【東京路地徘徊】麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その2)

3.我善坊谷の北側の風景を鑑賞しつつ行く

◆落合坂から枝状に路地が派生するがどれも行き止まり

この谷底街を東西方向に貫く幹となる落合坂から、東西方向の左右に枝となる幅1間足らずの路地が何本も出る。

落合坂に面する各宅地の形は、間口が狭くて奥行きが深い短冊状なので、宅地の奥にも何軒も住宅が建っている。短冊をいくつかに切って使っている。そこにアプローチするために路地ができたのだろう。

その路地の奥行き長さ10~20メートル程度で、南北ともにそれぞれ飯倉台地と仙石山の崖下に突き当たって、行き止まりになる。

この路地の奥から台地の上に登ることができる坂道は、北に我善坊坂、南に三年坂という名の坂道が、南北それぞれ一か所しかない。階段でも急坂でも技術的にはつながりそうなものだが、要するに歴史的に上下の街をつなぐ土地利用の必要がほとんどなかったのだろう。

その谷底と丘上との社会的乖離の事情に、おおいに興味をそそられる。

谷底の街並みは、木造家屋やアパートが多いが、建ててから年数の経ったような共同住宅ビルもいくつかある。

なお、谷の東西の出口あたりに高層のビルが集まるのは、放射2号と桜田通りの広い道路があることと、その道路沿いの都市計画による容積率が谷の中よりも高いことによる。

◆東に行くほど空き地空家が目立つ

わたしは西側から入って東に抜けたのだが、だんだんと人の気配が無くなって、東に寄るほど空き家、空き地が多くなってくる。たいていの空き家には、「立ち入り禁止、巡回監視中、森ビル」との貼り紙がある。森ビルが買い取ったのか、それともなにかの都合で管理しているのか。

空き家のままにしておく理由で考えられることは、法制度による市街地再開発事業をおこなうので、事業前に取り壊すよりも、事業が始まって壊すほうがいろいろと都合がよいということかもしれない。

実は後で調べたら、この地区には市街地再開発準備組合が結成されているのであった。どのような街になるのかまでは分からないが、アークヒルズや六本木ヒルズのような、森ビルが主導する再開発予定の地域であるようだ。

東京の高級住宅地イメージの麻布台なんて、しゃれた名前の街のくせに、谷底街だし、空き家だらけだし、人影はめったにないし、なんだか異界の感じもする。

しかし、人はそれなりに住んでいるようだ。決してゴーストタウンではない。共同住宅のバルコニーには洗濯物があるし、路地の奥ではなにか家事をしている人の姿も見かける。

ただ、人が住まない家に蔦が絡み、冒頭に書いたような緑の家がいくつの登場してくると、なんとなくゴーストタウンへと進んでいる(退行している)気配が感じられるのである。

特に北側には、仙石山の上の超高層建築群が立ち並んで見えて、谷底の狭い路地と低い家々を覗き込む風景が続く。それはゴジラの群れが谷に足を踏み入れて、いまや踏み潰そうとしているかに見える。

もういちど我善坊谷の地図である。

ついでに我善坊谷の空中からの全景も見ておこう。

(いずれもgoogle earth)

上から仙石山の巨大再開発ビルに見下ろされる路地風景が面白い

吉田苞竹記念館に付属する由緒ありそうな木造建築と後に土蔵が見える。吉田苞竹とは、有名な書家らしい。ここに住んでいたのだろう。

わたしが好きな緑の館が多く出現してくるのが嬉しい。

我善坊坂の下までやってきて坂上を見上げると、仙石山の開発と谷底街との対比が著しい

谷底と丘上を結んで車で通れる唯一の坂道・我善坊坂

我善坊坂から戻って落合坂を東に行けば空き地が多くなる

桜田通り近くになると、路地の向こうの仙石山は低くなり、神谷町あたりのビルが見える。この路地の突き当りは大養寺の下あたり。空家が多い。

大養寺の下あたりは路地から更に狭い路地が横に派生する。空き家が多くなってきて、「立ち入り禁止 巡回監視中 森ビル」の貼り紙。

路地の奥には空き家に挟まれて稼働している町工場もある。

◆変わりゆく未来への最後の姿の街か

こうやって北側の風景を見てきて、崖の上には超高層建築が建ちなら巨大開発があり、崖の下に中低層の建築群の町並みが立ち並ぶ、その風景のあまりに対照的なことを楽しんだのである。

地形が複雑な東京という都市における、都市化の変化の歴史的動きを、実にわかりやすい対比で見せてくれている。

そしてその変化をリードしている企業がいる。このあたりのディベロッパーである森ビルによる事業であるらしいのだ。森ビルは、アークヒルズから始まって、このあたりで次々と再開発事業を進めているから、ここもそのなかのひとつになるのであろう。

変わりゆく街の、これが最後の姿かもしれない。

崖の上の超高層ビルの多くは、江戸時代から現代に引き継いできたいくつもの大名屋敷跡の広大な敷地を種にして、それらの周りの小宅地を合わせて統合しつつ広大な用地をまとめた現代都市再開発の現れである。

