「なぜ数学を勉強しなきゃいけないの?社会に出ても使わないのに」と言う中学生に本書を読ませることは、中学生の読解力や背景知識について考慮しなければ、一つの解決手段になり得る。[川田寛]
プロローグで『野生の思考』を名前だけ引用しているっぽいが、あんまり内容に『野生の思考』っぽさはないように思う。[原菜乃葉]
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「方法の第n規則」という言い方は、調べてみてもあまり一般的ではないみたいだけれど、これはラトゥール独自のものなのか。[川田寛]
序盤に出てくる「告発」とはどういうことか。他にも「第六規則」など以前の章で出てきたと思われる言葉が多くてついていけなかった。[巽篤久]
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最後のパートに近づくにつれて中心や道具についての記述が増えていった。今回の文中では学習についてあまり触れられていないけど、レイヴとウェンガーの理論とも親和性がありそうだなと思った。[巽篤久]
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「力のバランスをポルトガルのガレオン船の側に有利に傾けた」(376)などとあるように、知識は異邦人や自然の脅威に対して優位に立つためのものということか。[田中美衣]
「科学委員会が作られたとき、ガレオン船はすでにとても動きやすく、融通の効く道具であり、波、風、乗組員、大砲、現地人を服従させることができたが、浅瀬礁や海岸線を服従させることはできなかった。浅瀬や海岸線は、予期せず次々と現れ、船を座礁させたので、常にガレオン船よりも強力であった。」(375)という文について、船や人や無生物が同じ土台で強い/弱いという基準によって比べられているのがおもしろい。[森山倫]
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人々を「横切る」、学問を「横切る」(377)という言葉遣いが特徴的で気になった。前者は一瞬の滞在であること、後者は様々な学問が一緒に編みあげられている中での横糸のようなイメージに感じた。原文での表現も確認したい。[中山皓聖] →前者は cross、後者は cut across
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「地球は彼らの地図室でどれほど大きくなったのだろうか?意のままに広げられ、繋がれ、並び替えられ、重ねられ、描き直される図からなる地図帳よりも大きくはない。この規模の変化の結果はなんであろうか?」(380)という部分の文脈がよくわからなかった。地球は地図帳よりは大きくない、というのはなぜか。[森山倫]
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「事物の周りを科学者の精神が回転する代わりに、事物が精神の周りを回転するようにさせる」(380)の意味が全く分からなかった。「コペルニクス的転回」に関する記述で、いまいちイメージを掴めなかった。[阪田天祐]
「コペルニクス的転回」によって周縁と中心が逆転するという話があったが(380)、「周縁」、「中心」はいずれも西洋近代的視点から見たものであり、相対化されるべきなのではないか。「周縁」「中心」の定義とは何か、どのような意味で用いられているかがわからなかった。[田中美衣]
確かに人類学の教室も、教室後方にさまざまなDVDがあり、このコレクションを放映できる点で人類学教室を中心として世界が回っていると言えるかもしれない。[中山皓聖]
国立科学博物館の標本展示は特にコペルニクス的転回を実感する。実寸大のスケールで世界の動物を地域も時代も超えて一挙に見られる。一方でいかに復元するか、いかに展示するか、いかにラベリングするか、いかに展示を使って比較研究するかという博物館(博物館学)に局所的な技術が使われて、科学も民族科学のひとつであることがよくわかる。[中山皓聖]
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科学と技術を理解する際の困難さの多くは、時間と空間が揺らぎようのない準拠枠として独立に存在しており、「その内側で」出来事や場所が生じているという信念から出てくる」(386)この辺りのことがよく理解できなかった。時間と空間が独立に存在するとはどういうことか。[田中美衣]
「蓄積のサイクルとそれによって始まる世界の動員を考えるならば、それに比べて周縁であると見えるものに対する中心の優位性というものを、文化、精神、論理における付加的な分割なしに、記述することができる。(386)」というところを一見すると、蓄積のサイクルと動員の理論でシステマティックに物事を捉えることで優生主義などによる分離を捨てることができて良さそうだけれども、だからと言って文化、精神、論理の根本的差異を最初から捨象しようとするならば、無機質なシステムの解釈にとらわれて個々の経験の厚みを見落とすことになりそう。[巽篤久]
今はGooglemapさえあれば他の情報源がなくてもほとんど全ての場所に行ける。蓄積を感じる。便利。[巽篤久]
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「数百万光年について語られることを理解できないことを恥じるであろうか?恥じることはない」(388)とあるが、誰に「語られ」誰が「恥じる」のか?そもそも、時空間の秩序の話が全く理解できなかった。[阪田天祐]
「空間は可逆的置換によって構成され、時間は不可逆的置換によって構成される」(389)とはどういうことか。[中山皓聖]
「空間は可逆的置換によって構成され、時間は不可逆的置換によって構成される。万物は要素を置換させることに依存しているのだから……」(389)の部分が、他の部分より異様にわかりづらかった。例示から、時間や空間が観測装置やモデルによって科学者が扱える状態になる、みたいなことを言っているんだろうか。[原菜乃葉]
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「抽象を行う具体的な作業」(408)のような、科学者がやっている具体的な作業に注目した視点は、哲学と自然科学が明確に区別されるようになった近代だからこそ出てきた言葉だと思った。[原菜乃葉]
