・全体的に「ハビトゥスは〜する」などまるでハビトゥスが動くかのような書き方をしていることに気づいた。単に言語の違いによるもの?それともハビトゥス自体が主体、アクターであるという主張? [楠田薫]
・ハビトゥスとは?→「まさしくハビトゥスとは、歴史的・社会的に状況づけられたハビトゥス生産の諸条件を限界としてもつ生産物ー思考、知覚、表現、行為ーを、(制御を受けながらも)全く自由に生み出す無限の能力」(87)→ハビトゥスは、自身が生み出した生産物に制約を受けながらも、そうした生産物の内的なサイクルに閉じ込められるのではなく、そこから変化・発展した生産を行うことができるシステムということだろうか。またブルデューはどのようにハビトゥスという概念を導き出し、どこまで適用可能としているのかが気になった(「3 規則から戦略へ」で紹介されたアルジェリアとフランスの婚姻の事例から導き出したのだろうか?また社会のさまざまな事例に適用される生産の一般的なシステムとして説明しているのだろうか?)。[西川結菜]
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・過去の積み重ねによって身体に身につき、制約の中でほぼ無限の生産物を作り出すもので、恒常性を保つ特性があるという点で、ハビトゥスは言語のようなものだと考えると概要を掴めた気がした。[原菜乃葉]
・『構造と実践』ではハビトゥスはゲームのセンスのようなものとされていたが、『実践感覚』のほうではあまりそのような趣旨の記述がなかった。大枠では変わっていないと思うのだが、何か考えに微妙な変化でもあったのだろうか。それとも、伝わりやすい上手い説明が思いついたから使っているだけなのだろうか。[原菜乃葉]
・ギアツの回に先生がおっしゃっていた、「現地の人々は(当人は言語化できないとしても)あるルールに従っている。そのルールを参与観察を通して分厚い記述にするのが民族誌」という説明をしていたことが、集団とハビトゥスの記述を読んでよく理解できた。[中山皓聖]
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・ハビトゥスと伝統や慣習の違いは何か。[田中美衣]
・「しかし、戦略とは、意図的・理性的な計算が生み出すものでもなければ、無意識的プログラムが生み出すものでもありません。それは、ゲームのセンスのような実践的感覚、歴史的に定義される個別的な社会的ゲームの実践的感覚で、子供の頃より社会的活動に参加することによって獲得されます。(102)」 ここで言われている「歴史的に規定される」とはどういうことか。実践的感覚が個人レベルではなく、社会の歴史のなかで形成されてきたということか? [秋場千慧]
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・『構造と実践』(105)終わり〜(106)最初の内容は「民族学者はインフォーマントから規則(=コード)を学び、参与観察を通じてハビトゥスを体得していく」という認識で正しいか [森山倫]
・「情報提供者というものは、…何も知らず、子供に話して聞かせるようにして話をしてやらなければならない人間に話をする際には、教訓と規則を教えることになるわけで、常にそうした者の話に耳を傾ける構えにある人類学者にとって、こうした法中心主義はきわめて自然な傾向なのです。」(105-106)→とてもしっくりくる説明だと感じた。フィールドを把握しようとするとき、インフォーマントが語る情報をそのままに記録するのではなくて、それさえも何らかの規則性の中で起こっている一つの事例であり、調査の対象として考える必要があると思った。[西川結菜]
・実践と表象についてのブルデューの考えは、いくら人間の意思決定に法則/規則的なものが見られたとしても、それは規則性を見出せるというだけで、人間が規則に従って動いているわけではない、と解釈した。これは非常に個人的にとても納得できるが、合っているのでしょうか。[保科昭良]
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・「私は、儀礼行為の実践的論理というものを、われわれが政治的意見や人物を考え類別するために、右と左の対立を用いる、そうした用い方との類比によって考えてみることによって、儀礼行為の実践的論理の正しい直観と思われるものに到達しました」(106)とあるが、「右と左」はなぜ実践的なものといえるのか。[中山皓聖]
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・『構造と実践』(107)と『実践感覚』(95)について、社会学と民族学の違いがいまいちわからなかった。「社会学は、同じ客観的条件の生産物で、同じハビトゥスを備えた生物個体のすべてを同一のものとして取り扱う」『実践感覚』(95)とあるが、民族学はもっと個でみるということか?でもブルデューが目指すところは社会学と民族学の対立関係の廃棄(『構造と実践』120)であり、また民族学者が自分自身の経験を、自分が研究対象に適用している分析にかけることを望んでいるから、この「社会学は、、、」の文は肯定的に描かれているのか? [森山倫]
・『構造と実践』のp120でグループとして生存するための戦略のはらむ諸問題を妥当な形で立てることができていない原因として民族学と社会学の区別があげられているが、これはなぜなのか。[北村晴希]
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・『構造と実践』(122)「客観的に近いものを接近させ、客観的に遠いものを遠ざけることによってしか、、、」の客観的に近いものとは具体的に血縁を指しているのか? [森山倫]
