中山皓聖
・豊富な語彙をはじめとする動植物種に関する知識は、実用性ではなく、「世界に一つの秩序を導入する」(13)ために生み出されるという考えに納得した。そもそも「役立つ」「役立たない」は人間の暮らしを中心に据えた時に生まれる考えであり、「自分の暮している環境に完全にとけ込んでいる」(5)人々にとっては重要でない。実用性の概念は関係性を明らかにして知識を生産した後に副次的についてくる観点にすぎないと思う。だからこそ、自然の恵みに乏しいと思われる地にも実に豊かな暮らしが行われている、という記述になるのだと思う。
・経験的価値から正しい配列に行きつき、のちに科学によって裏付けられる例として、天気についての話があると思う。「夕焼けが見えると次の日は晴れ」「ツバメが低く飛ぶと雨」といった話は現在分かっているような科学的因果関係ぬきでつくられ、完璧でないとしても利用されてきた例だと感じる。
・It addresses somebody(26)の意味がよくわからなかった。記号が、どのような人間に用いられるかを否応なく反映することを表していると解釈した。
森山倫
・科学を絶対的な価値観として呪術を非科学的な疑わしいものとして見るのではなく、科学と呪術はただ基準としているものが異なるだけだというふうに相対的に見ているのは良い点だし、現代社会で異文化に直面した時にも生きてくる考え方だと思う。
・「現地人が直接自分に役立たぬ植物に対しても、動物や昆虫とそれらとの関係に意味があるために関心を持つ」(6)のには驚いた。自然界全体を自らの生活圏の一部としてみているからこその思考法なのだろうと思った。これは例えば私たちが世界情勢に興味があるか否かみたいなものに似ているように感じた。ある国の情勢が直接自分の役に立つものではなくとも、日本と親しい国との関係において意味があるから関心を持つ、のように感じた。
・(6)の琉球列島のある地域の人々が彼らオリジナルの方法で植物に雌雄をつけるのは興味深いと思った。雌雄の識別は「木質部や皮の外観、匂い、堅さ、その他同種のさまざまな他の特徴の観察によって行われる」とあるが、これだけ要素があれば両方の特徴を持つ種もたくさんあるだろうし、雌雄を決めることが彼らの生活にとってどのような意味があるのか、意味がないのか、ただ名付けるように親しみを込めているだけなのか、分類によって知的要求を満たしているのかなど気になった。
西川結菜
・章題にもなっている「具体の科学(「第一」科学)(21)」という言葉がどのような意図を持つのかが気になった。私は、神話的思考・呪術的思考が科学と対立し科学に劣るものではなく、並置されるべき認識様式であることを示すためにこのように名づけられたのではないかと考える。「未開」と理解されてきた呪術的な思考は、どのように混沌とした自然に対して秩序を与える(=文化・文明を作る?)のかという点で科学と異なるだけであり、その知的欲求は共通しているというのが筆者の主張である。「具体の科学」という用語にはわざわざ「科学」という言葉を用いている点からも、「未開人と文明人」という当時の偏見を払拭し、それらがともに有効な思考方法であると伝えようとする筆者の思いが反映されていると考えられるが、少々わかりにくいようにも感じた。「具体」が意味するものとは?
・無意味に対して、神話的思考が抗議の声をあげる(28)とはどういうことなのか?科学が仮説と理論を使って、出来事という形で意味を作り出していくのに対して、呪術的思考は出来事の諸要素を組み合わせることで意味を見出すことができる。その点で呪術的思考は、意味を生み出す・発見するという前進の方向性だけではなく、意味が無いように見えるものに対しても、その諸要素を再び組み合わせることによって意味を与える(再発見する)ことができるということ?
