麻布我善坊谷風景今昔譚
(その3)
<徘徊人>まちもり散人(伊達美徳)
5.我善坊の谷底と丘上の昔
◆我善坊谷ほぼ全部をカバーする再開発準備エリア
我善坊谷の両側の丘は緑の稜線ではなく、北の崖上には仙石山テラスという森ビルの再開発事業による超高層ビルやら、そのほかの開発による超高層オフィスビルやら共同住宅ビルが建って、この谷間を睥睨している。
その姿は、丘の向こうにやってきたゴジラが、これからこちらの谷に足を踏み出そうとしているスケールである。そうか、ゴジラじゃなくて森蛭が巣食っているのだな。このあたりから北にかけて虎ノ門あたりまでの一帯は、森蛭・森虎兄弟がはびこるショバであった。この谷底もそうであって当然だろう。
森ビルのサイトを見たら、やはりこの谷底地にも既に法定の市街地再開発準備組合を発足させているのだった。アークヒルズ以来連綿と続けている森ビル流の市街地再開発事業をやるのだろう。
下図は森ビルのサイトにある周辺開発状況図で、この下のほうにあるピンク色塗りエリアが再開発エリアであるらしく、西のほうを除いて我善坊谷のほぼ全部をカバーしている。
このエリアには、空き家が多いが空き地は比較的少ないのは、それらの撤去や整地の工事費に、市街地再開発事業による公的補助金をつぎ込むほうが、採算的に得だとみているからだろうか。
その法定再開発事業がいつ認可になるのか知らないが、再開発を待っているらしい古ぼけた家屋が立ち並び、空き家には緑の蔦が生い茂る谷底の風景は、丘の上が現代風の巨大ビルになっていることと比べると、もしかしたら今や貴重な江戸東京風景であるかもしれない。
ということは、この路地の風景も賞味期限は残り少ないのだろう。消える前の残照を、生きているうちに鑑賞できて良かった(それほどでもないか)。わたしは感傷的になるのではなく、今この姿をここに記録しておこうというだけである。(現代地図はこちら)
◆我善坊丁は江戸警察官舎の街
それにしてもこの谷間の風景は、1945年の東京空爆で一度は燃えて消えたのだろうが、街の構造は江戸の街から続いているような気がしてきた。
1947年9月撮影の空中写真を見ると、1945年3月の東京大空襲の焼け野原の中で、この谷底街の西3分の1くらいは焼け残ったように見える。
この町の歴史をちょっと調べたら、江戸時代は「我善坊丁」と記してあり一般に「我善坊谷」とよんでいた。明治になって1872年に「麻布我善坊町」と町名をつけたが、この時の戸数は46、人口233、物産に皮鼻緒があった。戦後の1974年に町名変更で「麻布台1丁目」になった。(角川地名大辞典)
江戸の切絵図を見ると、この谷底の地は「御先手組与力同心大縄地」と記されている。「御手先組与力同心」とは、今でいう警察官の役割を持つ下級武士で、奉行の下に与力がいて、与力の下に同心がつく。大縄地とは集団用地であり、その与力同心のグループは谷底の地を一括して与えられたようだ。
ここの警官隊は「鉄砲(つつ)組」だったそうである。江戸時代にはこの谷底の街は、鉄砲隊の警官社宅群だったことになる。
与力同心大縄手なる書き込みは処々にあるから、警察の管轄する機能とエリアごとの集団が、それぞれ軍団をつくって住んでいたらしい。
◆谷の南北両側の台地上は広大なお屋敷町
ところが、この両側の台地の上は、谷底街とは極端に異なる大きな地割である。大きな地割だから、再開発をしやすかったので大規模な建物群が建つことになった結果が今の風景である。
江戸切絵図を見ると、南の飯倉台地には出羽米沢藩上杉家が、北の千石山台地には陸奥八戸藩南部家と但馬出石藩仙石家が、それぞれ中屋敷や上屋敷を構えていた。
いずれも谷底の下級武士の短冊土地とは比べ者にならない広大な敷地である。
谷底街と台地街との間には、なんの関係も交流もなかったに違いない。いまも上下をつなぐ道が極端に少ないことに現れている。
1876年制作の明治東京全図には、北の台地には大きな屋敷地があり、仙石正固と記されている。この人は但馬出石藩の最後の殿様だったから、明治になっても元の上屋敷に住んでいたのだろう。
