田辺がウェンガーやフーコーなどこれまで読んできた理論を引用して、それを自分のフィールドに即して更新しているのが興味深く、ウェンガーやフーコーの理解も深まったし、フィールド演習の報告書や卒論で目指すべきものが少し分かった感じがした。[楠田薫]
ブルデューが社会的・文化的な条件が個人の実践に与える影響を強調し、レイヴとウェンガーが個人がある実践共同体に参加し、その一部となっていくことに焦点を当てていた。これらは社会や文化、集団がいかに個人の生き方に影響を与えるかという視点を取っている。田辺は、そこにフーコーの「自己の統治」といった概念を組み合わせることで、ブルデューやレイヴとウェンガーが提示した枠組みを、より個人の能動性に重きを置いたものにものに更新したと言えるのかなと思いました。[井出明日佳]
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医療人類学の文献をちゃんと読んだのは初めてだったが、個の身体感覚の追求と、集団のつながりの在り方みたいなものがバランスよく書かれてあって、民族誌的要素も含まれていたこともあって比較的読みやすかった。レイヴ&ウェンガー、ブルデューなど、田辺(1943-)とほぼ同時代のヨーロッパの文化人類学者の文献を、田辺が日本人の文化人類学者としてどう捉えていたかが見えてきて興味深い。[川田寛]
「生き方の人類学」で描かれたことは、キャリアやライフスタイルのあり方がそれまでよりも流動化した現代において、さまざまな権力関係のなかでいかに生きるかを考えたり分析したりするうえで役立つ基礎になりそうです。ここで書かれたことがどのように応用されていったのかを知りたいと思いました。[井出明日佳]
5章の最初「彼らは同時に、自分の生存のあり方を独自に探求することによって道徳的に自己を組みたてようとするのである。」(182)と最後「彼らの自己のケアは、コミュニティにおける規則や規範によって生みだされるものではなく、彼らの一つ一つの実が生みだした資源とそこに形成される新たな倫理に基盤をもっている。実践コミュニティのなかで築かれる倫理と関係性が、メンバー各自の生き方の差異化を豊富に生みだしていくのである。」(217)で唐突に道徳や倫理が出てきたのが不思議だった。道徳や倫理は具体例のどの部分に対応しているのだろうか?[楠田薫]
PHAの人々にとってHIVやエイズが「内なる他者」と言われていることが印象的だった。それは、それらが人間の他者と同様、権力関係の中で交渉していく相手であるといえるからだろうか。[田中美衣] cf. p.199
民間医療の浸透の中で、「生薬を用いる医療はいくつかの病院では「タイ医学」として治療のなかに取り入れられていった。」(206) ことが興味深かった。絶対的な存在として批判されることが多い西洋医学が、ローカルな医療である生薬を受け入れるほど柔軟であることに驚いた。確かに漢方薬や東洋医学も似たような立ち位置かもしれない。[中山皓聖]
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213ページでサムラーン君の「人はつねに自らを振り返って自己のケアに向かわなければならない。エイズとともに生きる人々はコップや白布に喩えられるだろう。それはつねに透明に、また白く保たれなくてはならない。それが汚れた日には、我々はただちに深刻な問題を抱えることになる。」という持続的な自己のケアを実践する主体の位置について語った箇所について、なぜ「つねに透明に、また白く保たれなくてはならない」のか、よく理解できなかった。[保科昭良]
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「自助グループにおける自己ケアの実践の高まりは、今日のヘルス・ケア商品やサービスの消費の拡大現象と並行している。(216)」という部分は興味深い。ヘルス・ケア商品やサービスの消費の増加はケアの能動性を失っていくことに思えるが、自助グループの人々はその流れにむしろ逆行して自己ケアの実践を進めているということか? [秋場千慧] cf. 212-213
ウェンガーが主張するアイデンティティ形成の道筋の二つ目の「想像をとおしたアイデンティティ形成」、「参加のレベルをこえて世界と自らの関係を思い描くことによってアイデンティティが構築される」(223)という部分がいまいちわからなかった。例えば高級ブランドバッグを買うことによって、そのブランドバッグに似合うような服を着たり、場所に行ったりするというような、そのブランドが規定するある種のルールに従うことを指すのか?[森山倫]
ウェンガーの交渉モデルの説明で登場した「このモデルは他者との交渉における不断のダイナミズムを組み込んでいる」(230)、という一節について、どこから「ダイナミズム」という考え方が生まれてきたのかが分からなかった。動的な(=不断の)という理解でよいのか。[川田寛] cf. pp.226-227