・ここでレヴィ=ストロースは、人類学者はブリコルールであるということを示唆しているのではないだろうか?「限られた可能性の中で選択を行うことによって、作者の性格と人生を語るのである。計画をそのまま達成することはけっしてないが、器用人はつねに自分自身のなにがしかを作品の中に残すのである」(27)人類学者は、フィールドという限られた場に自ら飛び込み、現場との関わり合いの中で自分自身も自分の研究も常に変容しながら、調査を行うのであり、この記述と重なる存在だと考えられる。
・「文明の一状態を要約したものである諸拘束に対した時、エンジニアはつねに通路を開いてその向こうに超えようとするのに、ブリコルールは…その手前に止まる。言い換えれば、技師が概念を用いて作業を行うのに対して、ブリコルールは記号を用いるということになる。…概念が現実に対して透明であろうとするのに対し、記号の方はこの現実の中に人間性がある厚みを持って入り込んでくることを容認し、さらにはそれを要求することさえある」(25-26)記号、イマージュ、概念などの関連や使い分け、また「人間性がある厚み」という部分が意味するものが、よくわからなかった。レヴィ=ストロースはどこからこうした単語や言葉を引用してきているのだろうか。
川田寛
・後進地域と言われている現地住民の動植物への知識が博識すぎて、また彼らの知識欲が強すぎて、文化人類学者がついてゆけないという話(7)が面白かった。自分は前期課程で基本的な生態学は学んでいるけれど、フィールドワークで細かすぎる生物種を延々と説明されたら困ると思う。
・フィールドワークで、なぜ現地住民が文化人類学者に惜しげもなく知識を披露してくれる(場合がある)のだろうかと思った。トラスクのように生理的に嫌われる時ももちろんあるのだけれど、そこら辺の、調査に来た学者に知識を授けようというマインドのあり方にも興味を持った。
・美術の話で、実物の要素のうちいくつか、いくらかを「縮減」することによって作品が生み出されるようなことが書かれてあった(29)。ここでは概念の範囲として模型<美術なのか?それとも、縮減の話をよく理解してもらうために模型が出てきているのか?
秋場千慧
・民族集団によって同じ分野に着いての語彙の豊かさに違いがあるということは、「ものが先か、名付けが先か」の議論と関連しているように思う。ピグミー族の動植物への知識の豊富さに関する部分(6)があったが、ピグミー族には各種のコウモリの名前の語彙があり、彼らにはそれらが個別のコウモリに見えている。一方コウモリに関する語彙が乏しい民族からすれば、コウモリはみんな同じようなものであり、個別のコウモリの差違に注意を払うことがない。つまり彼らにとって「コウモリ」は存在しても、個別のコウモリは存在していないようなものである。
・様々な民族集団において語彙の豊かさが違うということは、世界を異なる細かさで区切っていることであり、語彙を調査するだけでその社会の人びとがどのように世界を見ているかが分かるのがおもしろい。
・(14-16の抜粋部分について)人類学の文献を読んでいると、私にとっては非科学的で根拠がないように思える呪術的な記述について、著者が何の注釈もなく自然な因果のように語っていることがあり、疑問に思っていた。しかしこの部分を読んで、自分が科学的だと思っていることが相対的に説明されていることに衝撃を受けたとともに、人類学文献に対するこれまでの疑問が解消されたように感じた。
高橋征吾
・使わない爬虫類を知っても意味がないとか、キツツキの嘴を触っても自分の歯が治らなければ意味がないとか、少なくとも西洋近代社会ではそう考えられて、それは近代社会が科学に対して実際上の効果の有無を要求している傾向があるからだと思う。科学には効果の追求という意味の以前に、知ること自体や秩序を形成するという意味があるということはわかっているはずなのに、使わない爬虫類を知ること、キツツキの嘴を触ることに「意味」があるのだろうかと我々が直感してしまうのは、それだけ我々がある行為の意味を一元的に考えている、自分たちのレンズで常に物事を見てしまうということなんだろうなと思った。