その隣には静寛院宮とあるは、将軍徳川家茂の奥方だった人である。つまり皇女和宮で、公武合体の政治の渦に巻かれたひとで、若くして夫の家茂に死に別れてから、この地の陸奥八戸藩南部家に住んでいた。
反対の南の台地には、伊東祐亨とあり、初代連合艦隊司令長官を務めた人である。
丘の上には大きな屋敷に貴賓が住み、谷底には貧民だったかどうか知らないが、庶民が身を寄せる様にして暮らしている。
これは人が変わっただけで、江戸時代と同じ社会構造であったろう。丘の上と下は社会的にあまりに格差があり、何の関係もなかったようだ。
その姿はそのまま現代の都市景観となって引き継がれている。
6.我善坊谷の住人たち
◆永井荷風が通った我善坊谷
江戸時代は下級武士の住まいと分かったが、特定の人名までは分からない。もしかしたらなにかの捕り物の時代小説に、ここの街と人が登場しているかもしれないが、わたしは知らない。
昭和のはじめ、我善坊谷の東の端に住んでいた、ひとりの女のことがわかる。あのスケベで徘徊好きな小説家の永井荷風(1879-1959年)が身受けして囲った、若い芸者上がりの女である。
前に谷の上と下とは交わらないと書いたが、もう80年ほども前のことだが、この谷間の街と丘の上の街とを、ちょっとだけ交わらせたのが荷風散人であった。
永井荷風は1920年5月から1945年3月の空襲まで、北の台地の西のほうの麻布市兵衛町に、「偏奇館」と名付けた家を建て住んでいた。偏奇のいわれは、木造洋風下見板の洋館風の建物で、外壁がペンキ塗りだったことによるという。
1927年、丘の下の我善坊町を東に抜けたところある西久保八幡神社のふもとの裏路地に小さな家を借りて別宅を持った。「壺中庵」と名付けて、身請けした芸者だった女を囲って、本宅とここを頻繁に行き来していた。荷風48歳、女は22歳であった。
荷風は30歳代に2度の結婚と離婚をしたあとは身を固めるのをやめたから、今風でいうところの不倫相手ではない。愛人というところか。「独り我善坊の細道づたい」(『断腸亭日乗』1927/10/21)に通う、平安時代の貴族の男のようであった。
「此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る」(『断腸亭日乗』1927/11/08)
荷風は有名小説家だし、女遊びも盛んで、硬軟いろいろな来客が本宅にやってくる。会いたくない人がくると裏から逃げ出し、丘を下って別宅に隠れた。
多分、我善坊坂をトコトコ下ったのだろう。別宅は憩いの隠れ家であり執筆の場でもある。そこからまた女を連れて繁華街に遊びに出るのであった。
もっとも、4か月ほどで女が店を持ちたいというので、三番町にあった待合を買って経営させるようになったので、壺中庵は引き払って荷風も我善坊谷には用が無くなった。
玄人女性遍歴の多い荷風だったが、この26歳も違う女とはうまくいっていて、死に水を取ってもらおうかと思っていたほどだが、4年あまりで突然に奇妙な別れ方をする。
ある日のこと、壺中庵を訪ねた荷風とともにタクシーで遊びに出ようとしたら、女が突然に気絶、病院に運んでしばらく入院したのである。ところが医者は不治の精神障害だと診断し、戻った女の日常挙動もおかしいので、荷風は仕方なく別れたのである。
別れるにあたって、荷風は未練がましい思いを何度も綴っている。金銭的なごたごたもあったらしいが、とにかくきれいさっぱりと別れた。
荷風はこの女のほかにも玄人女たちとごたごたしているが、別れるときはいつもお抱え弁護士を間に入れて処理している。親の遺産の利子で暮らしている金持ちなのに、いや、だからこそか、金銭にはきちんとした人だったらしい。
偏奇館と壺中庵の位置
◆囲った女に騙された荷風先生
これで我善坊谷あたりと荷風の物語は終わるのだが、面白い後日譚があるので書く。
それから半世紀あまり後の1959年、雑誌「婦人公論」にこんな記事が載った(これはネット徘徊で知った)。筆者は関根歌、つまり荷風が我善坊に囲って別れたその人である。わたしは物好きにも県立図書館にこれを読みに行った。
