・「リミナリティは、しばしば、死や子宮の中にいること、不可視なもの、暗黒、男女両性の具有、荒野、そして日月の蝕に喩えられる」(127)→リミナリティの比喩に共通していることは何か?死んでいること、子宮の中にいること、見えないもの、男と女のどちらの性も持ち合わせていること(ここではどういうことか?自己を両方の性だと認識しているということ?)、荒れた地(急に情景的なイメージが出てきた)、日食・月食(自然現象?ここでは「論語ー子張」の一説だと考えられる:「君子は、たとえあやまちをおかすことがあっても、日食や月食がすぐに消え去って明るさをとりもどすように、すぐに本来の徳性にかえるものである」)。これらの比喩はあまりにバラバラで並立できるような概念ではないように思える。この民族誌に幅広い地域の例が取り上げられていることからも、これらの比喩は地域ごとにおけるリミナリティの象徴であり、それ故に多種多様なのかもしれない。[西川結菜]
・「それはむしろ、それなしには社会がありえない本質的で包括的な人間のきずなを認知することである。リミナリティには、地位の高いものは低いものが存在しなければ、高くない、また、地位の高い者は低い者が経験することを経験しなければならない、という意味が含まれている」(129)→それ=「通過儀礼を経ることで”聖なる”要素がその地位に就く人たちに賦与されること」。本質的で包括的な人間のきずなとは?「地位の高いものは低いものが存在しなければ、高くない」、すなわち、社会的存在としての人間は、相対的であると言い換えられるだろうか。あるいは相対的であるというより、人間は相互不可欠で相互補完的な存在であるということだろうか。また地位が高いものと低いものに二分化されているが、その中間的な存在については考慮されていないのだろうか?そもそもかなり強い二項対立的な思考はどこまで現実の社会とマッチしている(していた)のだろうか?[西川結菜]
・象徴という概念についてより詳しく知りたいと思った。ターナーの儀礼論において、象徴にぴったり当てはまるような概念を理解することができなかったが、ターナーはどのように象徴人類学を発展させてこの民族誌を記述したのだろうか。またそもそも象徴人類学とはどのような研究・調査を扱っているのか。[西川結菜]
・「~を象徴している」「~を意味している」と言う表現が度々出てくるが、なぜそういえるのだろうか。どのような論理で、ある記号が何かを象徴していると説明しているのか。その土地の人がそう語ったから?構造人類学や象徴人類学は、何を根拠に「構造」や「象徴」の正しさを主張するのだろうか。例えば、(132)(134)[阪田天祐]
(権力)
・ザンビアのンデンブ族の例(p.130)で、アフリカでは、征服者が征服した土地の土着の信仰を尊重する姿勢が描かれていたが、それが本質的に何故なのかについてまでは読み取れなかった。[川田寛]
・「首長」と「酋長」(131)が使い分けられているがどのような意図があるのか。[山本大貴]
・p130-132あたりについて、ルンダ族(最高位はムワンティヤンヴワ)の一派にルンダ人のンデンブ族(最高位はカノンゲシャ)がいる。ンデンブ族に征服されたンブウェラ族の一支族の長(カフワナ)には、儀礼的な力が付与されている。のだと解釈しました。この理解と照らし合わせたときに「その起源がムワンティヤンヴワにあることは、ンデンブ族の人々(傍点)の歴史的一体性と、カノンゲシャの統率下における各支族への政治的分化とを象徴した」(132)という箇所がよく分からなかった。[井出明日佳]
・弱い政治的中央集権を支持するもののひとつ(p.131)とあるが、ここで「集権」が起きているのはカフワナだろうか、それともカノンゲシャだろうか。(中世ヨーロッパみたく「宗教的権威」と「政治的権威」が分立しているという理解は果たして正しいのか?)[川田寛]
・儀礼に参加してののしる一般の人々は、この儀礼の意味をどのように捉えて理解しているのだろうか。[山本大貴]
・儀礼を経た首長は実際に利己的な行動を抑制できるものなのか気になった。儀礼過程のみならず、法で利己的な行動を制限するのだろうか。[井出明日佳]
・首長をもっているコミュニティでは、首長が強大な決定権と支配力をもって人びとが支配しているようなイメージを持っていたが、実際にはンデンブ族のように、首長の立場の土台には強い公益性の意図があるということを知って新鮮だった。[秋場千慧]
・149頁で触れられているように、支配構造の中にあって支配層を合法的に非難する例外が構造的に設けられていることや、そのような構造が様々な社会において見られることは興味深い。[秋場千慧]
・通過儀礼において、構造的には劣位にある人々が、優位にある人々を人間として正しい方向に導くということ、逆転現象が起こるということは興味深い。[田中美衣]
