【参考】今回取り上げた論文は、日本語訳がある2005年の論文ですが、刊行以来世界中で読まれてきている最も有名な論考は1998 年の次の論文です。 Viveiros de Castro, Eduardo. (1998). Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism. The Journal of the Royal Anthropological Institute, 4(3) ちなみにヴィヴェイロス・デ・カストロはこの全体が姓なので、そのように呼びます(名はエドゥアルド)。
「身体と精神の区別が曖昧なのではないか」、「多自然主義と多文化主義はあまりにも異なるが比較する価値はどこにあるのか」といった読んでいく中で生まれる疑問を次々と解答されていくので、著者による読者の反応の想像の的確さに驚嘆した。[中山皓聖]
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終始他の人や著者自身が書いた論文からの引用で、フィールドワークでの具体的な事例があまり出てこないのが印象的だった。民族誌ではない人類学的文献として参考になる部分はあるが、説得力という面でいうと、最初にこれが出てきたときに他の人類学者はどう思ったのか気になった。[原菜乃葉]
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「自然」と「文化」の対比の仕方はかなりレヴィ=ストロースを下敷きにしているし、ブルデューのハビトゥスも使っているし、集大成という感じがした。が、よく考えたら重要文献を選んで読んでいったらそりゃそうなるか、と思い直した。これまでの人類学史をきちんと拾っているという意味でも良く練られた論文と言えるかもしれない。[原菜乃葉]
主体ー客体や、文化ー自然、魂ー身体といった二項対立が主軸に据えられていたり、構築主義と対置される野生の思考的なアマゾニアの考え方だったり、実際レヴィ=ストロースを引用するなど、レヴィ=ストロースの影響が強そうだと感じる。しかしレヴィ=ストロースの知覚的な構造的二元性に対し、デカストロは文化(パースペクティヴ)は同一で身体的差異が規定する自然が多元的と結論づけているので、落とし所はかなり異なるように感じた。[高橋征吾]
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「宇宙論」の「宇宙」とは何を指しているのか。[山本大貴] ➜英語:cosmology(世界観 worldview とほぼ同じ)
全ての主体に共通するものとして、「人間性」や「擬人化」という表現が使われていることから、それらが結局「ヒト」と関連づけられているいるように感じたのだが、それで良いのか。[山本大貴]
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ヴィヴェイロス・デ・カストロによって示されたパースペクティヴィズムの考え方が、他の人々(人類学者も、それ以外の人々も)にどのような影響を与えたのかを知りたいです。[井出明日佳]
「パースペクティヴの転置に際しての基礎的な次元であり、同じく構成的であるだろう次元は、捕食者や獲物という相対的で関係的な状態に関連している」(44)とはどういうことか。「基礎的な次元であり、構成的であるだろう次元」とは、何か?[井出明日佳]
パースペクティブ性は程度と状態の問題であるとされている(44)が、パースペクティブ性が強い、パースペクティブ性が弱いとはどういうことか。[北村晴希]
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ある種の動物に関して、「このことに加え、事後的に本質となるという論点もある。(44)」というのはどういうことか。[秋場千慧] 原文: Aside from this, the question has an a posteriori essential quality to it. The possibility that a hitherto insignificant being reveals itself (in dreams, in shamanic discourse) as a prosopomorphic [人間のような形をした] agent capable of affecting human affairs is always present. In this regard, personal experience, one's own or that of others, is more decisive than any substantive cosmological dogma.
我々がなじんでいる人類学=人間学では、いつもは文化によって隠されている動物性の土台の上に構築されたものが人間性であるーわれわれは、かつて「完全に」動物だったのであり、「根底において」動物のままである-のだが、それとは対照的にアメリカ大陸先住民の思考は、宇宙に住まう動物やほかの存在は、かつて人間であったので、はっきりとしない様態ではあるが、人間であり続けていると結論づける(45)」人間と動物がかつて人間であったか、動物であったかを議論するのはどれくらい重要なのだろうか。重要なのは人間と動物がかつて同じであったが、現在ではちがうものとされてしまっていることではないか。そもそも、動物性と人間性の線引きなどあるのだろうか。[秋場千慧]
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53ページで言及されていた、民族名が自分たちのアイデンティティを示すために自分たちで名づけるのではなく、他者から多くは蔑称として与えられるというのが非常に興味深かった。たしかに、これは民族以外の社会集団でも、「オタク」や「ギャル」、「ヤンキー」、「Fラン」などのゆるやかなまとまり、古くは「百姓」や「えた・ひにん」などにもあてはまるなと思った。[保科昭良]
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「人間的な身体の形態と人間的な文化ー特殊な配置に「身体化されている」知覚と行為の図式ーは、先に論じた自己-指示と同じタイプの代名詞的な属性である(54)。」そして「自身を自身として見る」とはどういうことか。[巽篤久] 原文: The human bodily form and human culture - the schemata of perception and action 'embodied' in specific dispositions - are pronominal attributes of the same type as the self-designations discussed above.
「逐語的で構成的な人間的な属性」(54)とはどういうことか?生物種としてのヒトを指している?その場合、「構成的」とはどういう意味で使われているのか?[井出明日佳] 原文: They are reflexive or apperceptive schematisms by which all subjects apprehend themselves, and not literal and constitutive human predicates projected metaphorically, i.e. improperly onto non-humans.
