【76】全体的にどうしてもこの書き方じゃないと伝えたいことを表現できないのだろうか、と思うような難しい比喩や言い回しが多くて読みにくかった。 [森山倫]
【84】「コンコルディア」誌について、対話形式であるのに、具体的な例が「狂気の例」くらいしかなくて、専ら抽象的な概念の上で議論をしている印象を受けた(フランス人はみんなこうなのだろうか)。例証なしに議論がかみあっている(ように見える)一方で、「真理のゲーム」については、かなり先まで読み進めないと厳密な定義が出てこなかった。 [川田寛]
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【76/84】1976年の著作の方では、権力を君主に与えられる特権として描いていたのに対し、1984年の著作では、権力関係を社会に普遍的な図式としてより一般的に把握していたように感じた。この二つの著作における「権力」の概念がどのように繋がるのかがわからなかった。 [西川結菜]
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【76】普段生活していて、権力が生を支配していると感じることはあまりないが、入管の収容施設の事例などを思い出すと、生政治がわかりやすく可視化されていると感じた。 [中山皓聖]
【76】前期課程でハンナ・アーレントの思想を学んだときに、「ナチスの大虐殺は、野蛮への回帰ではなく、官僚制の極限だ」みたいな考え方が出てきていて、『知への意志』の前半部の内容と通じるところがあるな、と思った。 [川田寛]
【76】「民族抹殺がまさに近代的権力の夢であるのは、古き«殺す権利»への今日的回帰ではない。そうではなくて、権力というものが、生命と種と種族というレベル、人口という膨大な問題のレベルに位置し、かつ行使されるからである。(174)」個人を「種族」や「国民」とかグループにまとめること自体が非常に搾取的なんだな、と感じた。個人を集団の名のもとに行使できるところに位置づけることもそうだが、個人を集団の一部に取り込んで集団をより大きく強くしていくプロセス自体が搾取的であると感じる。 [秋場千慧]
【76】「戦争はもはや、(中略)国民全体の生存の名においてなされるのだ。」「まさに生命と生存の、身体と種族の経営・管理者として、あれほど多くの政府があれほど多くの戦争をし、あれほど多くの人間を殺させたのだ。」(173-174)という文を読んで、アイヒマン裁判が思い浮かんだ。 [森山倫]
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【76】「死は人間存在の最も秘密な点、最も「私的な」 [公の手の届かぬ]点である。自殺がかつては罪であった(175)」という部分から、伊藤計劃のSF小説「ハーモニー」のことを思い出した。近未来を舞台としたこの小説の世界では、生権力が浸透し、人々は体内に超小型の健康モニタリングロボットを入れられている。健康的で調和した社会のために、死の表象から離れた清潔な世界で人々が暮らす中、ヒロインたちが自分の肉体の所有を主張して自殺を試みるシーンがあったが、この部分を読んで、その逆説的なロジックがしっくりきた。 [巽篤久]
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【76】解剖学的な政治と生の政治(176)では、ヌアー族の「一番元気な雄牛一頭を種牛にし、他の牛は去勢牛にする」という内容を思い出した。ヌアー族が行っていることは牛の使用効率を高めながらも管理をしやすくするという方法であると思うが、これはフーコーの言う権力と生の関係のアナロジーになると思う。もっとも、ヌアー族の人々が対象である牛自体に強い愛着を抱く一方、無生物的な権力は人間の生に対していかに効率的に隷属を強いるかのみを原理としており、その冷酷さは際立っていると思う。 [高橋征吾]
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【76】「規律を特徴づけている権力の手続き」(176)の「手続き」という言葉がどういうふうに使われているのかいまいちパッとしなかった。根拠となる論理の流れ、ということだろうか。 [森山倫]
【76】『死に対する権利と性に対する権力』の章は資本主義の話のあたりから理解できるような気がしてきたが、前半部分とくに生に対する権力について述べたところでの「人間の身体の解剖ー政治学」と「人口の生ー政治学」(176)がそれぞれどのようなことを指していて、後半の部分とどう繋がっているのかがわからなかった。 [保科昭良]
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【76】生権力は資本主義の発達に不可欠の要因(178)と述べられていたが、身体の行政管理、公衆衛生、住居といったものは労働者の生命を保障するものは当初資本主義にはなかったものであり、労働運動など資本主義に対抗する動きから生まれたものもあるため、逆に政権力という形で資本主義の発達を促したといえるのであれば興味深い。 [田中美衣]
【76】「死はすでに、直接に生を攻め立てることを止めるようになっている。」(179)がそのすぐ後の集団的健康と政治学の身体への介入につながる論理は、飢饉やペストなどが技術の発達などによって死に直結しなくなったことが、死を「死なない」ことから「長く生きる」ことへと変わり、集団的な生産性や国家への意識につながったという事ということで合っているのだろうか。 [保科昭良]
【76】178頁で言及されている、資本主義において生産機関に身体が管理された形で組み込まれるというプロセスは、まさに贈与論とつながっていると感じた。「権力の制度としての国家的大機関の発達が生産関係の保持を保証した(178)」という部分は、資本主義国家の発達は、資本主義社会に人間の生を贈与させることを前提とするシステムを確立したと読めるのではないか? [秋場千慧]