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メルカトルのように「中心の内側で形式の形式について研究している者たち」(p.413, l.13)と、「本書で素描したような類の探究を通じては研究できない」(p.416, l.8)形式についての研究の違いを、ぼんやりとは理解できたものの、うまく説明できない。もう少しわかりやすい翻訳はあるのか。[川田寛]
形式主義とは結局何だったのか。計算の中心での認識や時空間の構成のことなのだろうか。[中山皓聖]
(416)の記述などから、形式に直接注目するのではなく、形式や中心に至るまでのプロセスを見ることの重要性を説いているのだと感じた。これは、初めから理論構築を試みるのではなく、データ収集をしたり翻訳を試行錯誤するフィールドワークのあり方、民族誌の書き方に近いことなのではないかと思った。[高橋征吾]
可能な限り記録をするという航海の特徴(368)にフィールドワークとの共通点を感じたが、その土地自体ではなく、その場所を中心へ持ち帰ることに関心があり、短期間でそれを達成しようとしている点では異なると思った。[山本大貴]
学問をまたいで編み込まれた世界から、さまざまな道具を利用可能な限り使って中心に集めるという意味ではフィールドワーク(特に初期の人類学)と航海の共通点を見出せた。マリノフスキの著作が『西太平洋の遠洋航海者』であることも関係があるかもしれないと感じた。[中山皓聖]
「初めて何かに遭遇したとき、それを知らない」が、「二回目以降」は「何かを知り始めている」、「他のすでに熟知している出来事の一連、同じ一族の一員にすぎないとき、それを知っていると言われる」(372)について、このような抽象化によってこぼれ落ちた差異を回収するのが人類学の役割でもあるのかなと思った。[森山倫]
「抽象的理論」に対する姿勢が、ギアツの厚い記述」で文化の理論構成がその適用や具体と切り離せないとされていることに似ていると考えた。ただ、語られている内容は、科学についてデータの諸要素と理論との関係に焦点が当てられており、問題としているレベルは異なっているようにも思った。[山本大貴]
ラトゥールは、数字を扱う科学を記述の対象にしているが、こうした知識生産・蓄積過程における中心の強化は、他の科学(人文など)にも援用することができるのだろうか。[井出明日佳]
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権力という言葉をあまり使っていないのが気になった。中心は、周縁を掌握することで周縁に対して明確な優位を与えられているため、権力性があるように感じられる。周縁は人間以外も含まれるから安易に権力という言葉を使うのを避けたのか、または周縁が中央の存在や、ネットワークの中での周縁自身の位置を知り得ないからなのか、あるいは(394)で言うように中央がむしろ洪水状態になったり(399)で言うように翻訳による損失の方が大きくなりうるからだろうか。[高橋征吾]
410ページ以降、「遠隔地に渡航し持ち帰った情報から、数学やデータ分析を用いて導き出された理論や形式を、実際に経験的世界に適用するとはどういうことか」について説明されていると思うが、ここから人間集団や場所という規模の大きな単位に対して一斉に働きかけるような力を持つためには、情報を何らかの形に統一し、把握し、蓄積することが何よりも重要だと感じた。これまでは植民地主義や帝国主義の歴史を考える際に、どのような政策や方法をとって人々を支配したのか(土地の区画、税制の導入、教育制度の確立など)に関心をおいていたが、より搾取的で巨大な力はその前段階に存在しているのだと感じた。このように考えると、「情報を統一し蓄積することは中性的でそれを都合よく利用しようとする態度が問題である」というよりむしろ、どのような人々が利用するのであれ、どのような目的が想定されているのであれ、「現実を把握しようとすること」自体にすでに搾取性が含まれていることを自覚しなくてはならないと感じた。[西川結菜]
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蓄積のサイクルの概念は、知識(特にそれが地理など社会全体に関わる領域分野に関するものである場合)が有益であるためには、何世代もかけて蓄積されアップデートされなくてはならないということを明らかにしていると感じた。一方で新しい発見がそれまでの知識にうまく「はまる」のではなく、むしろ対立するような事態が発生した場合、こうした蓄積のサイクルはどのように働くのか、疑問に感じた(地動説と天動説など)。もしかしたら蓄積のサイクルは何個も同時に存在していて、それらが互いに対立したり組み合わさったりすることもあるのかもしれない。しかしその場合、蓄積の基盤が分散するために、支配的な中心性を確保するのは難しくなるのではないか。[西川結菜]
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テクノサイエンスとはどの範囲の知識を指すものなのかも疑問に思った。ラトゥールは(388)などでヨーロッパの知識もネットワーク化による局所的な知識にすぎないことを述べているので、どの局所の議論をしているのか意識することは大切だと思った。例えば、なんでも「技術」と呼ぶことができる感じがするが、この本では日々の料理のような技術の話はしていないと思う。[楠田薫]
そして、この文章を書くことでラトゥールも知識を生み出しているが、このような知識はラトゥールの提唱したカスケードの一部(本文中で行われているよりもさらに先の段階にあたるもの)として捉えられるのだろうか? 知識が作られる過程を段階ごとに分けている点は方程式っぽい。[楠田薫]
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「何かについての理論と、その何かが分割されるやいなや、テクノサイエンスの頂点が霧に包まれて覆い隠されてしまう。」(409)は、科学による成果物がその背景にある出来事や流れと分離できない、という点でギアツの「事例の中での一般化」を想起させた。[中山皓聖]