・通過儀礼を通じたその人自身の状態の変化は、内面の変化と他者との関係性や集団の中の位置付けの変化の両方を伴うといえるのではないか。[田中美衣]
・機能主義の観点からすごいと思わされるような制度や慣習について読むと、どういった人たちのどういった動機のもとでそれが形成されたのか気になってしまうのですが、それは無駄な(または不可能な)議論なのでしょうか。[北村晴希]
(劣位)
・「“境界に”あることと″劣位″であることは、儀礼の力と、また、未分化なものと考えられる全体社会と、関係づけられることが多い。」(133)の部分がよくわからなかった。[山本大貴]
・「”境界に”あることと”劣位”であることは、儀礼の力と、また、未分化なものと考えられる全体社会と、関係づけられることが多い」(133)とはどういうことか。[森山倫]
・部族社会の儀礼でのことばが「存在論的な価値をもつ」(p.139)ことを理解するのが難しかった。「存在論」はドイツ哲学でよく耳にするけれど、誰の流れを汲む語なのだろうか。[川田寛]
・性的禁欲がリミナリティの特徴であり、再統合されて性的関係を再び持つことができるという考えが興味深かった。そもそも性別すら未分化のリミナリティに性的関係は存在しえないと思う。同時に、「妻は妊娠していてはならない。その後に続く行事は豊饒さを破壊するためにおこなわれるからだ」(134)ということがよくわからなかった。単に妻にとって身体的に負担になるということを表すのか、性的禁欲状態で、白紙になったうえで、それとも人間の豊饒さやカノンゲシャの母なる存在のカフワナから力を授かることに由来するのだろうか。[中山皓聖]
・強者よりもむしろ弱者が普遍的人間性を持つとされていることは神話の例などでは理解できるが、日常生活ではそのような状況はあまりないように思った。[楠田薫]
(境界にある人たちの諸属性)
・「リミナリティが未分化である」(140)とはどういう状態か。[森山倫]
・儀礼において実際に非難をしたりする人の存在とその機能がありながら、リミナリティにおいて修練者たちを地位にふさわしい人間にする力を「人間の力以上のもの」(143)に結びつけているのを興味深く感じた。[山本大貴]
(他律性)
・本書の議論とは微塵も関係ないのだけれど、カフワナの説教の場面で、キリスト教の「七つの大罪」を想起した。妖術が他の悪事と同列に扱われているのがアフリカらしいな、とも思った。[川田寛]
・他律性の章で、境界の通過という概念を「聖ベネディクトゥスの定めた西欧キリスト教の戒律」(p.145)つまりは修道院の修練者たちの規律と結びつけている。が、修道院は、アフリカ部族社会の儀礼と異なり、「教会を抜けた先の構造」がないという点で、「境界が終着点」というかなり絶望的な理解ができることに気づいた。[川田寛]・(147)にて隔離小屋における訓育者の長のムフムワ・トゥブウィクという称号が”修練者たちの夫”を意味することが記述されているが、この文脈において「修練者たちは妻=受動的な存在」という認識で正しいか。またその場合どうして直後に「そのグループ全体の父親」(147)と記述されている通り、”修練者たちの父”にしなかったのだろうかと思った。[森山倫]
・儀式においては身分を剥ぎ取れられてンブウェラ人などの劣位なものを思いやることの必要性が強調され、また性別を剥ぎ取られて女性を思いやることも強調されているにも関わらず、その結果として既存のヒエラルキーを問い直すということはしないのが興味深いと感じた。[北村晴希]
(神秘的な危険と弱者の力)
・「分類の境界にあるものは、ほとんどいたるところで、″汚すもの″、″危険なもの″とみなされている」(148)の部分は、前回登場した人の秩序への欲求と深く関わっていると思った。[山本大貴]
・「低い身分や地位のものが永久的に、あるいは、一時的に帯びる神聖な属性」(p.148)で、著者が敢えて「神聖な」という表現を使っている意味とは?[川田寛]
・他の状況下では“汚すもの”とみなされる境界的な状況が宗教という文脈においては神聖さを帯びることはなぜ可能なのか。人は何を「神聖だ」と感じるのか。[北村晴希]
・149ページ前後で宮廷道化師やドラマー(太鼓手)の例を引いて、弱者や外部性による権力の転倒について言いたいのは理解できたのだが、それがコムニタスの象徴として云々というのはあまりしっくりこなかった。[原菜乃葉]
・コムニタスを志向する運動により「理念的には、人間性の限界まで拡大しうる」(152)とはどういうことか。[山本大貴]
(千年王国運動)