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【76】「生を歴史の生物学的周縁として歴史の外部に置くと同時に、人間の歴史性がもつ知と権力に貫かれたものとして、生を人間の歴史性の内部に置くものなのである。」(181)とはどういうことか。 [山本大貴]
【76】「生を歴史の生物学的周縁として歴史の外部に置くと同時に、人間の歴史性がもつ知と権力に貫かれたものとして、生を人間の歴史性の内部に置くものなのである。」(181)における生の二重の位置の意味がよくわからなかった。 [中山皓聖]
【84】権力関係と自由が共存しえないという考え方に対するフーコーの批判は、支配と抵抗という二つの力が互いに作用し合うような動態的な社会のあり方を描き出しているように感じた。これは一見対立・矛盾するように思われるアクター同士が、それぞれの存在がもう一方の存在を裏付けている共依存的な関係性を意味していると考えられる。このことはすでに存在している抵抗のあり方に気づかせることで、支配状態を被っている側に対する「支配に屈した無力な存在」というレッテルを剥がすような効果があると感じた。 [西川結菜]
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【84】「人間関係の中には、権力関係の束があって、それが諸個人の間、家庭、教育的な関係、政治体などに働きかけうるのだ」(221)とあるが、ここで「束」という表現を用いているのには何かの意味があるのか。 [北村晴希]
【84】「人間関係のなかには、権力関係の束があって、それが諸個人の間、家庭、教育的な関係、政治体などに働きかけうる」(1984,221)とある。このページの主要な論点からずれてしまうが、権力関係の「束」とはどういうことか。人間関係のなかに権力関係があるのは分かるが、それが「束」であるというイメージが掴めなかった。また、ここでの権力は、普通にイメージされる権力(フーコーのいう「支配」)ではなく、戦略的なゲームとしての権力(1984,243)を指すと捉えるのが適切か。 [井出明日佳]
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【84】「自由の実践」がよくわからなかった。ギリシア・ローマの世界のように「自己への配慮とは、個人的な自由——またはある程度までは市民的な自由——が倫理として反照=反省される様態のこと」(223)であるならば、自由の実践は社会との関わりの中で行われるため本質的には自由であるとは言えないのではないか。「自由の実践」とは積極的に社会に順応するということか。また、正統的周辺参加に通じる部分もありそうだと思った。 [田中美衣]
【84】「自由の実践」が強調されているが、具体的に「自由の実践」が、自己への配慮や自己の統御によって、何をもって自由の実践といえるのかが分からなかった。権力関係によって規定される状態なのか、あるいは個人が自由に感じるという感情的な問題なのだろうか。 [山本大貴]
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【84】「主体の形式」(1984:232)はペルソナみたいなものとして理解してよいのだろうか。 [原菜乃葉]
【84】フーコーが「自己の実践」というとき、モースが定義したような社会的・文化的な人格(person)と普遍的・生物学的な自己(self)を区別していないと感じた(どちらかといえば人格の要素の方が大きいと感じる)。人間関係が社会や文化に影響されて構築される、というときには仮面や役割につながる「人格」の意味で用いているが、自己形成や規律という時にはある程度普遍的な存在を想定しているように感じた。 [中山皓聖]
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【84】より自由であるということは、権力の行使願望の増大の裏返しで、その誘惑に囚われたり周りの権力関係に隷属せず、自立を保つためには自分自身にフォーカスすることが必要で、それは倫理に関わる内省のようなものであると自分は理解したが、つまるところそれでは自由の実践というのはとても脱俗的な営みに感じられる。 [高橋征吾]
【84】「自己への配慮」が具体的に何を指しているのかいまいち理解できなかった。自分を律することを含めているのを見るに、自分が良く生きられるようにすること、くらいの意味合いなのか。 [原菜乃葉]
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【84】「権力の諸関係は可動的なものです。つまりそれは変わりうるものであり、一度に決定的に与えられてしまうようなものではありません。」(1984:233)フーコーの言う権力とは、いわゆる権力勾配というより、関わっている人にある行動を取らせるような力全般のことを言っているのだろうが、本人も言っている通り紛らわしいところがあると思う。他のネーミングはなかったのか。 [原菜乃葉]
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【76】以前、奴隷制において奴隷船で輸送されている人が自殺することは抵抗だったと読んだことがあり、それが抵抗といえるのか疑問に思っていたが、君主のみが持つはずの権力を行使していると考えると抵抗として納得できた。 [楠田薫]
【84】フーコーが、権力を「自由の余地を残す」(235)、「戦略的なゲーム」(243)としたのは、フーコー自身が、相対的に強い(哲学的素養を持つ知識人の男性)立場にある人だから言えることなのではないか、と思ってしまった。特に、権力の話を性的関係に敷衍するにあたって、フーコーが小児性愛的側面を持っていたことを意識しないわけにはいかなかった。 [川田寛]