・親が裕福な場合、子供も裕福である可能性が高いということはハビトゥスが関係していそうだ。[田中美衣]
・ハビトゥスが「構造化する構造」(83)であるとはどういうことか?ハビトゥスが問題に対処する実践を生み出す「全き発明術」(88)であるということはわかるが、実践を生み出すことと構造化することは違う気がする。 [楠田薫]
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・「集合的にオーケストラ編成されながらも、オーケストラ指揮者の組織行動の産物ではない。」(84)とは、指揮者が意図的に音楽を動かさなくても、人間の傾向として、音量を小さくすると速度も遅くなるとか、長い旋律だと拍感が失われるとか、そのようなことを例示しているのか。[川田寛] ·「オーケストラ指揮者の組織行動」は原文では " l'action organisatrice d'un chef d'orchestre" で、「オーケストラ指揮者の組織化する行動の産物」の意味
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・「客観化の意図とすでに客観化された意図との弁証法のうちでたえず自己定義し、定義し直す」(87)の意味がよくわからかった。「それと同様」以降のセンスの統一の話とのつながりもわからなかった。[中山皓聖]
・『実践感覚』にある、「それと同様、センスの統一が出来上がるとしてもそれはただ、一定のタイプの図式と、それらの同じ図式の適用によって得られ、しかも図式を変形しうる解決とを身につけた精神によってしか存在せず、その精神にとってしか存在しない諸問題の間の対決によってでしかあり得ない。」(87-88)とはどういうことか。[北村晴希] 【コメント】 原語の sens には「感覚」「意味」また「方向」という意味があり、ブルデューはそれを多重的に意識している可能性はある(『実践感覚 Le sens pratique 』の「感覚」も同じ)。ただ、この文脈では「意味」と理解しておいても問題ないと思われる。
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・「同時にハビトゥスには、「暴力も技巧も使わず、議論もせずに」あらゆる「狂気」を(「それはわれわれには関わりがない」)、つまり、客観的条件と両立しないがゆえに負のサンクションを被るべく定められている振舞いをすべて締め出す傾向がある。」(88)について、具体的にはどのようなことがありうるか。[田中美衣]
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・実践とハビトゥスの関係性についての整理→「ハビトゥスは、直接の現在が外部から及ぼすさまざまな規定に対する相対的な独立を実践に附与するのである」(89)→実践は、ハビトゥスというシステムの中で外部からの独立=自律を保障されながら、さらなる生産を可能にする社会的な営みであり、その意味でハビトゥスを条件づけるという方向性も持つということだろうか。また「恒常性」とは、こうした実践とハビトゥスの相互作用的なサイクルのことなのだろうか。[西川結菜]
・過去や現在の条件が直接実践を規定するのではなく(89)、実践はハビトゥスによって規定されている(「ハビトゥスが実践・表象を産出する原理だ」と言うように)と理解しようとしたが、ハビトゥス自体が「そのものとしては忘却された」(89)ものであるがゆえに、実践はハビトゥスによって「絶対的」ではなく、「相対的な」独立、自律を与えられているという表現(89)をあえて使ったんだろうと思う。だが過去や現在の条件に対するハビトゥスの相対化においては、どの程度実践が自律しているか、独立した存在なのかはっきりしないように思えて、釈然としなかった。[高橋征吾]
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・「社会学」(95)は何を指すのか[川田寛]
・「実践」「生産」「実践生産」(89, 95etc.)の訳し分けがよく理解できなかった。[川田寛] 【コメント】「実践生産」と訳されている部分の原文は誤訳でした。"les pratiques ne se laissent déduire ni des conditions présentes [...], ni des conditions passées qui ont produit l'habitus, principe durable de leur production." 訳せば、「実践は(…)現在の条件からも演繹されないし、またハビトゥスを生産した過去の条件——そうした過去の条件[自体]の持続的な生産原理がハビトゥスである——からも演繹されない。」
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・「均質性の内にある多様性の関係」が「同じひとつの階級=集合の多用なメンバーのそれぞれ別個のハビトゥスを統一する」(実践感覚、96)とはどういうことか。 [山本大貴]
・「社会的な軌道」(97)があまり理解できなかった。個人の社会的な経験の履歴、程度の意味でとってよいのだろうか。[原菜乃葉]