そして、崖下の街もまた森ビルによる空き家巡回警備の貼りり紙で見るように、次の変化をリードしつつあるようだ。

この森ビル再開発のことはことは後でまた考察したい。


4.我善坊谷の南側の風景を鑑賞しつつ行く

◆北側と同じような路地だが

さて、またあらためて西側から東へ落合坂を、今度は顔を右に向けて南側の風景を、見ていこう。(地図はこちら)

南側の路地そのものは、北側と大差はない。奥に15mも行けば飯倉台の崖下に突き当たる。違うのは崖上からゴジラが覗き込まないことだ。

こちらの飯倉台の上にも工事中の超高層建築が見えるが、 尾根を越した狸穴あたりらしい。

路地の突き当りの崖の上に重厚なレトロっぽい建物が姿を見せた。日本郵政飯倉ビルである。

郵政飯倉ビルは4階建てだがかなり横に長い。北側と違ってこちらには超高層建築は姿を見せない。

路地の奥に入ってツタが絡まる廃屋の横の崖下から、崖上の日本郵政飯倉ビルを見上げる。

◆南側の風景を特徴づける崖上の日本郵政飯倉ビル

これは以前に撮った日本郵政飯倉ビル。東京駅前の中央郵便局のように、日本郵政飯倉ビルも建て替えるらしい。そうしたら下半身に今の姿をコピーした超高層建築にするのだろう。

もともとは1930年に建った逓信省貯金局庁舎。 逓信省建築にしてはちょっと古典的な風貌を持っているのは、設計が逓信省ではなくて大蔵省営繕管財局だからだろうか。

蔦の絡まる空家、崖地の緑、崖上の西洋館がなんとなく調和する風景。

この飯倉ビルのこちら側は完全に裏なのだが、全く手を抜いていないのは、がけ下からの眺め、あるいは仙石山からの眺めを意識したのだろうか。

路地の両側も置くも木造アパート、奥の緑の館アパートが気になる。

その奥まで入って右をみると、廃墟アパート群であった。

空き家の玄関には「立入禁止 森ビル」の張り紙

我善坊坂の南向かいの三年坂までやってきたのでちょっと登ってみる。左に黒い霊友会釈迦殿の大屋根が見える。

三年坂から振り返って我善坊谷を西に望む。左に飯倉台の上の日本郵政飯倉ビルが見え、向こうの一番高いビルは東京ミッドタウン、右は仙石山の上のビル。この谷間を超高層ビルが埋める日がいつか来るらしい。

三年坂を戻って下り、右に霊友会釈迦殿と霊友会第2ビル、正面の森は飯倉台の尾根の東端部にある西久保八幡神社、左に東京タワー。

◆ちょん切られた飯倉台地

駐車場の中に入って森と霊友会の境のあたりに近づいてみて驚いた。霊友会釈迦殿の建物は飯倉台の上にあるのではなくて、この尾根をストンと谷底レベルまで断ち切ってしまって平地にした上に建っているのであった。

だから西久保八幡神社と霊友会側とは擁壁で地形が切れていて、神社は尾根の上ではなくて今や島の上に建っているのである。

尾根先端部に神社が建つのは、古代からの岬信仰の伝統である。ここでは岬をちょん切られて島になった神社はどうなるのだろうか。

このあたり地形図を探したら港区のサイトにあったが、霊友会釈迦殿ができる前の地形のままなのでここで訂正しておいた。

霊友会あたりから東に来ると、空き家ばかり目立ってくる。これはものすごい緑の館である。

上の写真の建物の向こう側に回ってみた。空家空き地がネット塀に囲まれている。

路地の奥に八幡神社の森に登る細い石段があり、そこから振り返って見下ろす森と空家空き地の廃墟風景。

路地から振り返って北を見た風景

◆西久保八幡宮の異様な風景

路地探検を終えて桜田通りに出て、気になる西久保八幡宮へ。桜田通りのビルとビルの間の参道から岬(今や島だが)の上に石段を登る

登って西久保八幡神社社殿、おお、これはすごいことになっている。黒服霊友会釈迦殿が手錠を振りかざして社殿に覆いかぶさる。岬信仰の社殿背後の山を拝むが、ここは神仏混淆で釈迦を拝むのか。新旧ふたつの信仰の場が競合して、なんとも奇妙な景観を生んでいる。

それにしても釈迦殿設計の建築家(竹中工務店)はどう考えたのだろうか。真っ黒で異様なる巨大建築で我善坊谷の風景にひずみを生じさせ、隣接する歴史的な神社の景観を破壊している。ここは森を復元させるべきだろう。(2013年7月)

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◆落合坂を西から東へ顔は北に向けたままで行く

では、我善坊谷北側の崖の上下の対比の風景をどうぞ。消えゆく風景の記録写真である。

わたしはこういう極端な対比の風景を、あちこちで面白がって蒐集しているのだが、ここではたくさんの収穫があった。

我善坊坂の途中から振り返って南を見ると釈迦殿と東京タワーが見える