・千年王国論運動のようにコムニタス的な社会を目指す運動は移行期にあろうと安定期にあろうと弱者を抑圧する社会においては発生しそうだと思ったが、なぜ「その社会の主要な集団や社会的部門がある文化的状態から他の文化的状態に移行しつつある」(152)ときに起こるのか。それはコムニタスを形成しようとする動きを抑え込もうとする力が弱くなるからなのか。(このような動きが歴史に残るほど大きくなる前に潰されるだけで移行期以外にも発生はするのか)それとも弱者を強く抑圧しようとすると必然的に社会が不安定になるからなのか。それとも移行期にあることと運動が起こることの間には因果関係があるのか。[北村晴希]
・「この種の運動の多くが、勢いの盛んな初期の段階で部族の区分や民族的差別をすぱっと切り棄てる」「可能性として、あるいは、理念的には、人間性の限界まで拡大しうる」(152)とあるが、宗教運動である以上、その宗教の中に閉ざされていることに変わりはないのではないかと思う。[原菜乃葉]
・「実際にはもちろん、その勢いはまもなく枯渇し、”運動”それ自身も、ほかの諸制度のあいだのひとつの制度ーそれ自体が普遍的人間の真理の、他に類例のない担い手であると感じているために、他のものよりも狂信的で戦闘的な制度ーになってしまう」(152)→何を示唆しようとしているのか?ここでの制度は、構造化・体系化された社会を機能させるものを指していると考えられる。安定した状態にある社会を変革する運動は、リミナリティの段階を経て、弁証法的に別の文化的状態へと移行させるが、そうした運動が移行であり続けることはなく、いずれ状態の中に吸収されていく。さらにその運動が普遍的人間を代表するような”アウトサイダー””弱者”によって推進された強力なものであるが故に、状態化するとその分堅固なものになってしまう、ということを意味していると考えた。[西川結菜]
・151-152ページの千年王国論運動には、日本だとオウム真理教の例が当てはまると思う。オウム真理教ができるずっと前からその誕生を予見していたような記述には驚いた。視覚障害があり構造的には弱者であった麻原が社会構造に逆行して「人間性を求める情操(150)(真理)」を説き、コムニタス的特徴が顕著に現れる教団を作ったのも興味深い。また著者が言うように、オウム真理教も「それ自体が普遍的人間の真理の、他に類例のない担い手であると感じているために、他のものよりも狂信的で戦闘的な制度(152)」と成り果てた。その教団の過激化プロセスにおいて、真理は存在論的価値を持つ全体社会の権威からではなく、個々の修行によって得られると考えられ、事実教団内では各個人で修行に励むことが「イニシエーション」と呼ばれていたことも考察に値する。[巽篤久]
(儀礼)
・「われわれの関心の焦点は、ここでは、産業化以前の伝統的な社会にあるが、コムニタスと構造という二つの次元は文化と社会のすべての発展段階や水準にみられるものであることが明らかになっている。」(154)からも分かるように、キリスト教の事例などを挙げながら通過儀礼が現代社会でも行われていることを示していたのは興味深かった。[田中美衣]
・全体として。「境界性」という概念を主軸に、アフリカ部族社会の儀礼からはじまり、実は西欧のキリスト教社会にも敷衍できることを示した上で現代社会のヒッピーのような社会現象をも説明できるという点で非常に興味深い。原著ではもっとわかりやすいのかもしれないけれど、「コムニタス」の概念を日本語でもっと明確にできるかという観点で再読するのもよいと考える。[川田寛]
・お葬式はまさに通過儀礼だと思った。仏教式のお葬式を例に考えると、亡くなった人は身分や性別に関わらず白装束を着て、完全に受動的なプロセスを経て、僧に戒律を授けられ、俗名から戒名に名前をかえて仏になる。ただ、それが通過前の状態にいる人によって執り行われている点が本章で挙げられた儀礼と異なるところか。例えば、先祖の霊を列席させるというようなことがあってもいい気がしてきた。[楠田薫]
・低い地位から高い地位への移行は過渡期を伴う(129)ということだが、高い地位から低い地位への転落の場合はどうなのだろうか。その場合には新たに高い地位に取って代わった人の儀礼が前景化され、転落した人は儀礼なしにひっそり移行しているのか。[楠田薫]
・この文献を読んで、これまで人類学を勉強してきたなかで学んだ様々な文化において境界の存在的なものがあることに気がついた。マダガスカルの文化では儀礼が済む前に死んだ子供は精霊的な存在として他の亡くなった人と一緒に埋葬しないというし、日本の49日の慣習も、「死の通過儀礼」の話に関しても、生と死の間の領域のようなものではないかと感じた。このように考えると、様々な文化で様々な領域の期間があることが予想され、おもしろい。[秋場千慧]
