「記号」(フランス語でシーニュ signe)という言葉は、日本語では、交通標識のような人為的な約束事を思い起こさせるが、大事なことは、「あるものが別の何かを連想させる」ことである。英語の sign も、「兆し」や「徴候」として訳すことができる。
ソシュールは、この「連想」のところをもっと平たく考えて、言語の全体を、差異に基づく記号(シーニュ)の体系と考えることにより、言語の全体を一つの客体的なシステムとして捉えた。その上で、意味するもの(シニフィアン)、意味されるもの(シニフィエ)、範列、連辞という用語で、言語と事物の関係や、言語記号同士の関係を説明した。
ヤーコブソンはこの明示的な記号のシステムの下部で働いているメカニズムを考察した。例えば、それぞれの言語の発音が、母音と子音の体系によって成り立っているとして、これ自体は音韻の範列的関係をなすに過ぎない。これはせいぜい、音節を母音と子音の組み合わせに分節する(「ば」をbaとする)の分析のレベルである。これに対して、ヤーコブソンは、トルコ語の母音の例にあるように、母音の体系自体を、より深い「構造」によって説明しようとした。
レヴィ=ストロースは、このヤーコブソンの構造概念を文化・社会の分析に転用して、その下部に働いている「構造」について考えようとした。その最終的な結晶は『神話論理』全4巻だが、アメリカ大陸先住民の神話を扱ったこの本は、やや遠い世界の話のようである。これに対して、『野生の思考』は、その分析に入る直前に、自らの「構造人類学」的なビジョンを全体として展望しようとした本である。
ところで、構造概念の人類学的応用において、ソシュールの範列・連辞は、フレーザーの呪術論を想起せざるをえない。そして、フレーザーの呪術論自体は、同じスコットランドの18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームの「共感」や「観念連合」の概念にまで遡るとより広い視野のもとで理解できる。レヴィ=ストロースの「因果性」についての議論も、ヒュームまで遡ると見通しが良くなる。
記号(signe/sign): 言語を「示差的(=差異に基づく、つまり相互に区別し合う)な記号のシステム」と捉える
意味するもの(シニフィアンsignifiant; signifier): 記号そのもの
意味されるもの(シニフィエsignifié; signified): 記号によって意味されるもの。「意味するもの」と「意味されるもの」の関係は基本的には「恣意的」である(擬音語等、連関するものもあるが、例外と見なされる)
範列(paradigm) 意味的・形態的・文法的に同一レベルにあるものの相互間に存する潜在的な関係(置き換え可能な関係) cf. 辞書の類語
連辞(syntagme) 記号と記号を結びつけるときに働いている関係(統語法に基づく関係) cf.文法
※『音と意味のための6章』を参照(→本サイトにあり)
ヤーコブソンが立てる問いは、トルコ語の母音体系には8つの音素が存在するが、トルコ語の話者は実際にどのようにしてそれらの母音を聴き分けるのか、というものである。 仮説的に、各々の音素をそれ自体として——例えば「a」という音素を「a」という音素自体として——聴き分けているとしよう。
すると、例えば「a」は他の七つの母音から瞬時に峻別されることになるが、同じことを全母音について行うわけだから、実際には8母音の組み合わせの数(8×7÷2=28)である28種類の区別を瞬時に行い続けていることになってしまう。さらに子音の区別も瞬時に行うとなると、これは相当に現実味の薄い説明と言わざるをえない。
ヤーコブソンがこの説明への代案として提案するのは、トルコ語の母音の8つの音素を、潜在的な三つの対立——閉じた音素/開いた音素、前方の音素/後方の音素、非円唇音素/円唇音素——の組合せから成る体系と考えることである。トルコ語母音の8音素は実際に三つの対立の組合せとして理解でき、組合せの数としても一致する(2×2×2=8)。話者は、この三つの潜在的対立を同時に識別する習慣さえ身につければ、8つの音は毎回容易に聞き分けられるのだ。(この説明は箭内『イメージの人類学』88-89頁による)
・類感呪術(sympathetic magic): 藁人形=攻撃したい相手 (類似性)
・感染呪術(contageous magic): 髪の毛=攻撃したい相手 (隣接性)
「共感 sympathy」 :「隣接」と「類似」
・「もし他のすべての点が等しければ、人が甥よりは自分の子を愛し、従兄弟よりは甥を、他人よりは従兄弟を愛するのは自然である。→「隣接」するものへの共感
・我々は一般に仲間を愛する。イタリーにいるイギリス人は友人であり、シナにいるヨーロッパ人は友人である。」 →「類似」するものへの共感
「観念連合 association of ideas」
・ヒュームによれば、隣接性と類似性は、習慣によって、「因果性」(因果関係)という確固たる連結を形成する。(普通、「因果性」は「理性」によって上から説明されるが、ヒュームは極端に経験主義的に、因果性を「下」から構成されるものとして扱っている)
ソシュールはあくまでも記号自体(シニフィアン自体)について論じたが、ヤーコブソンは記号を下から構成していく構造に焦点をずらした。
レヴィ=ストロースはこの構造概念を広く応用したが、しかし、「構造」という概念を重要視しすぎると、レヴィ=ストロースの考察の面白さは半減してしまう。ヤーコブソンがモデル化した二項対立のシステムは、構造の典型的な例ではあるものの、レヴィ=ストロースの「構造」を端的にいえば、明示的な言語記号のすぐ下にある感覚的思考にまで「記号」の中身をずらし、むしろ後者(前言語的だが非言語的ではない思考)に考察の焦点を当てたことにあると言えるであろう。(レヴィ=ストロースは、「記号」を「イメージ」と「概念」の媒介物であると言っているが(24)、この媒介物を「イメージ的記号」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。
例えば、フレーザーの藁人形で考えれば、実際にはそれは藁人形は泥人形でもおそらく構わない。「藁人形」という物体でも、またその言葉ではなく、「藁人形のイメージ」が問題であり、それが泥人形にも通じているような、ある「形のあるイメージ」である——両者に「共通するイメージ」は「攻撃対象の人のイメージ」である。「藁人形・泥人形のイメージ」がシニフィアン(意味するもの)であり、攻撃対象の人のイメージ」がシニフィエ(意味されるもの)である。
こうしたイメージ的記号は言語の手間にあり、言語そのものではないが、言語と無関係なわけではない。「前言語的だが非言語的ではない」イメージ的記号は子供にもあるし、動物にもある。我々の無意識下でも働いている。言語がそれに覆いかぶさることで分かりくくなっている。ブリコラージュの下部にあるのはこの経験のレベルであるといえよう。