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自己を差異化するベクトル(230)や、歴史性と変動性の議論には、ブルデューの述べた「相動性関係」(※「相同」?)「均質性の内にある多様性」が援用できるのではないかと感じた。 [中山皓聖]
抑圧は、「実践は慣習のよどみのなかで同一物を再生産するかのように反復されるのではなく、権力関係のなかで差異化をともないながら反復される」(250)ことが認識されておらず、人間が同一のものと仮定され、同一物を再生産することが求められることによって起こるということか。[田中美衣]
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「すべてのアイデンティティは何らかの本質的で統合された特性ではあり得ず、言説の権力作用の中で偶発的に接合されて構築される。」(232)と言うことだが、「接合される」とは具体的にどう言うことか。また、何が「接合される」のか。[北村晴希]
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「アイデンティティ化はけっして十全に貫徹されるのではなく、むしろ不断につづく再構成であり、反復という不安定な過程である。(236)」ただの感想だが、いい言葉だなと思った。ずっとアイデンティティは確立されたものではないと人間といて不十分なような気がしていたが、アイデンティティ化の過程は生来柔軟であり、いかようにも展開しうるということは希望が持てることだと思った。[秋場千慧]
「しかし、彼ら個々人にとってのアイデンティティは自助グループというコミュニティへの帰属意識ではない。それは権力関係の狭間にあって、自らの生存と幸福を求めるための動態的な姿勢、位置取りであり、表象である。(238)」同じグループに属する人びとを「アイデンティティを共有する人びと」と見なしているが、この見方によればむしろ、「グループの人びととの共通項を介して発した異なる志向性のアイデンティティを持つ集団」というのが近いと思った。[秋場千慧]
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「したがってアイデンティティとは、言説実践が私たちを構築しようとする主体の位置への暫定的な結節点なのである。」(249)とはどう言うことか。この部分に限らず、ステュアート・ホールの引用部分全体をあまり理解できなかった。[北村晴希]
(202)でレイヴとウェンガーの議論との比較がされているが、このように実践共同体の性格がAAとタイの自助グループで異なるのは、古参者が治癒しているか、そうではないか(中毒から脱却しているAAと、エイズが治癒していない自助グループ)という理由があるだろうと思った。自助グループにおいては古参は新参者に比較すれば相対的にエイズとの生活に熟練しているのかもしれないが、だが常に学び続ける主体でもあり、新参者と対話を続けながら共にさらなる熟練を模索しているのだろうと感じる。[高橋征吾]
PHAの自助グループは何かを強制されることがなく、差異化や個人個人のより良い生が追求されることから理想的な実践コミュニティのように思われたが、個人間の差異化が重視されるように、実践コミュニティの中でも差異化や多様なあり方があって然るべきなのか。[田中美衣]
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前回フーコーを読んだ時は、自己への配慮はとことん個人的な実践という印象を受けた。だが今回は「自己への省察と配慮を可能にするのは、...自助グループの仲間たちとの持続的な相互行為の結果である。」(200)や、「ホーリスティック・ケアと呼ばれている自己の統治の技法は...それらは個人的に改変、占有化されて実践されるものであるが、グループの中で練り上げられ、集合的に構築されてきた自己のケアの総称にほかならないのである。」(214)とあり、自助グループの例を通して、自己への配慮が(もちろん個人的に独立して行われるものであるものの)実践コミュニティの中で相互的に誘発され、集合的になされうると示しているのだろうと思った。[高橋征吾]
その一方で(236)〜(239)では権力関係の間でお互いの差異を自覚することで多様なアイデンティティ化がされるとあり、コミュニティの中に他者がいるからこそアイデンティティという主体を獲得しているのだろうと思い、これは自分の身体の中にHIVという他者がいるからこそ自己への配慮が進むという点とリンクするところがあるように感じた。[高橋征吾]