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・連想だが、制服やなどで同質性を表し、従順であることが求められるという点では、学校という空間は、ある種儀礼的側面があると思った。[原菜乃葉]
(コムニタスとは何か)
・その部族や社会の中で正しいとされる形で次の姿に移るために、リミナリティにおいて人々が白紙状態になる・させるというのは、果たして本当に普遍的なことなのかどうかわからないと思った。[高橋征吾]
・光と影のように、AであるからAではないものが生まれるのだと思う。構造があるからそうではない様相=コムニタスが識別され、富裕者がいるからそうではない姿=卑賎が意識され、あるべき姿があるからそうではない姿が浮き出て、その二つの間の境界が立ち現れる。[高橋征吾]
・なぜそもそも構造が生じるのだろうかとも思う。コムニタスでしか存在しえないことということはあり得ないのだろうか。千年王国やヒッピーのように、コムニタスとして生まれた社会が、永続的に存在できないことが、構造が生じてしまう一つの証左なのだろうか。[高橋征吾]
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・最後の箇所でヒッピーもコムニタスの一種として挙げられていた。たしかに「浮浪者のような恰好をして」社会の枠から外れようとするところはコムニタスと重なる。ヒッピーが再統合されて落ち着く先はどこなのだろうか。下北沢でヒッピーが集まる古本屋に行ったことがあるが、そこの人々は90年代から現在までずっとヒッピーであるようにみえた。彼らは永続的にリミナリティなのか、それとも私が目にしたのは既に通過儀礼を終えた状態だったのか考えてみたいと思った。[中山皓聖]
・戦略的本質主義の考えも、リミナリティの一種として捉えることができると考える。一時的にみなが同質のものとしてふるまい同一の本質主義的主張をすることで、新たな社会的受容状態にうつり、安定化した構造に落ち着く様子は、通過儀礼として考えると納得できると感じた。[中山皓聖]
(現代日本)
・「全体社会の権威以外のなにものでもない権威に服従しなければならない」(138)と「かれは、自分の特権は全体社会の贈り物であり、全体社会は究極的に、自分の一切の行為を超える権利を持っていると心得ねばならないのである」(140)という記述から、首長はあくまで民意を反映させる機関のような存在であらねばならないという、現代日本社会の民主主義的な考え方と通ずるものがあるように感じた。また「権威者は、権威者とそれ以外という二元的な枠組みで見ると、ある意味で孤立していて弱い存在であることを忘れてはならない、あくまで構造が個人に権威を与えていて、それは公益のために使わねばならない」という意志を儀礼から感じたが、果たして現議員などはどのくらいこの意識を持っているのかと思った。もしかしたら選挙がある種儀礼のような役割を果たしているのかもしれないとも思った。[森山倫]
(部活の例)
・東大ア式蹴球部には、新シーズンが始まる1~3月ごろに「追いコン」という行事があり、その中で2年生はほぼ全員、漫才をさせられる。代の「移行」に際し、部の伝統に全面的に服従し、学年や序列関係なくコンビを組んで、滑稽なロールプレイをする。部員全員が会に参加し、皆が皆の漫才を、深く考えることもなく単純に笑い、楽しむ。こうして自分たちの同質性ときずなを再確認し、1年生は2年生の、2年生は3年生の、3年生は4年生の構造的役割への移行を果たす。
この行事がとてもコムニタスだと思うのは、特に、選手とテクニカルスタッフの関係性においてである。普段、選手とテクニカルは部内で全く異なる役割を担っており、たむろする場所も明確にことなり、それぞれ別のコミュニティでいる。しかし追いコン内で両者が区別されることはほとんどなく、むしろ選手とテクニカルのペアでコンビを組むことが求められる。2人は漫才のネタ作りにおいて(象徴的に)同じ役割に置かれ、また2人のネタは普段話さないような選手にもテクニカルにも笑われる。
そして、追いコンは単なる代の「移行」だけではなく、部外者から部員への「移行」も兼ねている。入部したはいいものの、部員としての役割をまだ担っておらず、異質さを漂わせていた2年生の途中入部者も、2年生のほぼ全員が構造的役割から「分離」させられる追いコンの漫才への参加、謙虚な努力、そして笑われるという、「境界」における儀式により、部員として認められ、新たな役割を任せられて「再統合」される。
しかし、追いコンにおいて漫才を行うのは、2年生の選手だけである。マネージャーは漫才をせずに会に参加することが通例となっている。選手の男性性とマネージャーの女性性を、互いに追認しあい構造化しているような感のあるア式蹴球部男子部において、少なくとも追いコンは、この役割差(性差?)を残している。[阪田天祐]