アメリカ合衆国における「人類学」の位置
アメリカの人類学は、北米(及びアメリカ大陸)先住民の研究を土台として発展した。ヨーロッパとは異なり、アメリカ合衆国における文字で書かれた歴史は16〜17世紀に始まる。それ以前について知るための手がかりは、考古学の研究や、先住民諸族の生物学的身体についての比較研究つまり自然人類学(形質人類学)であり、彼らの風俗習慣についての文化人類学(ないし民族学)の研究であり、そして言語学であった。それゆえアメリカでは、ヨーロッパや日本で「歴史学」に相当する分野の一部を担いつつ、文化人類学・言語学・考古学・自然人類学の4つが一緒になって「人類学」を構成することになる(→各大学で Department of Anthropology が作られる)。こうした事情から、アメリカ合衆国では、20世紀前半からすでに、人類学はきわめて有名かつ有力な学問であった(それゆえに、アメリカ人類学では、「文化」を理論的ツールとして積極的に社会的貢献を目指す「応用人類学」の傾向も有力である)。マーガレット・ミードが20世紀前半のアメリカにおいて、最も著名な女性の学者であったことも、こうした背景から理解できる。
先住民という問題と「文化」の概念
前回見た通り、イギリスでは20世紀の半ばから、ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義の影響下で、社会の諸部分が機能しあって社会全体が出来上がっていく様子を分析し描写する「社会人類学」が成立した。そこでのキーワードは「社会」であった(これは、マリノフスキ及びラドクリフ=ブラウン経由でデュルケームに由来する)。これに対し、アメリカ人類学のキーワードは「文化」であり、これは大雑把な了解としては、「人間が社会の一員として身につける、能力と習慣とを含む複雑な全体」(19世紀イギリスの人類学者エドワード・B・タイラーによる)を指すが、それを様々な形で理論的に洗練させる企てがなされてきた。
20世紀前半、アメリカ人類学が成立していく中で取り組んだ最大の問題は、北米大陸の各地に住む先住民諸族の多様性ーー小集団で移動する狩猟採集民から、1000人以上が集まって住む南西部のプエブロ諸族までその居住形態はきわめて多様であり、後にベネディクトが強調したように、民族によって人間の気質も大きく異なるーーをどう説明するか、という問題であり、それに対する応答の鍵となるのが「文化」の概念であった(cf.「厚い記述」の冒頭)。このように「文化」の概念が中核的位置を占めてきたがゆえに、アメリカ人類学は「文化人類学」と呼ばれる。
参考1)アメリカ合衆国ではラドクリフ=ブラウン(1930年代、シカゴ大学)やマリノフスキ(1940年代、イェール大学ほか)が教鞭をとったこともあり、大枠としての人類学>文化人類学の中に「社会人類学」も存在してきた。
参考2)日本では長く文化人類学・社会人類学・民族学の名称が並存していたが、2004年に「日本民族学会」が「日本文化人類学会」と改称して以降、「文化人類学」が支配的になった。)
ボアズから生まれた二つの流れ
アメリカ人類学に(マリノフスキとは異なる)フィールドワークの手法を導入し、本格的に発展させたのはフランツ・ボアズ(1858-1942)だが、20世紀アメリカ文化人類学では、このボアズを起点として二つの大きな流れが生まれていった。
①一方では、先住民と自然環境との関係の研究であり(自然環境の差異がどのように文化を決定するか)、これは考古学とも結びつきつつ、20世紀なかばに「生態人類学」の分野が生まれてくる。ジュリアン・スチュワード(1902-1972)、エルマン・サーヴィス(1915-1996)、マーシャル・サーリンズ(1930-2021)らがその代表で、「新進化論」と呼ばれる理論を発展させた。ただしサーリンズ(次回扱う)はその後独自の道をたどってゆき、後の存在論的人類学とも関わっていく。
②アメリカ人類学のもう一方の流れは、大雑把にいって文化の精神的側面の側を把握しようとするものだが、こちらはさらに二つの相互に関連する流れに分けられる。つまり第一に、ルース・ベネディクト(1887-1948)やマーガレット・ミード(1901-1978)に代表される「文化とパーソナリティ」学派で、様々な文化のもとで人々が生まれ育つ中でパーソナリティ(エートス、気質)の差異が生まれていくのかを研究した。第二に、エドワード・サピア(1884-1939)らを中心に発達するのが人類学的言語学(または言語人類学)である。「文化相対主義」は、この両方の流れの影響のもとで、20世紀アメリカ人類学の支配的な考えとなっていた。
アメリカ文化人類学のこの第二の方向性は、第二次大戦後、「心理人類学」や「認識人類学」(ギアツが冒頭で触れるグッディナフやS・タイラー)としてより精緻な理論化が図られた。その延長線上でさらに、レヴィ=ストロースの影響なども受けつつ、「象徴人類学」や(ギアツの)「解釈人類学」が出てくる。付言すれば、「認識人類学」は1950年代に世界各地で、「人々が世界をどのように認識しているか」、例えば「身の回りの動植物をどのように分類しているか」を徹底的に掘り下げたが、レヴィ=ストロースの「具体の科学」はこの研究を土台として書かれたものである。
ギアツの解釈人類学
クリフォード・ギアツの「解釈人類学」(interpretive anthropology)は、「文化」の精神的な面を掘り下げるこの第二の方向性の流れに身を置きつつも(それゆえ「厚い記述」の冒頭では「認識人類学」を批判している)、政治・経済等の大きなシステムとの関係に注目し、緩い意味で第一の方向性も視野に入れようとした(「厚い記述」を序論とする『文化の解釈』では、そうしたエッセイが幾つも含まれている)。なお、20世紀前半の人類学がいわゆる未開民族を中心としていたのに対し、ギアツは、ジャワやモロッコなど大文明の一部をフィールドとした点も特徴的である(←アメリカ人類学では20世紀中葉から、文化人類学的調査の手法をメキシコやインド等の村落社会の研究も始まっていた)。
ギアツも書いているように、アメリカ人類学において、「文化」の概念はたえず換骨奪胎しつつ蘇生されてきたところがある。1973年の『文化の解釈』をマニフェストとする「解釈人類学」もその一つであった。また、1980年代に始まる「文化を書く」(writing culture)の議論は、ギアツの強い影響下で、さらに新しく組み直そうとするものであった。