・論理構造が緻密に積み上げられており、理解するのが非常に難しかった。特に、「正統的周辺参加」や「実践共同体」という用語の意味について。[阪田天祐]
・この文章は根拠をあまり丁寧に示さずに「〜である」と言い切っているような部分が多く、個人的にはあまり説得力があるとは感じなかったのだが、それは自分の前提知識が不足しているからなのだろうか。またこの本がこの授業で取り上げられるほどに評価されているのはなぜなのか。[北村晴希]
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・実践共同体という言葉について、「実践」という言葉を使ったのは、ブルデューの理論が念頭にあるのだろうかと思った。本質が変化だという点(104)からも、ブルデューの実践についての議論を踏まえてるように思える。[高橋征吾]
・実践的共同体での正統的参加者になることがアイデンティティの形成に結びつくということが印象に残った。ブルデューの話を発展させて、人間の自発性に基づくハビトゥスの実践が集団の形成や維持に寄与するだけでなく、個人の自己形成や維持に関わっているということは興味深かった。[田中美衣]
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・この本では「教育」が「学習」と明確に区別され、相対化されているが、「教育学」はこの本をどう受け止めているのか気になった。[阪田天祐]
(徒弟制とは)
・「今日の西アフリカでは、複雑な理由(とくに貧困、膨大な人口、手工業の熟練者の未組織性)から、比較的おだやかな、比較的平等主義的な非搾取的な特徴が徒弟制に見られる。」(41)とあるが、「搾取的」・「非搾取的」とは何か?資本主義経済において、搾取的でない労働など存在するのか?徒弟制の基準は何か?[森山倫]
・ユカタンの産婆の徒弟が質問しないということ(47)からも、徒弟制には「見て盗め」的な価値観があるように思える。いわゆる職人技的なことだけでなく、もっと身近な、例えば飲食店でのアルバイトとかでも、前から働いている社員さんから、新人のアルバイトが仕事を教えてもらって学ぶ/見て盗む(模倣する)ことはよくあるように思える。またもし徒弟制がインフォーマルにしか組織化されていないこととするなら(この本ではその想定を疑問視しているが)、一見全く徒弟制とは関係なさそうな飲食店などでも、全てがマニュアル通りというわけではなく、その場その場のインフォーマルな対応策が生まれることも往々にしてある。であれば、これも「徒弟制」の一例と言えるだろうか?やはり、徒弟制を徒弟制たらしめているものは何なのか?[森山倫]
・(44)後半~(45)前半部それぞれの徒弟制の形態が紹介されているが、徒弟制は文字通り「親と弟(子)=家族になる=生計をともにたて合う同士になる」ことが重要なのかなと思った。[森山倫]
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・「表面上の主たる組織上の形態が規定することへの反抗」(42)とは具体的に何を表しているのだろうか。学習者たる周辺参加者の存在そのものがが、規定されていない存在であり反抗であるということか。[山本大貴]
・仕立て屋の話で、「衣服についての一種の第一次近似」(p.51)が突然出てきたが、これは師匠の動きを観察しながら見よう見まねで衣服を作っていくことを指すのか。[川田寛]
・「当初の、部分的で周辺的で見かけ上ささいな活動(使い走り、メッセージの配達、あるいは他人への同行)に取り込まれた「遠巻きからの」見方は新しい意味をもってくる。すなわちそれは実践共同体の構造の骨格に対する一つの第一次近似を提供している。学習される事柄や多様に変化する見方は、この骨格の理解を徐々に変形していくようなやり方で整えられ、相互に関連づけられていく。」(78)で、農場でアルバイトをしていたときのことを思い出した。初めは簡単な野菜の袋詰めの作業だけを任されて、先輩の指導のもとでそれをひたすらやっているうちに、農場の一日の流れや他の人の動きなど全体についての粗いイメージが出来上がる。収穫や播種など別の仕事にも参加させてもらえるようになると、自分の中にある全体像がより細かになったのを思い出した。わたしは期間限定のアルバイトだったためできる仕事に限りがあったが、1年以上働いているスタッフはその日や向こう一週間の天気予報、出荷先からの依頼量の予想など、より複雑な要素を組み込んだ全体像を持って判断を下しているようだった。[井出明日佳]
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・「ユカタンの産婆にとって、徒弟制は日常生活に不可分にとりこまれており、徒弟関係が認められるのは、彼女たちが徒弟としての任務を果たした事実のあとである。」(45)の記述はいまいち納得できなかった。いわゆる「師弟関係」のような関係性であれば、弟子が師のものに入門したときから関係性は始まってると思うが、徒弟としての任務を果たして初めて関係性が認められるという、後から関係性が証明される形式は不思議な感じがする。(ちゃんとスキルが受け継がれてやっと一人前と認められる感じだろうか)[秋場千慧]