【コメント】p. 96末の原文は "En fait, c'est une relation d'homologie (←ホモロジーとは変異を含めた同一性), c'est-à-dire de diversité dans l'homogénéité reflétant la diversité dans l'homogénéité caractéristique de leurs conditions sociales de production (ホモロジーとは、ハビトゥスの生産の社会的条件の同質性の内奥における多様性を反映した、同質性の中の多様性のことである)qui unit les habitus singuliers des différents membres d'une même classe (このホモロジーが同じ階級の異なるメンバーの個別的なハビトゥスを統合する): chaque système de dispositions individuel est une variante structurale des autres, où s'exprime la singularité de la position à l'intérieur de la classe et de la trajectoire. (個人の傾向性のシステムは他のシステムの構造的変異であり、それは階級と軌跡の内部における位置の個別性を表現する)"
・「個性的」スタイル、つまり、実践や作品という、同じひとつのハビトゥスの生産物すべてが担うあの特殊なマークはどこまでも、ある時代、ある階級に固有なスタイルからの偏差であるにすぎない(97)からは、Twitter上でのズレたつぶやきで個性を出そうとする似たような人々のことが思い浮かばれた。[巽篤久]
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・「情報を回避するために必要な情報というパラドクスの解決」(実践感覚、98)とは、どのようなことを指しているのか。唐突に出てきたように感じた。 [山本大貴] 【コメント】ここは謎です
・「情報を回避するために必要な情報というパラドクスの解決は、またもやハビトゥスの最もパラドクスに満ちた特性、つまりあらゆる「選択」の選択されていない原理にある。すなわち、回避の戦略のすべての本源にあるハビトゥスの知覚・評価図式は大部分、非意識的・非意志的な回避の生産物なのである。」(98)がよくわからなかった。すなわち以降はなんとなく掴めるのだが、それがすなわち以前のどの部分の換言なのかが分からない。また、「『選択』の選択されていない原理」の意味も分からなかった。 [楠田薫]
・ハビトゥスは構造の所産(87)とあるが、どれくらいの程度にだろうかと疑問に思った。決定論的にハビトゥスが構成されるわけではないはずだが、ハビトゥスが構造を再構成しハビトゥスを変化させるとしても、それもハビトゥスの限界性と多様性の中で起こるので、どの程度までかを語るのが難しいなと感じた。[巽篤久]
・「この生成は、ハビトゥスと出来事との間の、必然的でも予見不可能でもある対峠の中で、その対峠によって果されるのであって、出来事の方がハビトゥスに適切なる揺さぶりをかけられるのはただ、ハビトゥスの方が出来事を事故の偶然性から剥奪し、出来事を問題へと構成して、その解決のための諸原理そのものを出来事に適用する場合だけだ。」(88)においても、ハビトゥスを通じてハビトゥスを揺るがす形式が提示されており、その限界が気になる。[巽篤久]
・「実践感覚」の最後の部分でハビトゥスはそれまでの経験の中で蓄積されてきたものを強化する情報を好み、疑問を投げかけるような情報は回避しようとするとされている。自身がこれまで経験をしてきたことを疑問視するような情報に意図的に触れることによって自分が所属する階級のハビトゥスから脱却したハビトゥスを獲得することができるのか。それとも脱却しようとすること自体がある特定の経済、文化、社会資本によって方向づけられるものであり、その意味で階級のハビトゥスを脱却することができないのか。[北村晴希]
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・ハビトゥスが一定の制約のもと過去の実践・表現を継続しようとするシステムだという、主に(87)までの部分的理解からは、ハビトゥスと実践は、微細に変化し続ける入れ子構造的というか、例えば写真を微妙に加工して、さらにその写真のを微妙に加工して...というような感じなのかなと思った。だが、それでは1.01の365乗が38弱にまでなるというよく耳にする例えのように、微細な変化が積み重なって実践を経るたびに、もちろん変動があるとはいえ、大きく変わっていって恒常性が保証できないのではないかとも思った。これに対しては、実践の変化が同一の方向性にあるわけではないということ(写真加工が常に同じ部分を加工するわけではない)、また、そもそも特定の実践の機会は断続的である(実践を説明できるのはただ、実践を産み出した〜社会的諸条件とを関連させる時だけだ(89))ということの2つ理由が考えられると、自分としては思った。[高橋征吾]
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・ブルデューの実践と表象についての考えを芸術に適用したのは、芸術学にも大きな示唆をもたらすと思った。芸術学においてよく論じられる”いつ””どこに”芸術が生まれるのかという問い、すなわち芸術とは芸術家が意図するもののうち鑑賞者が感じられたものなのか、それとも芸術家の意図に縛られていないものなのか、という問いにおいて、(自分の解釈が正しいかはわからないが)ブルデューが提示するハビトゥスは芸術家と鑑賞者の間に一つ概念を置くことによって問いに一つ答えを見出させるのではないかと。ただ感覚的にはわからないものをわからない新しい概念を一つ作って説明づけたような印象を持ってしまう。[保科昭良]