・科学と呪術を相対させ、どちらも体系化、組織化という欲求が根底にあってその到達方法に差異があるという論調は、根底にあるものを炙り出そうとしている点で、レヴィ=ストロースっぽいのかなと思った。
・科学やゲームがあらかじめ用意された構造から出来事を生み出していくという点からは進化論的、通時的な直線を想起し、対してブリコラージュや神話的思考や儀礼が出来事やパーツ、配列を組み換えながら手段や目的になっていくという点からは反復的、共時的な円を想起した。しかしここまで単純化して良いかはわからない。半永久的な未開と変容し続ける先進という観念が潜在しているような印象も受けるし、そもそも儀礼が配列を組み換え続ける過程において、配列要素自体が変化するということもありうると思う。
田中美衣
・8〜9ページの具体例、現地人の植物に関する知識の豊かさに触れたときのスミス=バウエンとGilgesの反応について、前者は、現地人は関心を持っている一方で、自身に関心がないために知識を共有し得ないと考えているが、後者は自身の医学の知識と組み合わせたら有益になるだろうと考えており、観察者自身の経験によって対照的な反応を示しているというのは興味深い。
・「共通性という角度から接近すれば、我々にとって異質と思われる思考形態を理解することがより容易になるからである」(13)ということは当然のように思われるが、民族誌を記述する上で意識する必要があることだと思われる。
・「呪術の儀礼や信仰はそのまま、やがて生まれ来たるべき科学に対する信頼の表現ということになるであろう」(16)という部分において筆者が言おうとしていることがよく分からなかった。その後17~18ページ、28ページなどで、神話的思考が科学は発展の二段階ではないということが明示されており、そうした主張とは矛盾するような感じがした。
・「通時態と共時態の関係は逆転している」(28)とはどういうことか。
北村晴希
・「シンプソンが19世紀の生物学に例を借りて示しているように、科学的説明とは常にある「配列」の発見に対応するものであるから、この種の試みは全て、かりにそれが非科学的な原理に基づくものであっても正しい配列にぶつかる可能性があり、そのためにこの先駆現象が生ずるのである。」(p16)
この部分を読んで、先日の授業で中村先生が鍼灸に通っているという話をされていたことを思い出した。鍼灸はどこか呪術的な儀式っぽい雰囲気がある。また、2000年前からあるようで、当時はどういうメカニズムで効果があるのか解明されていなかったと思うが、現在では科学的な効果を認められている。
・p26の途中の「心像は観念ではありえない。」から始まる部分が理解できなかった。
・どんな秩序も無秩序よりは良いということが本書では繰り返し述べられている。最初は疑ったが、「分類は、たとえ奇妙で手前勝手なものであっても、豊富で多様な事項の全容を保全する。」(p21)という部分で納得できた。大学受験の世界史では断片的な知識を暗記することを求められる場合が多々ある。様々な情報を勝手に音の響きで分類したり、歴史的にはさほど関連のない情報間に関係を見出したりして暗記することがあった。しっかりと歴史の流れ通りに覚えている人にはかなわないかもしれないが完全に忘れるよりは遥かに多くの情報が記憶されるという意味で非常に有効な戦略であるが、神話的思索はそれと似ているのではないかと思った。
巽篤久
・8-9ページの植物に関して非常に詳しく熱意を持って語る農耕民の事例が、いとこの子供がプリキュアの話をしてくれた時と似ていて、その時のことを思い出した。
・14ページの河川徒歩の際の祈りのように、日常的に唱えられる祈りや、15ページのような目に見えない意思を持った存在はイスラームの教義でも認められており、純粋なスンナ派神学の外側では民間呪術信仰やスーフィズムと結びついてローカルな発展をしていることもある。それは一神教の純粋な神学ではカバーしきれない秩序の穴を埋めるような役割があると思った。