・「入門レベルの仕事の知識は最大の冗長度(内容の重なり)で、熟練者レベルの仕事の知識は最小の冗長度で理解されていることになる。」(54)、海軍操舵手に見られるハチンズのこの記述が徒弟制は「たんに時代錯誤の、無用の長物」や「時代遅れの産物」(40)ではなく、極めて考え尽くされた教育の一スタイルであることを印象づけるエピソードだと感じた。[保科昭良]
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・「優しい共同体の無視」(74)とはどういうことか。[北村晴希] 原文(イタリック・太字は箭内、以下同様) "In apprenticeship, opportunities for learning are, more often than not, given structure by work practices instead of by strongly asymmetrical master-apprentice relations. Under these circumstances learners may have a space of "benign community neglect" in which to configure their own learning relations with other apprentices. There may be a looser coupling between relations among learner on the one hand and the often hierarchical relations between learners and old-timers on the other hand, than where directive pedagogy is the central motive of institutional organization.
・p.75の「熟練というものが親方の中にあるわけではなく、親方がその一部になっている実践共同体の組織の中にあるということの理解が導かれる」という部分がよくわからなかった。熟練は組織全体に適応される概念ということなのだろうか。[原菜乃葉] 原文 "So far, we have observed that the authority of masters and their involvement in apprenticeship varies dramatically across communities of practice. [...] We argue that a coherent explanation of these observations depends upon decentering common notions of mastery and pedagogy. This decentering strategy is, in fact, deeply embedded in our situated approach - for to shift as we have from the notion of an individual learner to the concept of legitimate peripheral participation in communities of practice is precisely to decenter analysis of learning. To take a decentered view of master-apprentice relations leads to an understanding that mastery resides not in the master but in the organization of the community of practice of which the master is part: The master as the locus of authority (in several senses) is, after all, as much a product of the conventional, centered theory of learning as is the individual learner. Similarly, a decentered view of the master as pedagogue moves the focus of analysis away from teaching and onto the intricate structuring of a community's learning resources."
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・p79「教える側で課する要求に従うことを目標にするということが、本来意図されたのとは異なる実を生み出してしまうのである(Bourdieu 1977)。そのような場合、学習場面での教授学的構造 (pedagogical structure)が、目標となる実践に関して正統的周辺参加の原理からはかけ離れたものになっていても、そこで生じている学習の中核はやはり正統的周辺参加なのである」とあるが、なぜそう言えるのかよくわからなかった。どんな形式であれ学習者の立場からすれば学習は正統的周辺参加であるということなのだろうか。[巽篤久]