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【84】「そこにこそ倫理的な気遣いと諸権利を尊重するための闘争の連結点、統治の不当な技術に対する批判的な反省と個人の自由を基礎づけてくれる倫理的探究の連結点がある」(244)とはどういうことか。 [北村晴希]
【84】人間を法=権力の主体としてではなく、統治や戦略、自由という観点から分析するフーコーの視点は、マイノリティの(法的な)権利運動や承認の政治とは異なるように思える。権利運動は、自由や戦略を実現するために、支配から脱しようとする試みだと位置づけることができるか?フーコーの視点からみたときに、権利運動や承認の政治はどのようなものに映るのか? [井出明日佳]
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【84】「統治のテクノロジー」が「支配状態」「戦略的な諸関係」と同じ一つの水準として扱われるのが直感的にわからないかった。後者2つは対極にある状態だが、統治のテクノロジーはそれら状況を扱うための道具(技術)であるので、これら3つが同じレベルにいていいのがいまいち納得できなかった。(244) [森山倫]
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【84】「他者の振る舞いを決定」(245)することの例として家族関係が挙げられていたが、現代においてはどのような例があるのかわからなかった。社会貢献や他者に何らかの良い影響を与えることも同様に他者の振る舞いを決定することと言えるか。 [田中美衣]
【84】「西欧のような社会では [⋯]ゲームの数がきわめて多いので、他者の振る舞いを決定しようとする願望もそれに応じて大きくなる」「ゲームが開かれていればいるほど、それはますます魅力的で誘惑的になるのです。」(1984,245)とはどういうことか。前者は、振る舞いの規制が少なく、戦略の入り込む余地が大きいということ?後者は、支配者や周囲の人、己の情念などに支配されない状態であればあるほど戦略を展開でき、それって楽しくてセクシーだよね、ということ? [井出明日佳]
【76/84】法律が正常な状態を合法とし、正常から離れた状態を異常と規定するという点(182)に関しては、現代社会はやや法の性格が変わってきているように感じる。近代国家という固定的権力の道具として利用されていた法が、むしろ今は少数派の権利の法的保障を要求するソーシャルメディアを利用した世論形成のように、ボトムアップ的な言説、権力によって脅かされ圧力を被るような存在に変容しているように感じる。これは、(234)で言われているように、権力関係が「可動的、可逆的であり、不安定」であることの一つの証左になっていると思う。 [高橋征吾]
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【76/84】生政治が展開される状況での、権力作用の主体は何なんだろうか。 [巽篤久]
「このような権力は、殺者としてのその輝きにおいて姿を見せるよりは、資格を定め、測定し、評価し、上下関係に配分する作業をしなければならぬ。服従する臣下から、君主の敵を切り離す線を引く必要はない。規準となる常態のまわりに配分する作業をするのだ。(182)」というとき、権力の行使者は誰になるんだろうか。権力自体が権力の作用者のような書かれ方をしているのが気になった。また、「しかしこの権力のやり方自体が、そもそも主権という伝統的権利に基づくものではないのである。(183)」とも書かれている。
「ある個人なり社会集団なりが、ある権力関係の場をせき止め、動けないように固定し、運動の可逆性をすべて停止させてしまうのに成功するとーそのための道具は、経済であったり政治であったり軍隊であったりするわけですがー、いわゆる支配状態が展開することになるのです。(221)」複雑な権力関係の場が固定化されると支配が生じるというロジックなんだろうけど、その「ある個人なり社会集団なり」が支配をするという形態は、古い権力でも新しい権力でも変わらないのだろうか。
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【84】私が現在通っている劇のフィールドで考えられ、行われていることと今回の文献の間には共通する点があると思った。フィールドで起きていることをフーコーの用語で説明してみる。サテライト・コール・シアターでは演出家たちがインフォーマントを支配するのを避けるために、インフォーマントをホームケアリストと名付け、本人たちに物語を描いてもらい、そこに演出側から伴走者を提供しているというように権力の諸関係の束をほぐす試みが行われている。ただ、それはユートピア的なものではなく、個々の会話の中(特に意見が対立する時)戦略的ゲームが起きている。例えば、統治システムの上では伴走者は「語り手の物語を“引き出す”のではなく、迷いや揺れとともに隣に「いる」存在。」(https://bug.art/exhibition/crawl-takenaka/)として設計されている一方で、実際には伴走者とホームケアリストのミーティングを演劇の稽古っぽくすることが目指されていた。稽古っぽくするというのがどういうことなのか、今はまだ掴めていないが、すくなくとも伴走者がただ「いる」のではなく指導する傾向が強くなるのではないか。 [楠田薫]
【84】また、サテーライト・コール・シアターでは人間は多面体であるということも言われている。それは「異なった主体の形式のあいだに関係や相互干渉があることもあるでしょうが、同じタイプの主体を目の前にしているわけではないのです。ひとは自己とのあいだに、それぞれの場合ごとに、異なった形式の関係を働かせたり確立したりするのです。」(1984:232)と通じるところがあると思った。 [楠田薫]