・28ページ「それら(神話的思考と科学)は人智の発展の二段階ないし二相ではない。なぜならばこの二つの手続きはどちらも有効だからである。無意味に対したとき科学はあきらめて妥協したのであるが、神話的思考は抗議の声を上げる」という一節では、進化論的な初期の人類学で科学の前時代的なものとして、追いやられたアニミズムや宗教の可能性を捉え直しているように思えた。
原菜乃葉
・「あるべき場所を占めているということで、聖なるものは秩序の維持に役立っているのである」(14)や、分類それ自体を秩序と結びつける考え方は、構造主義の入門書(小田亮『構造人類学のフィールド』だったと思う)で、タブーによってある集団を分断することで文化を作り出す、と解説されていたのを思い出した。まさにレヴィ=ストロースの解説だったと思うが、私の理解が正しければ、近親婚のタブーはそれ自体によって「近親」の定義を作り出し、それによって文化や社会が形成されるという話だったと思う。
・呪術が因果を非常に重視するという話(15前後)は、以前土屋先生の授業で解説されていた「なぜ他でもない私(あるいは◯◯さん)がこんな目に遭うのか、という個別の因果関係を説明するのが呪術」というのがわかりやすかった。
・ブリコラージュのくだりは正直あまり理解できなかった。ソシュールっぽい部分(23-24、25-26あたり)を読むに、科学的思考は抽象的なもの(「概念」)を使って思考するが、神話的思考は、具体的な経験に基づくできごとや知覚で得た観察結果(「心像」)と「概念」の両方を併せもつもの(「記号」)を用いて思考する、みたいなことだろうか。
楠田薫
・「心像は観念ではありえない。しかしそれは記号の役割を演じうる。より正確に言えば、心像は記号の中に観念と同居することができるし、またもし観念がまだそこに来ていなければ、将来それが来るべき場所をあけておき、陰画的にその輪認をうき出させる」(26)の意味が掴めなかった。周りの文章では「概念」という言葉を使っているのになぜここだけ「観念」なんだろう?
・全体的に二項対立を用いた議論だったのに、「神話的思策の諸要素はつねに知覚と概念との中間に位置する」(23)と神話的思考は二項対立に当てはまらないものと位置付けているのが重要そうだと思った。
・器用人だけでなく科学者もまた制約の中で考えているという留保をちゃんと付けたのが現実をよく見て考えている感じがしていいと思った(25)
山本大貴
・物的欲求に限らず、知的欲求に基づいて知識を細分化、体系化していることについて、その知的欲求の方向性が、人々が暮らす環境に依存しており、外部からは異質に感じられるだけで、全ての人が意識的にあるいは無意識に行なっているのだろうと感じた。
・呪術と科学の関係について、両者を認識の異なる二つの様式として捉え、知的操作が適用される現象のタイプが異なるとする考え方により、現代においてもその在り方が変化しながらも意味を持っている呪術を理解することができるようになると思った。
・神話的思考によって出来事の残片が組み合わされて構造が作られることと、科学があらゆる出来事の外に無関係に創始され、存在している構造をもとに出来事を作ることは、逆方向の手続きを表しているのではないかと考えた。
井出明日佳
・「呪術的思考」(15)と「神話的思考」(22以降)は指示する内容が異なる言葉なのか。
・今回の読んだ範囲の理論的部分には、神話的思考と科学とが比較して書かれていた。では、『野生の思考』自体はどういった思考の様式に基づいて書かれたのか。
・神話的思考について、「前には目的であったものがつねにつぎには手段の役にまわされることである」「所記が能記に、能記が所記にかわるのである」(ともに27)とは、具体的にはどういった状況を指すのか。
阪田天祐
・なぜ「未開人」と表現するのか?
