は明治政府はこの野蒜築港も、関連開発計画の続行も放棄してしまう。今は鳴瀬川河口あたりに築港跡と、同時に掘った東名運河を遺産としてみることができる。(図9)
 この地域の水と陸とのせめぎあいは、今回の地震津波だけではなく、長い歴史的な積み重なりの上にある出来事のようだ

 そうやって古代から、自然による水の世界と人間による陸の世界とで、はてしない陣取り合戦が続いている。

 ところが、このあたりは多くの縄文遺跡があるそうだ。それらはいずれも海岸や河川の段丘上にある。そこから水に降りて漁労をやっていたのだろう。
 縄文人たちの人間の世界は、自然の水の世界と互いに折り合いをつけあっていたと言える。現代のように埋め立てして護岸に守られる平地に居たのではない。

 近代になって埋め立てや堤防づくりなどの工学的技術が進歩して来ると、人間の陸の世界が優勢になって、自然の
水の世界を押しのけてきていた。
 そんなところに突然、自然のほうから大津波で水の世界を取り戻しにやってきた。そして今、人間が惨敗している。
 何百年か何千年かのスパンで、自然の世界はたまったツケの請求書を持って、陸を水に返してちょうだいとやってくるのである。
 でも、人間はもっと短くしか生きていないから、借金を忘れてしまっている。だから、「災害は忘れたころにやってくる」のである。
 今回の災害は、人間からいうと災害だが、自然の側からいうと元の形に戻そうとしただけのことということになる。

 ところが、そのツケのあまりの大きさに驚いた人間は、水の世界だった埋め立て平地から退いて、かつての縄文人が暮らしていた台地の上に移転することにしたらしい。
 東松島市が2011年末につくった野蒜地域の復興方針を見ると、まさに北にある台地の上に、街も鉄道も移すように描いてある。(図11)

 そこは縄文人たちが暮らしていた遺跡があるから、どうやら現代人もそれを見習って、自然との折り合いをするらしい。
 しかし、人間はいったん自然の水の世界から獲得した埋め立て平地を、そう簡単には還すことはしそうにない。水に再占領された平地には、周りに高い堤防を造って、また田畑や産業地に復旧するらしいことを方針図に描いている。
  まだまだ陸と水の戦いは続く。だが、日本の今の人口減少時代は、かつての人口増加時代における食糧増産のための土地確保とは様相が変わるだろう。どう変わるのだろうか。

●繰り返す集団移転の教訓は縄文へ
 ところで、東松島市の東のほうの海岸部に飛行場が見える(図6右上)。ここは航空自衛隊の基地だそうだ。
 ここにも当然に津波が押し寄せてきて、戦闘機などをプカプカ流して壊してしまった。何千億円かの損害だそうである。海は、埋め立てた飛行場も取り戻しに来たのである。

 この基地は1938年にできている。当然のことにそこの地権者や住人を他に移転させている。さらに周辺への騒音問題での集落の集団移転をしている。

 そう、この地域では今回の台地上への集団移転よりずっと昔に、すでに集団移転を経験済みなのであった。
 そればかりか、明治政府の行った野蒜築港事業でも、おおくの集落が移転しているのであった。皮肉というか興味深いのは、野蒜築港で形成しつつあった市街地も、その後の飛行場建設で集団移転の対象となったらしい。
 その繰り返しがこの地の人々にどう影響したのだろうか。今回の移転になにか教訓をもたらしているのだろうか。それが縄文時代に還る高台移転なのだろうか。

 人間のこんなことまでもできるという極致のような空飛ぶ技術をもってしても、航空自衛隊の飛行機は津波から逃れて舞い上がることはできかったらしい。
 空を飛ぶ以上にものすごい技術は、原子力発電所のような、核の制御だろう。これも自然が取り戻しに来たのか、大事故になってしまった。
 人間と自然が、縄文人たちのように折り合いながら生きていくすべを、わたしたちはいったいどこに忘れたのだろうか。それはもはやできないレベルに人間は来てしまったのだろうか。

 (2012.11.26)
【野蒜その2】へ

●参考にした主なWEBサイト・ページ
・街道をゆく ~嵯峨散歩 仙台・石巻~ 「東名運河」
・街道をゆく ~嵯峨散歩 仙台・石巻~「野蒜築港(その1)」
・東松島市復興まちづくり計画
・野蒜築港に関する取り組み(土木学会東北支部)
・東日本大震災の被害 宮城県東松島市市民生活部長 大友 利雅
・市報 ひがしまつしまNo108 特集 地域農業復活へ新たな挑戦
・貞山運河の魅力再発見協議会
・3.11 東日本大震災 航空自衛隊松島基地 津波到達時映像

●関連する伊達美徳のウエブページ

691【東北被災地徘徊譚2】森の長城市民プロジェクト
・689【東北被災地徘徊譚1】石巻で映画「猿の惑星」の主人公に
・地震津波火事原発コラム

 
(図1)
東松島市野蒜地区


(追記20130304)
上の写真とちょうど反対方向からパノラマ写真を撮った人がいる
http://gigapan.com/gigapans/121827/

(図2)
東北被災地瞥見地図

 
 
 
(図3)
松島海岸駅前風景

 
 
 
 
 
 
 
(図4)
東松島市東名運河あたりの風景

 

 

 

 

 

 (図5)
森の長城プロジェクト
どんぐり拾いツアー

 

 

 

  

(図6)
松島湾とその周辺空中写真
2011年4月6日被災5週目
(google earth)





















(図7)
東松島市野蒜地区の
被災前の空中写真(2004.7.18)
(以下3枚いずれもgoogle earth)

(図8)
上と同じ位置の被災直後
(2011.3.12)

(図9)
上と同じ位置の被災13か月後(2012.4.12)
(図1)はこの画像の矢印の位置から撮った




(図10)
 野蒜築港の計画図

これには松島湾(左上図外)と築港(右の内港)を結ぶ東名運河を描いてないのは、それが当初計画外であって後から追加されたからだろう

陸前国桃生郡野蒜港近傍測量明細絵図:仙台市民図書館・東北大学付属図書館所蔵)
























(図11)
東松島市野蒜地域復興方針図(2011年12月)




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