今日は今日は、この授業終盤の、「自然の人類学」(←もはや「文化・社会の人類学」ではない)のセクションの入口であり、ラトゥールの仕事自体がこの「自然の人類学」の始まりと深く関わっている。この意味も含めて長めのイントロをしておきたい。
ブリュノ・ラトゥール(Bruno Latour)は1947年生まれ、比較的最近亡くなった(2022)。フランス人だが英語圏でも活躍したので、名前はしばしば英語風に「ブルーノ」とも書かれる。レヴィ=ストロースやブルデューと同様、彼は哲学からスタートし、人類学から深く影響を受ける中で科学社会学を大きく革新したため、科学社会学者とも科学人類学者ともいわれる。ただしラトゥールの場合、ブルデューと異なって「人類学/社会学」の区別はあまり重要ではない。もっといえば、その仕事は、科学史などの研究も併せて、より広く STSと呼ばれる領域と重なるといえるだろう (Science and Technology Studies/Sciences Technology and Society=科学技術研究/科学技術論/科学技術社会論) 。
ラトゥールは2000〜2010年代に人類学に広く浸透し、いうなれば今日の人類学的思考のDNAの一部となっている(ブルデューの実践概念と同じくらいに)。「結合可能な不変可動物 combinable, immutable mobiles」の概念を記憶にとどめること(ティコ・ブラーエの例)。また、ラトゥールたちが広げた「アクターネットワーク理論 actor-network-theory」という考えもついでに知っておいてほしい(①人間と事物の間に差別を設けない→人間・非人間がアクター(ないしactant)となってネットワークをなす、②事実と理論の間に差別を設けない→「アクター-ネットワーク」と「理論」を同じ水準で捉える)。結局、近代科学のみならず、理論自体が脱中心化される。ラトゥールを読んでいてどこかはぐらかされたような気になるのはこの点と無関係ではない。
ラトゥールの直接的影響には二つある。一つはラトゥールの影響下で、「STS人類学」(人類学的手法を用いたSTS)が大きく発達してきたこと。我々の今日の生における科学技術の重要性からも分かる通り、STS人類学の手法や成果を視野に入れることは今日では不可欠であり、今日では人類学の全体の中でも活発な研究が行われている分野になっている(→オオツキ先生、阪大の森田敦郎さんなど)。法や経済などの近代知・近代的実践の領域を扱う民族誌的調査でもラトゥール的な方法は不可欠となった。もう一つは、ラトゥールの大きな影響のもとで、最近広く注目を浴びてきた「存在論的展開」ないし「存在論的人類学」と呼ばれる流れが出てきたこと(→デスコラ、ヴィヴェイロス・デ・カストロなど)。なお私は後者について、存在論的転回という思想上の流行を指す言葉ではなく、「自然の人類学」と呼ぶことを提唱していて、だんだん広がってきている(cf. 『イメージの人類学』, 2018; Affectus: A Jounrey on the Outside of Life, 2024)。
一般的にいうと、人類学はかつて、人間と自然を切り離し、人類学は人間の側、自然科学は自然の側、と切り分けるのが普通だった。これに対してラトゥールは自然の側における自然科学の営み自体を人類学の対象にしてしまった。つまり、人間/自然を分けるのではなく、人間=自然の全体を対象にした。ところで、ラトゥールは西欧近代科学にこのようにアプローチしたが(→今日の授業)、その延長上で、文化や社会に説明を求めるのではなく、文化=自然をまとめた意味での、人間や事物の存在の在り方が人類学の問題になってくる(→来週から残り3回)。自然の人類学ないし存在論的人類学を切り開く可能性はラトゥール以前にもあったが、ラトゥールが自然科学という近代の本丸のようなものを人類学的アプローチの対象にしたことで、一気にこの議論が深まったことは確かである。