「……。そんなことがあってから、私は仮病を使って日本橋中洲の病院に二ヶ月ほど入院しました。……私が気ちがいになってしまったと先生はほんとうに信じこんでいたようです。私自身としては、そうでもしなければどうしようもなかったのです」(関根歌『婦人公論』昭和34年7月号「日陰の女の五年間」)
女が書いている「そんなこと」とは、荷風の女癖の悪さとか性的変態趣味のことである。本当の理由はともかく、別れたくなって仮病を使って荷風をだまして、別れに持ち込んで成功したというのである。
ところが、まだ続きがある。
わたしの本棚に『荷風全集第20巻』(岩波書店、1972年)「断腸亭日乗2」があり、上記の事件がこの巻に当たる。読もうと取り出したら、「月報」がはさまっていて、その記事に「丁字の花」という一文があり、筆者は関根歌とある。
昔を思い出して懐かしがっているし、戦後にも荷風に会ったと書いている。そしてここにも別れた事情を書いている。
「あの日記に書かれていることは、わたしが知っている限りみんな本当のことだと思いますが、ただひとつ、わたしにとって心外なのは、わたくしを気狂い扱いにしている件りです。産婦人科のお医者様の診断を鵜呑みにされていたことを知って、戦後お目にかかりました時に、その旨お恨み申しましたら、「どんな立派なお医者さんにも誤診はあるよ。それより今元気なのが何よりです」と言って、笑われました」
ここで彼女が言うには、精神障害だったとは医者の誤診であり(仮病ならばそのとおりだが)、気を失ったのは、その日に大森に遊び(浮気をほのめかしている)に行って昼酒を飲んで帰ってきて、荷風にばれないように息をつめているうちに、酔いが回りすぎて倒れたのが発端だったという。つまり仮病ではないというのだ。
まあ、どちらにしても、女が別れたくなってひと芝居を打ったらしい。女は本当に医者に誤診させるほどの名演技だったのか、あるいは医者とグルであったのか。
荷風が本当に医者の誤診を信じたのかどうか、待合の女将になってカネのかかるようになった女と縁を切る仕掛けだったのかどうか、荷風日記に書いている愁嘆の言は本当なのかどうか。
遊び人文士と芸者上がり女との虚虚実実の、まさに『腕くらべ』(1916~17年作)であったのかもしれないと、下世話などうでもよいことだが気になる。
◆文士たちの我善坊谷
永井荷風のゴシップ話が長くなったが、我善坊の谷底街には、二人の文士が居たことがわかっている。岩野泡鳴(1873-1920年)と正宗白鳥(1879-1962年)である。
わたしはこの二人の名前くらいは知っているし、うちの本棚の文学全集のなかにもあるのだが、全く読んだことがないので、ネットにひっかかったことだけ書いておく。
白鳥と泡鳴とは同時代で文壇での親交があり、共に自然主義文学の系譜であった。永井荷風は文壇嫌いだったから、二人とはどうだったのだろうか。
岩野泡鳴は、1916年(37歳)から1920年(41歳)まで麻布我善坊町10番地に住んだ。父親が取得した下宿屋兼住まいを相続したのであった。ただし、彼の書いた自伝的私小説を読むと、その期間中にどれくらい住んだのか分らない。無頼の文士は、何やらごたごたした家庭であったらしいが、その間に精力的に創作活動をしている。
正宗白鳥は1916年から麻布我善坊町10番に住んだとあるが(『時事新報』大正5年9月8日号「文芸情報」)(注)、これは泡鳴と同じ番地である。泡鳴の下宿屋だったのだろうか。
白鳥がいつまで我善坊に住んでいたかは、調べがついていないのだが、「我善坊より」、「我善坊にて」という作品がある。
泡鳴と白鳥の我善坊における暮らしについて知るには、二人の作品を読まなければなるまいが、そこまでやるのはめんどくさい。
(注):この件は下記ネットページに記載がある孫引きである
http://libopa.fukuoka-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10780/416/1/uryu_41_1.pdf
(つづく ◆麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その4))