『ボディ・サイレント』でマーフィーは、一般社会では「障がい者」のアイデンティティが最優先となって周囲に認識されるのに対して、障がい者のコミュニティではみな障がいをもつため、他の属性(趣味や性格など)を優先して(自己を)認識してくれるとして障がい者コミュニティの意義を述べていた。これはPHAの実践コミュニティが社会的差別を原因としてアイデンティティを形成し直すために形成されたことと類似していると感じた。この事例からもコミュニティ内ではなく、社会の権力関係のもとでアイデンティティが形成されることがよくわかった。[中山皓聖]
社会的な生の営み方は、「矢印」で例えられるのではないかと思った。ブルデューのハビトゥスと実践や、レイヴとウェンガーの徒弟制は、人々が同一方向的な「矢印」の流れに則って生きているモデルを描き出しているように感じた。一方でフーコーの権力関係や、それを発展させ新たに提唱された田辺のアイデンティティ化の概念は、社会の中でやり取りされる「矢印」がさまざまな方向に向いており、帰属などの形で同一の方向を向くときもあれば、抵抗や対立などの形でぶつかり合うこともあるような生のあり方を描いているように感じた。[西川結菜]
アイデンティティ化の過程で人びとは、「自分の欲望の充足とより良い生き方を追求するために自らの位置取りを確保しようとするのである」(249)とあるが、ここでアイデンティティは自己発生的に形成されるものというよりむしろ、個々の行為者がより良い生き方のためにその都度実現していくものとして描かれているように感じた。この考え方においては、行為者とそのアイデンティティの関係性が、実現するものと実現されるものというある種の力関係にあるように考えられる。一方でたとえそれが自己の欲望やより良い生き方にとってネガティブに働くとしても、自己の意識や行為の範囲外で内面化されてしまうようなアイデンティティも存在するのではないだろうか?[西川結菜]
「自己の再帰性」について、2010年代後半-2020年代の日本の恋愛ドラマでみられた交際のあり方と重なると思いました。例えば「逃げるは恥だが役に立つ」では、主人公の男女が法律婚や性別役割分業といったそれまでの「あたりまえ」との距離に悩む様子が描かれます。最終回では、これからも様々に悩み、相談しなければならない事柄が出てくるだろうけど、都度自分たちの生き方を構築しようと話す二人の姿が描かれ、二人の実践が続いていくことが示唆されます。それまでのドラマが、最終回で恋愛の成就を描き、その二人が別れたり関係性が変化したりする可能性があまり想像されない(「幸せな二人」というアイデンティティ?に同一化させる)のとは対照的だと思いました。[井出明日佳] cf. p.240
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ADHDとか愛着障害とか最近になってより細かい分類で自分の状態を表す言葉が頻繁に使われるようになってきたと思う。それはもちろん精神医学分野の発展とか社会的受容とかが背景にあるのかもしれないが、個々人による自己の存在の正当化の需要が高まっているという面もあるのではないかと思う。(病名をつけられて医学に保障されれば、「自分の人格に問題があるのではなく、病気だからそうなってしまうのだ」と胸をはって言うことができる。)だけど、このタイの自助グループの実践は必ずしも医学に保障されているわけでなく、インフォーマルなものも含みながら最も自分の生を保障する上で必要な知が取り入れられている。もちろん様々な症状を細分化して名前をつけることによってより多くの人に適応可能な医学が発展するのも素晴らしいことだが、身体がそもそもインフォーマルなものである以上そこには必ず例外や多様性が生まれるのだから、医学的な名前がなくても個々人が自らの生を正当化できるような世界があってもいいと思った。[森山倫]
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PHAたち個々人が記録したヘルスケアの技法も、近代医療と同レベルの一つの自己ケアの手法として提示されるのは、近代医療に見捨てられた彼らだからこそできることだと思った。近代科学や近代医療が支配的な状態で、それらを単に一つの選択肢に過ぎない、と相対化するのは難しいと思う。また近代医療以外の実践も怪しげな宗教やカルトに看做されかねないと思う。[森山倫]
(今回読んだ部分の主眼でないとは思うのだが、私としてはフィールドワークとの関係で)「霊媒カルトは、霊媒が平素の自分から守護霊の自分へと転換するという、アイデンティティ化の過程が凝集された劇場空間である。」(237)という部分が気になった。最近、なんでも演技とか演劇と呼んでそれっぽいことが言えてしまうのではないか、それは結構胡散臭いことなのではと思っているからだ。霊媒カルトには確かにパフォーマンス的側面があるのだろうし、筆者はそのダイナミックさや魅力が伝わるように「劇場空間」という言葉を使っていると推測するが、劇場っぽくない側面もあるはずなので、今度霊媒カルトの事例の部分をもう少し読もうと思う。[楠田薫]