思考を遅らせるという言葉が何回も登場していて印象的だった。先入観に疑義を呈すために、という意味なのだろうが、確かに文中では、地のものたちの包摂や、多元世界の導入など直観的・論理的には疑念を抱いてしまうような理解の難しい事柄も多く、それに対して向き合うという意味で、大切なことのように思う。
「政治が現れたのは、生きることのできる単一世界を作るため」(70下)であるため、政治の単一の論理から逸脱する在来の政治はサバルタンとして語ることができなくなると認識した。知識人、識字者がサバルタンについて記述することが難しいのは、自分の持つ世界に囚われてしまって、サバルタンの持つ世界(アウサンガテによる殺害を防ぐなど)を想定しにくいからという理解もできると感じた。
ヴィヴェイロス=デ=カストロは世界をもつ主体の単位を種としていたが、デ•ラ•カデナは識字者、エスニシティなどあらゆるカテゴリーの人々が世界を持つとしていた。そう考えると、様々な属性を持つ個人それぞれが異なる世界を持っているということになり、複数世界観の多元的つながりを考え出すときりがなく、議論が落ち着かないのではないか。それとも逆に、同じ世界を持つ人々がグループとして集まるのだろうか。
「理解していないということの理解」のうえで部分的なつやがりから同盟を結んだ環境主義者と先住民のつながりはそれほど長続きするものとは思えないが、当初の同盟の目的が達成できればいいので、その他の部分の方針や同盟の持続性は問題にならないのだろうか。
存在論と認識論というのがいまだにいまいちわかってない。(59)の「在来的な視点からは存在論的な差異の否定になるものを、国家は進歩、保護、そして文化的向上として表現する」の意味がよくわからなかった。
(58)在来性の現れによって複数化される政治が、ジェンダーとかエスニシティの複数性と異なるのは、前者は存在論的、後者は認識論的な複数性だからか。
結果的に地のものたちが計算=考慮に入れられ他の人々と対等に扱われるようになったとしても、それは結局複数ある政治の中でマジョリティの政治に負けてしまうのではないかと思う。その場合結果的には地のものたちは殺されてしまうのだから、だったらある意味で特別扱いされたとしても文化として「尊重」され続けていた方がましなのではないかとも思える。
「私たちは明らかに同じ「もの」ーマチュピチュとアウサンガテーについて話していた。…そのため一より多く二よりは少ない存在者であった。」(63)ここにも現れている「一より多く二より少ない」という表現が何を意図して用いられているのか分からなかった。多自然主義的な観点から、マチュピチュやアウサンガテはそれぞれの世界や自然の中で、山々として存在したり生きものとして存在したりするという意味で「一より多く」、そうした様々な存在の仕方が一つの世界のなかで共存することはできないという意味で「二より少ない」ということなのだろうか。
「私は自分自身をナサリオの存在論に翻訳することはできないし、…私たちのものとして現れるかもしれないやり方で、ナサリオが住む場所を守りたいということである。」(73)という部分は、デ・ラ・カデナの他なる生や世界との向き合い方をよく表現していると感じた。人類学者としてというよりも、一生命として(?)どうにか自分の外部の世界と真摯に向き合おうとしている姿が素朴で共感できると感じた。
「彼らが死ぬがままにされているのは、「人間」の概念に含まれながらも、全く計算=考慮に入れられていないからである。それは彼らが「自然」に近すぎるからだ。(55)」人間と自然の間に明確な区別をもうける一方で、「自然に近い存在」という人間の区分が生まれたことに違和感を感じたが、政治と自然という対立構造の論理によって、一部の人間を巧妙に政治から遠ざけたということは興味深い。また、この文脈において、自然と人間を区別するということは、自然と人間を別々の全く違う概念と見ることではなく、人間の領域と自然の領域に線引きをすることなのか?