「人間は──生来──正しく特権(prerogative)を享受している」(54)とあるが、どうして「特権」なのか。他の動物ではなくみな人になるからか。[森山倫]
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「月やヘビ、ジャガーが人間をバクやノブタとして見るならば、それはわれわれのように、彼らがバクやノブタを、すなわち人間に適した食糧を食べるからである」(57)のところで、月がバクやノブタ食べないと思うんですけど、どういうことですか...。これに関連して(58)上段の「人間であるのならなぜわれわれを人間と見ないのか」というところは、もし人間であるのなら、それにとっての〇〇みたいな感じになる(?)からわれわれを人間として見ることはないのではないか。[森山倫]
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57ページ下段後半で、文化相対主義が前提とする表象の多様性に対するものとしてのアメリカ大陸先住民の「純粋に代名詞的な、現象学的あるいは表象の統一体」の話があるが、ここで言われている表象とはどんな次元の話のことなのかイメージがつかなかった。[巽篤久] 原文: Amerindians propose the opposite: a representational or phenomenological unity which is purely pronominal, indifferently applied to real diversity.
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「〈文化〉は「私」という代名詞の自己参照的な形相を帯びる。対して、自然は非人称的な代名詞「それ」によって示される。客体のとりわけ「非ー人格的」な形相なのである。」(58)という定義それ自体は理解したが、本当にこの定義に基づいて両者を区別できるのか疑問に思った。[中山皓聖]
本筋とはズレるが、この文献における「代名詞」もそうだし、文化人類学って言語学の用語から何かと借用しがちな気がする。人類学をやってる人は言語学もかじりがち、みたいなシナジーがあるのだろうか。[原菜乃葉]
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アマゾンのカニバリズムにおいて、敵を「過度に主体化」(65)するとは、具体的には何を指すのか。[川田寛]
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〈超自然〉(66)が何を意味するのかが理解できなかった。また、「ある主体が宇宙論的に優勢である別の視点に捕獲される」(67)というのはどういうことか。[北村晴希]
p.67にあるような超自然的な状況での非人間からの呼びかけは、非人間のなかにもシャーマンのように種横断的なやり取りをできる存在がいると捉えられるのだろうか。[中山皓聖]
「定義上あるいは公式上、多自然的な存在であるシャーマンだけが、いくつものパースペクティヴを往来すること、自らの主体としての条件を失うことなく動物あるいは霊的な主体から〈あなた〉と呼ばれ、またそれらを〈あなた〉と呼ぶことができる。」(67)より、カストロによればシャーマンは、自己の視点だけでなくその他のいくつもの視点を往来し経験できる唯一の二人称的な存在である。この文脈においてシャーマンはどのような機能を果たしているから〈あなた〉になりうるのだろうか(いわゆる「憑依」のような機能のことだろうか)?[西川結菜]
(57)下段の「パースペクティヴィズムは相対主義ではなく多自然主義である」のところについて、最近の潮流として文化相対主義は古い、みたいなのがあったりするんですか?[森山倫]
「多様性」という言葉はポジティブな文脈で多用されているが、そのとき多文化主義か多自然主義のどちらを前提とするのかによって意味が変わってくると感じた。多文化主義を前提にした場合、「『あらゆる知覚は等しく無効でありかつ真実であ』り、世界についての真実で正確なひとつの表象は存在しない』」(56)のであり、「多様性」は単一の世界に対する複数の表象や知覚を意味するだろう。一方で多自然主義にもとづけば、「多様性」は表象や知覚など思考を介して共有されるようなものに対してではなく、それぞれの身体や視点ごとに存在する世界に対して適用される概念である。多文化主義的に「多様性を尊重すべきだ」と唱えるとき、他なる価値観や考えは思考を介して理解可能であると考えることで、それらを一方向的に決めつけるリスクもあるのではないだろうか。[西川結菜]
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「動物が元−人間なのであって、人間が元−動物であるわけではない。」(45)という記述から、例えば日本昔話で、動物が人間の言葉を喋って、人間を助けたり、人間を騙したり、妖怪(≒精霊)が人間に恩を返す、みたいな世界観があったのを思い出した。[川田寛]
我々がペットに対してあたかも人格があるように接していることはパースペクティヴィズムの一例と言えるか。[田中美衣]
46ページあたりで述べられているシャーマニズムに関して、パースペクティヴの邂逅や交換が政治的技法、外交であるといえるならば、対象は動物に限らず、古代東アジアの神権政治におけるシャーマニズム、すなわち他の人間や集団を対象としそれらが次に起こす行動を占ったということも、パースペクティヴの交換と言えるのではないかと思った。[田中美衣]
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パースペクティヴは、どこまで実際的な「見る」行為に焦点が置かれているのだろうと思った。他なる主体は身体的差異の認識で受け取られるけれど、その差異の認識は視覚的情報のみならず、例えば明らかに人ではない音を聞くことで認識することもあると思う。もちろん情報量は視覚に比べ劣るのだが、身体を通して対象の形相を認識するという点では、視覚ではなくともパースペクティヴになり得ると思う(思えば血がジャガーにとってのマニオク酒なのも、パースペクティヴとしての味覚・嗅覚的な感覚の差異を表現していると言えそうだ)。[高橋征吾]
人間以外にもエージェンシーを見出し人類学の可能性を開いたという点では前回のラトゥールと似ていると感じるが、どこまで開かれるかという点においてデカストロは身体の有無を重視していると思う。パースペクティヴの源は魂だが、パースペクティブの差異を生むのは身体の差異で、魂の容器でありかつ他者の形相としても、身体の存在は確かにデカストロの論理においては何より重要なのだと思う。[高橋征吾]