ラトゥールが有名になったのは、カリフォルニアの先端的な生命科学のラボ(ソーク研究所)でのフィールドワークに基づく民族誌によってである。実はこの研究所の所長は、ラトゥールが調査した翌年に、ノーベル賞を受賞していて、まさに最先端の科学者集団だった。しかしラトゥールは、彼自身の言葉によれば、あたかも宇宙人がラボに降り立ったかのようにこの研究所に入り、マリノフスキがトロブリアンド諸島で行なったようにフィールドワークを行なったのである。
しかし、なぜラトゥールはそんな大胆なことを思いついたのか? ラトゥールはフランスで最初、哲学を勉強し、そのあと人類学に興味を持って、フィールドワークをしようと考えた。最初に行ったのはアフリカのコートジボワールだった。彼がそこで興味を持ったテーマの一つは、アフリカ人のエンジニアの教育プログラムだった。フランス人のスタッフが一生懸命教育しても、アフリカ人のエンジニアがうまく育たない。例えばエンジンの設計図を書くという作業を課題に出したりすると、彼らが全然うまく書けない。それでフランス人のエンジニアたちは、「どうもアフリカ人は立体感覚がない」といっていた。それはアフリカ人独特の思考の様式が障害になっているのだとか、いろんなことが言われていた。しかし、調べる中でラトゥールが発見したのは、コロンブスの卵のように当たり前のことだった。アフリカ人の若者たちは地方の村から集まってきていて、まともにエンジンを扱った経験もなかったのだ。フランスの平均的な若者にとっての常識的な知識と、アフリカの若者の常識的な知識は全然違うものだったのであり、問題は単に、アフリカ人の若者たちに教育するときに、フランスのカリキュラムをそのまま使っていたことであった。
このラトゥールの発見で大事なのは、我々が「頭の中の問題」だと決めつけて考えがちなことが、実は非常にしばしば、「頭の中と頭の外の事物とのセット」であることである。そこから浮かび上がってくる問い、それは、「じゃあ第一線の科学者たちの頭の中(あるいは、頭の中と頭の外の事物のセット)はどうなっているんだろうか?」ということである。ラトゥールはアフリカで人類学者と親しく議論していたので、では先端科学のラボでフィールドワークをしてみよう、ということになった。
幸運なことに彼は、自分と同じフランスのブルゴーニュ地方の出身の、ロジェ・ギルマンという第一線の科学者と知り合う機会があり、ギルマンがいたサンディエゴのソーク研究所で1975年10月~1977年8月にフィールドワークを行う。ギルマンは生理学者で、脳の視床下部から出るホルモンの研究で世界的な名声を博していた。事実、ラトゥールが調査を終えたのと同じ1977年、ノーベル生理学・医学賞を受賞している。
この、ノーベル賞受賞直前のラボに、ラトゥールはあたかも宇宙人が初めて研究所に降り立ったかのようにして降り立ったわけである。
ラトゥールは自然科学を「教科書の中の科学」のイメージの外に引っ張り出して、「作成過程」のただ中から捉え直した。そして、科学の実態が我々が理想化した形で持っている科学のイメージとは大いに異なっていることを示した。ところで、科学の理想化されたイメージというのは、「近代」ないし「近代人」の理想化されたイメージとも繋がっている。近代人の実態を眺めてみれば、それは理想化された近代人とは違うのではないか、我々はそもそも、我々が理想化しているような意味で本当に近代人であったことは一体あるのだろうか、こういう問いが、『科学が作られているとき』の後に書かれた We have never been modern (1991) というタイトルになっている。
当然こうした考え方は、ブーメランのように、近代の外側の研究を行なってきた人類学にも跳ね返ってくる。近代科学は一つの自然の捉え方だが、近代の外の世界では、それとは別の、しかしそれと同等の価値をもつような、別の自然の捉え方があったのではないか。人類学者は長く、それを文化の問題に帰着してきたが、問題はもっと根本的で、自然の捉え方、存在というものの捉え方と関わっているのではないか。このあたりが、自然の人類学、あるいは存在論的人類学、あるいは存在論的転回というような、近年大きな注目を浴びた領域に繋がっている。来週のヴィヴェイロス・デ・カストロはその中心的な牽引者の一人であった。