・教え込み的な教育のカリキュラムでは、学ぶことが項目立てられている一方、学習のカリキュラムでは、周辺参加する以上いつどこにでも学習の可能性はあるのだろう。しかし学習の可能性は社会的構造、その権力関係、およびその正当性の条件に規定される(81)とあり、 個人の才覚よりむしろ、ある程度は環境によって学習が制限されているという点では、学習のカリキュラムも教育のカリキュラムと共通する部分があるのではないかと思った。[高橋征吾]
(透明性)
・「透明性」という語の使われ方がよく分からなかった。「透明性は何らかの目的に関連して存在しており」(85)とはどういうことか。[北村晴希]
・p85「彼らは見たり聞いたりすることの意味がわかる文脈で、情報の流れと会話に参加している。知識の社会的組織化の文脈で人工物の認識論的役割に焦点を当てると、この透明性の概念は、いわば、アクセスの文化的組織化を意味しているのである。」同じ趣味を持った人が集まって語り合う場なんかはこの事がよく当てはまるなと思った。アクセシブルな知識を蓄えると、すでに知識が飛び交っている会話に参加できるようになっていって知識の中心に向かって参加しやすくなる感じがそれかもしれない。[巽篤久]
・86ページあたりの透明性の所がよくわからなかった。テクノロジーの可視性と不可視性が学習にどのように影響を与えているのか。[田中美衣]
(アイデンティティ)
・「熟練した実践者としてのアイデンティティの実感が増大」(98)することが、学習者にとっての価値となるのであれば、アイデンティティの確立そのものが、人間の根源的な欲求としてあるということか。[山本大貴]
(連続性と置換の矛盾)
・連続性と置換の矛盾は「先に指摘」(101)されたことになっているが、発見できなかった。多分、実践を連続的に継承していくために下の世代を育てているものの、そうすると実践共同体の構成員自体は置換されていくということだと思う。[楠田薫]
→ 重要なので第2章終盤から引用する:「学習を社会的な視点から眺めることによって得られる洞察の一つは、学習のプロセスおよび社会的再生産のサイクルが、両者相互の関係と同様に、問題をはらんでいるというととである。これらのサイクルは社会的実践やアイデンティティの形成には必ず伴う矛盾や闘争のなかで立ち現れる。新参者にとっての意味と、新参者の参加の増大による古参者にとっての意味には根本的な矛盾がある。なぜなら、十全的参加への向心的発達、またそれに伴つての、実践共同体の成果ある生産は、同時に、古参者の交替をも意味しているからである。この矛盾は正統的周辺参加とての学習には本来的に含まれている。なぜなら、様々な形態をとり得るにしても、競合的関係は、生産の組織においても、あるいはアイデンティティの形成においても、明らかにこれらの緊張を高める働きをもつからである。 (…) に、学習とは決してたんなる転移や同化のプロセスではない、ということも意味している。つまり、学習、変容、あるいは変化というものは常にお互いに関係づけられており、現状維持というのは変化と同じ程度に説明を必要とする。実際、実践共同体は自らの未来を生みだす生成的プロセスに従事していることを忘れてはならない。」(34-35)
・「もしも生産と人の社会的再生産が社会秩序の再生産において相互に随伴的であるとすると、家族集団および実践共同体内での人の再生産につきものの矛盾は、生産形態が変わっても消えることはなく、それ自体が変容を遂げていくものであるからである。(101)」とはどういうことか。[中山皓聖]
・実践共同体は動態的であるからこそ、新参者の正統的周辺参加は開かれているという(104)の説明は、一時的に見ればアクセスは制限されうるものだが、通時的に見れば制限される時もされない時もあるということだろうか。[高橋征吾]
・徒弟制がヨーロッパの封建時代だけでなく、現代の広範な分野で根付いているというのは非常に納得ができ、それがコミュニティの働きと強い関係があるというのも納得がいく。映画分野では戦後に撮影所システムがあって、その後は撮影所システムの崩壊とともに個人間で監督に師事する監督ー助監督のシステムが美術大学・映画の専門大学などと並行して発達してきたが、仕立て屋のエピソードで家族から家族から離れたところでの生産へ変わっていった推移の歴史が、家族→撮影所と変換してこの映画業界における徒弟制の変化の歴史にも見ることができるような気がした。[保科昭良]
・徒弟関係は、研究室配属に通じるところがあると感じた。同じ研究目的をもつ学生と、研究室という物理的な空間を共有しながら、指導教官のものである種のファミリー的な関係のなかで新しい事柄を学んでいき、最終的には卒業論文を自分で執筆して学位が認められる…とう一連の流れはある種の徒弟関係とはいえないか?(学生が教員と同等レベルで知識面で習熟することはあまりないとはいえ)[秋場千慧]
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・本文は全体的に学校教育に対して否定的な見方をしている。特にテストが学習の成果を交換可能なものに変換する行為だという点(99)は、進振りを振り返ってみて一理あるなと思った。[楠田薫]