西欧人の“異常”な世界との対峙→西欧世界を進化の先端におき、“異常世界”の“野蛮さ“を強調し劣位におくことで西欧の合理性と自律性を守った文化進化論
→文化進化論の進歩主義と普遍的に妥当な価値体系があるとする立場を否定しようとした文化相対主義:「異文化としての「未開」社会を自分たちの過去ではなく、今度は自分たちの社会とは完全に異なる異質な他者として描くことによって、自分たちの社会を護ろうとする」(綾部恒雄「文化人類学20の理論」5章 小田亮「構造主義」より)
→構造主義がたつ文化相対主義:各文化は各文化のコードである。また、他の文化を規定する絶対的かつ普遍的なコードは存在しない。対話を拒絶しない。
構造主義の立場からして、「未開人」の思考は、西欧人の思考に比べて劣ったものでもなければ、純粋な原型でもない。呪術的認識は、科学的認識と並ぶ人間の認識の二様式のうちの一つ。
では「未開」とはどういう意味か?異質なものの一つということ?(原型という意味ではなく「科学の先駆け」的意味合いで)古い時代からあるということ?それともただ文化進化論を否定するために分類をなぞっているだけ?
「成績という点では科学が呪術より良い成績をあげることは事実である」(18)成績とはどういう意味?
・構造主義は本質主義・機能主義とどう違うのか?
・(文化人類学・民俗学は“具体の科学”か“自然科学”か)
・「記号も概念も、それ自体だけに限られず、自己以外のものの代りになることができる。もっとも、概念はこの点で無限の容量をもっている(が、記号の容量は有限である)」(24)とはどういう意味か?
記号の容量が有限なのは、「人間性が入り込んでくる」(26)から。記号は使い古されることで使用者の観念が蓄積され、転用可能性が限定的になってくる。
「概念が現実に対して全的に透明であろうとする」(26)がよくわからない。概念も使い古されれば、反復される世界の切り取り方として固定化し、制約のない転用は不可能ではないか?
・「心像は観念ではありえない。しかしそれは記号の役割を演じうる。より正確に言えば、心像は記号の中に観念と同居することができるし、またもし観念がまだそこに来ていなければ、将来それが来るべき場所をあけておき、陰画的にその輪郭を浮き出させる。心像は固定しており、それに伴う意識の行為と一義的に結合している。ところが記号、ならびに能記となった心像は、まだ内包をもつに至らないけれども、つまり同型の他の存在との間に同時的でかつ理論上無限の関係を作り出してはいなきけれども―それをもつのは概念の特権である―すでに置換可能である。すなわち、数は限られるけれども、他の存在と継起的関係を結び得る」(26)とはどういう意味か?
そもそも心像=表現?心像が記号の役割を担うとき、それはもう記号ではないか。
心像が陰画的に観念の輪郭を浮き出しておく、とはどういう意味か?
記号となった心像が換可能・他の存在と継起的関係を結び得るとはどういう意味か?記号が置換可能なことはわかるが、記号となった心像が、とはどういう意味か?
・「それは解放者でもある。無意味に対したとき科学はまずあきらめて妥協したのであるが、神話的思考は講義の声を上げるからである」(28)とはどういう意味か?
保科昭良
・文化人類学の前提となるような論なのかなと思った。
・具体の科学というタイトルからどのような話に展開していくのかワクワクしながら読んでいたが、21ページ「ある種のタイプの発見とは、感性的表現による感覚界の思弁的な組織化と活用とをもとにして成し得た自然についての発見である。このような具体の科学の成果は、本質的に、精密科学自然科学のもたらすべき成果とはことなるものに限らざるを得なかった。」ここの点で『具体の科学』という言葉が使われ、ここの部分までに未開思考やさまざまな先住民や地域の非文明的な思考として論じられてきたものと、それ以降の器用人の論をつなぐ言葉として《具体の科学》というタイトルはすごく適切だと思ったし、読み物としてこのときにタイトルが回収されたのは読み物として快感を得られた。
・17-18ページで呪術的思考も科学的に正しいものに遭遇する可能性があり、有効性を含んでいるという論のあとの、「呪術的思考は、まだ実現していない一つの全体の発端、冒頭、下書き、ないし部分ではない。それ自体で諸要素をまとめた一つの体系を構成しており、従って、科学という別の体系とは独立している。」ここの箇所で、それまで呪術的思考も科学的に有効で、じゃあ有用じゃないか、とどこか近代的科学思考のうちにいる自分に気付かされたようだった。