渋谷駅20世紀開発の再開発時代

渋谷東急文化会館の変身は戦後文化の変転のエポックか

伊達美徳 2012.05.07

渋谷駅の東側の広場を隔てて、「ヒカリエ」なる妙な名前の巨大建物ができた。ここには1956年にオープンした「東急文化会館」(坂倉順三設計)が建っていた。プラネタリウムが有名であり、当時はもっとも栄えていた映画の上映館が4つもあったビルであった。
その開館の次の年、わたしは少年時代を過ごした小さな田舎町をようやく抜け出して東京の大学生になった。渋谷がいちばん近い繁華街であったので、まさに都会の文化の殿堂のような気がしたものだ。
プラネタリウムにも映画にも行った。どの映画館だったか覚えていないが、東急文化寄席なる演芸もやっていた。ホール落語のさきがけだった。

そのうちに映画は衰退し、プラネタリウムもあちこちにできて珍しくなくなった。東急文化会館に入ることも永らくなかった。そして渋谷は西側のほうが奥深くへ繁栄しだして、ますます東側には用がなくなった。文化需要も東急文化村や、その奥の観世能楽堂などで対応するようになった。10年ほど前だったかその閉鎖が報じられて、取り壊されて巨大な空き地となった。

1950年代から戦後高度成長期の終わりを象徴するような気分で、東急文化会館の欠けた駅前風景を見ていた。
そして2012年5月、新ビルが「ヒカリエ」と名づけて開館した。新しもの好きだからさっそく行ってみてきた。

といっても、買い物には興味がない。この地の発祥となる文化はどう継承すのだろうか。今度のビルの中身は、低層部はショッピング、中層部はミュージカル劇場と多目的大小ホール、上層階はオフィスである。この機能的な違いを建築の外観に表したらしいが、ちょっとピンと来ない意匠である。
ミュージカル劇場はまだだったが、多目的ホールでは、市川亀治郎大博覧会とある。亀治郎が猿之助を襲名するとて、その記念展示である。狐忠信の四の切りの舞台装置の書割をそっくり作ってあって、舞台裏を見て面白かった。
もともと客席から見る歌舞伎の舞台装置は、近くでよく見るとあまりにペらぺらさで、笑いたいほどなのだが、こうして舞台の裏表にあがってしげしげと見ると、表の眼くらましの華やかさを支える裏も、こんなにぺらぺらベニヤ細工の貧弱さなのであるか、さもありなんと笑った。
 そして表舞台と舞台裏という譬えや、「書割のような」という貧弱さの譬えを、なるほどとも思った。ケレンの仕掛けもこうしてみてしまうと、仕掛けがアッというものではなくて、役者と裏方の重労働で成り立っていると分った。
 能の舞台のようになんにもなくて、観客が頭の中に舞台装置を描かなくてはならないのは大変であるが、こうして華やかな御殿でも遊郭でも塗り絵の玩具のような装置で、観客にそう思わせてしまうのも別の意味で大変なものである。出を待つ役者が書いたのか、台詞が落書きしてあって楽しい。
 さて澤瀉屋もどさくさと大変なようで、松竹が支配する歌舞伎界で、異端の猿之助歌舞伎はこれからどうなるのだろうか。

 映画館からミュージカル劇場へと時代の文化がとってかわったということだろう。東急BUNKAMURAとどう違いをつけるのかと思うが、文化施設の内容はそれほど差はないような気がする。出し物で差をつけるのか。
 景色を眺めたいわたしには、ありがたいことに大きなガラス窓のホワイエがある。もっぱら高いところから外を眺めていた。
 渋谷駅の歴史を思うと、ずいぶん変わったものだが、まだまだ変わりつつある。東横デパート(東急百貨店)は、JRと地下鉄の渋谷駅ををまたぎ、更に渋谷川をまたいでいる。渋谷の谷底によくまあ、こんな無理して建てたものだと思う。五島慶太のごり押しの結果だろう。

そして更に渋谷の変転はこれから続く。東横線が駅前広場の下の地下鉄副都心線に直結するので、現在の東横線渋谷駅はなくなるらしい。また、地下鉄銀座線も、百貨店の中から駅の東側に移動させるらしい。
 そうなると巨大な駅跡地ができるのでこれをなんとかしよう、3つのビルをつないだ蛸足の東急デパートも何とかしよう、てなことになる。でも、東横線駅も百貨店東館も渋谷川をまたいでいるので、昔ならともかく、いまどき河川敷の上に建物を建てることが許可されるのだろうか。既得権があるというのか。
 シブヤの民間の開発計画は、これまでにもいくつも描かれてきた歴史があるようだ。さて20世紀の開発は終わりを告げて、ヒカリエが21世紀開発の出発であろう。21世紀の渋谷の谷間は、超高層ビルで埋め尽くされるのだろうか。
 自分の人生のなかでは渋谷の半世紀も、東急文化会館がくるりと回ってヒカリエが現れた歌舞伎の書割の舞台のように思えてしまうのである。渋谷駅の回り舞台の次の場面を、わたしが見ることはもうない。(2012.05.09)