・p.88で、実践へのアクセスが制限されているせいで、本来実践に必要ないはずの、ことばによる抽象的な理解(いわゆる座学?)という概念が生まれる、というようなことを筆者は述べていると思うのだが、私は何をするにしてもいちいち言葉にしないと理解が進まないタイプなので、この辺りは疑わしいと思った。[原菜乃葉]
・p79において、「学習のカリキュラム」と「教育のカリキュラム」の区別が導入されている。では、大学の教室において起こっていることは、「学習のカリキュラム」と「教育のカリキュラム」どちらだと言えるのかが気になった。計画された指導要領に沿った内容を教科書に沿って知識を教授するとするならば、「教育のカリキュラム」のように捉えられるが、古参者(教員)や他の学習者(他の学生)の振舞い、手つきから自分が目指すべきものを体得したり、人工物(資料や実験器具など)をよく扱えるようになったりして、なにか共同体の「全体」を把握していくことに近づくと捉えるならば、「教育のカリキュラム」と言えるのではないか。[井出明日佳]
・『状況に埋め込まれた学習』が執筆された1980年代後半(?)から40年弱の時が経って社会条件が様々に変化した現在でも、正統的周辺参加の枠組みでの分析は同じような効果を持つのか。日本では古典芸能のわざ継承の分析などに応用されているのを見たことがあるが、より流動的で曖昧な共同体に対しての応用は効果的なのか。[井出明日佳]
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・教育と学習は異なるものであり、徒弟制度の学習形態は学校教育と異なるものとして扱われていたが、一方的に教え込むことよりもグループワークやアクティブ・ラーニングが重視されている現代の教育において、正統的周辺参加のような学習を取り入れるということ行われているのではないか。[田中美衣]
・近年の教育現場では、一方的な教え込み的教授行為よりも、アクティブラーニングが推奨されている。特に答えがない問いについてのアクティブラーニングでは、あえて結論を予想しない点で、学習と教育を分離して考えられているのではないかと感じる。しかし、議論の時間と場を設けて、決まった議題について話すよう強制させているという点では、徒弟制のような状況に埋め込まれた学習とはまだかなり距離があると感じた。[中山皓聖]
・77ページに記載されている、正統的な周辺性が可能にするスケッチのあり方がフィールドワークに近いと感じた。徒弟として何かを学ぶためには、人類学者がフィールドの中で学びを得るときと同じように、実践共同体がどのように構成されているのかについて一般的な全体像を作り上げなければならないのだと思った。[西川結菜]
・p77 「徒弟は次第に共同体の実装を構成しているものが何かについての一般的な全体像をつくりあげる。共同体についてのこの片寄りのあるスケッチ(正統的なアクセスがあれば描ける)は次のようなことを含んでいる。そこには誰が関与しているか、何をやっているか、日常生活はどんなふうか、熟練者はどんなふうに話し、歩き、仕事をし、どんな生活を営んでいるか、実践共同体に参加していない人はどんなふうにこの共同体と関わっているのか、他の学習者は何をしているのか、学習者が十全的な実践者になるには何を学ぶ必要があるのか、などである。」徒弟が自分の作り上げたことを表現すればそれで十分いい民族誌が書けそう。参与観察の参与の部分の詳細がこの部分の記述で分かったような気がした。[巽篤久]
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・学習とフィールドワークとの類似性を感じた。学習において、生産順序と同じ順番ではなく、軽いものから学んでいくように、フィールドワークも繰り返し起きている出来事がその順序通り気づき、フィールドノートに書かれるというよりは、気づきやすいものからバラバラな順番で気づいていくように感じる。また、学習と教育が別であるということは、フィールドの人が考える自分たちの実践と、人類学者が描きただす実践にずれがあることに似ていると感じた。[中山皓聖]
・「外側から実践について語ることと、実践の中で語ることとは違う」(p.92) インタビューで得られることが多い語りと、参与観察で得られることが多い語りの対比に近いものがあると感じた。私たちが参与観察を試みるときも、周辺的な参加を心がけるのがよいのだろうと思う。[原菜乃葉]
・最近フィールドワークを開始して、フィールドでの会議などに参加している。そこで話されていることは私が最も興味のあることというより実際的な瑣末な事項で、これで大丈夫なのだろうかと若干不安に思っていたが、この文章を読んで私も徒弟のように適切な言葉遣いを習得しているなと思って少し安心した。例えば、この前の会議では芝居の本番は本番ではなくて会期中と呼ぶことに気づいた。[楠田薫]
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・文化人類学を学ぶにあたって、「学校型の教育」だけでは文化人類学者にはなれなくて、ある種「徒弟制的なこと」をしなければならないのではないか、とふと思ったのだが、実際のところはどうなのだろう。[川田寛]