「具体的には、識字能力は都会の中心部から慈悲深い人歩の技術として現れる。それは、プログラムとしてインディオを死ぬがままにしておくという歴史的な推進力を持っていた。(58)」文字文化を持たないジプシーがヨーロッパで歴史的に弱者であり続けているように、文字文明にこれほどまでに支配力・権力を与えるものは何であるか。政治は「識字化」(70)されないと力を持てないのか。
2Sのスペイン語の講義で、コチャバンバ水紛争(p.49下段)を題材にした映画""También la lluvia""を視聴していて、「在来性」を無視した政治に対する反発というものを映画を通して何となく知っていた。この映画は邦訳もされているが(『雨さえも』)、「紛争に参加したのは先住民だけではなく、ボリビアの新自由主義的政治の転換となった出来事であるにも拘らず、先住民vs入植者の単純な二項対立的な視点で描かれている」といった批判もある。この批判も間違ってはいないのだけれど、「人・人種以外」の視点を少しでも有していればもう少し上手い批評ができるのだろう、とふと思った。
日本の山岳地帯での「地のものたち」は、政治に対して沈黙する傾向にある気がする。感覚的な意見かもしれないが、日本で「開発」に対する反対運動は「科学的」な悪影響を指摘したり、「経済的」な欠点を訴えたりすることによって行われる。そうしなければ受け入れられないからだ。「神」は信仰されることによって力を維持する、みたいな考え方があるけれど、政治にまで持ち出されるのなら、ラテンアメリカのアウサンガテの神は強い力を持っていることだろう。もっとも、鉱山開発の圧力も強いのだろうけれど。
中国の新疆ウイグル自治区やチベットにおいて、土着の民族、特に中心地に住む若い世代の人々の中には、政府による監視強化や工業化政策を、治安維持や発展に寄与するものとして肯定的に捉える人もいるようだ。これは人間と自然の存在論的区別、先住民の近代社会への従属といったものの極端な例だと考えられる。
当初政治に関与できるのは白人男性に限られたが、それ以外の人々も関与できるようになり、それによって政治的な権利の平等は実現したと思われたが、それは「理性」を備えた近代人として振る舞う限りのことであり、先住民に近代的な考え方を強制することで成り立っていた、ということだろうか。本文で述べられていたことは、更なる政治参加の拡大や、グローバル化社会における全ての人の包摂(本文では包摂というよりも、「政治の多元化」を強調しているが)の可能性を開くものでもあると思った。
62ページにある「取り違えとは単に理解しそこねることではない。それは「理解が必ずしも同一ではないということを理解しそこねることであり、理解というものは『世界を見る』想像上の方法と関係しているのではなく、見られている現実の世界と関係している、ということを理解しそこねる」ことである」という部分は、ここでは自然と政治の分割による一元的世界の理解の方法が、異なるものが一ヶ所に共在する多元世界的理解の方法を見落としてしまうということを念頭に置いて言っていると思う。そういった見落としが起こる状況下では人類学的記述がパワフルな異議申し立てになりうるんだろうなと思った。
64ページでは、二つの種類の理解を併せ持つ先住民の政治家が言及されており、「(このハイブリッドが目に見えるようになったことで)私たちの分析的なカテゴリーが取り違え=多義的であることに気付く可能性が開かれる」とある。かつては言葉、科学、政治によって人種のヒエラルキーの劣った場に置かれ、黙らされてきた側の人間たちが自ら語る側に回り、植民地主義や新自由主義に裂け目を入れるというのは、近年のオートエスノグラフィーの流行にみられるように、多くの場で自然発生的に同時代的に起こりうるのだろうと感じた。
筆者自身も地のものたちの出現が新たな敵体制を顕現させる可能性には触れながらも、その行く末には少し無頓着なように感じた。最後の部分で語られる先住民と警官の武力衝突などは洒落にならない規模で起こっているし、他にも大規模なテロなんかにもなりかねない気がするが。多元世界的を政治導入し、その相反する見解を討議のフォーラムに持ち込んだ後は翻訳を試みながら折衝を重ねるしかないんだろうか。
「地のもの」や「地のもの」を巡る実践を「過剰なもの excess」(47)と表現しているのが気になった。政治には余計なもの、不要なもの、みたいなニュアンスだろうか。
たびたび引用される「論理的思考の速度を落とす」(48、51など)は、西洋近代的思考以外の世界にも目を向ける、みたいな意味だと思うのだが、どういう意図で「遅らせる」という言葉を選んだのかが気になった。西洋的世界が効率や進歩を良いものと捉えることとかけているのだろうか。
p.73下段にあるように「多元世界の政治」が実現したとして、結局政治においては力のあるほうが勝つのだから、あまり具体的な効果はないように思う。それなら従来のように、西洋の人々にもわかる言葉を使って環境活動家などを味方につける戦略のほうが有効ではないか。
多自然主義の文脈で、全ての存在がそれぞれに持つ世界が議論されており、この文章では政治によるその共存の可能性が語られている点で、より具体的・発展的な内容になっていると感じた。
「地のものたち」が政治に現れたのが拡大する資本主義との関係のもとであることによって、既存の政治の不備を修正するのではなく、多元世界の政治へと変える(71)ということを、特に留意しなければならなくなっていると思った。
先週読んだヴィヴェイロス・デ・カストロの自然観についての話が、具体的な次元から政治という概念を再考することに応用されているのがすごいと思った。
この抜粋での「存在論的」/「認識論的」は、異なる複数の世界が存在する/単一の世界にさまざまな見方が存在する の違いだろうか。認識論的な世界観は、存在論的世界観すらも「単一な世界に存在する、さまざまな見方の一つ」として吸収してしまうのだろうか。そうだとすると、存在論と認識論的のいたちごっこが起こってしまう?
異なる複数の世界を考えるならば、「一より多く二より少ない」(59-64)という表現は、ある世界と別の世界の共通性を想定したやや認識論的なものと捉えることができてしまうのではないか。
デ・ラ・カデナはヴィヴィエロス・デ・カストロの議論をより政治的に発展させていると思った。その際に先住民の世界観を描写するだけでなくそれと市場経済や非先住民の社会との対立を描いたこと、本文中にコラムのようなものを入れていることが特徴だと思う。(ただ、コラム形式がどのような効果を持っているのかあまり分からなかった)
翻訳と取り違え=多義性が連続的なものとして捉えられている感じがした(62-63)が、翻訳は取り違え=多義性とはことなり、むしろ包摂に近いのではないか。取り違え=多義性の例では、先住民と筆者が同じ言葉をそれぞれ違う意味で捉えている。一方で翻訳をするとき、先住民は非先住民の言葉をよく理解した上で、自分たちの世界観を非先住民の言葉に変換している。
「政治」と「政治的なもの」の区別(54)がよく理解できなかった。「政治」=「敵対性」を手懐けて闘技に変容させる実践、という55ページの説明は分かったが、政治的なものとは何なのか。