「タイラー流の文化に関する平凡な理論家が陥った概念上の混迷」(p.5)が分かりにくかった。「文化の概念」を説明するときに、27頁も使って11個も並べ立てなければならないこと自体が「混迷」だろうか...?[川田寛]
著作の大筋とは外れるが、「マームシャ人」「ベルベル人」「ベルベル族」(p.11)の違いがよく分からなかった。軽く調べたところによると、「マームシャ人」は「ベルベル人」の自称らしいのだが、著者は違う使い方をしているのか。文脈的には、ベルベル族のなかでマームシャ人と「賊の部族」(=本書では、”ベルベル人”)があって、コーヘンが助けを求めたのは”マームシャ人”の部族長である、というような理解の仕方をしている。[川田寛]
ギアツにとって文化は解釈学的なものであり、一意的な実体ではないと感じた。その意味では、クラックホーンによる文化の定義のうち、5つめの「人びとの集団が実際に行動する様式について人類学者がつくる理論」(5)のみに人類学者が登場することが興味深かった。他の定義とことなり、この項目だけ、外部の人類学者がつくるものである。ギアツもクラックホーンも、現地の人々とその分析者である「文化メガネ」を持つ人類学者の関係性のなかで文化が生まれると考えていたのだろうか。 [中山皓聖]
(20)などで文化が公的なものというときの「公的」とはどういう意味?私的ではなく他の人と共通の理解に基づく、くらいで捉えていいのか、でもそれだと当たり前すぎるから他の含意がある?[楠田薫]
「もし民族誌が厚い記述であり、民族誌学者が厚い記述を行なっているとすれば、調査日誌の短文であれ、マリノフスキーの報告書ほどに長いモノグラフであれ、どんな例についても、決定的な問いはそれが目配せを瞼の痙攣から区別し、本当のめくばせをまねごとの目配せから区別しているかどうかというものである。」(28)このように「厚い記述」には行為を解釈することが要求されるわけだが、どれほど断定的に、またどの立場から解釈すればいいのか。(西洋的な視点から異文化を捉えることに肯定的なのか?)また、その解釈にいかにして信ぴょう性を持たせるのか。[北村晴希]
結局文化とは、その社会で共有されている、行為と意味の連関の集合、ということだろうか。[原菜乃葉]
行為の意味を説明する解釈があり、さらにその上に解釈を説明するための理論がある、という構図は、デュルケームのいう価値判断とそのメタ的な観察である価値認識を思い出した(ちょっと違うかもしれないが)。[原菜乃葉]
民族誌学者が書きしるす対象を「社会的対話」 (31)という言葉で表している点が興味深かった。羊の例は、人々の言葉だけではない様々なやりとりから構成されているためにたしかに「対話」であるが、民族誌学者が書きしるす対象となる行動の中には、そのように人間のあいだのやりとりではなく一個人の中で完結する行動もあるのではないか。それでも「対話」という言葉が選ばれたのはなぜか。[井出明日佳]
「記録の中で再び見ることのできる記事にする」(32)段階で、解釈を介在させずに書きとめるような記述をするためには、かなりの技術が必要とされそうだと感じた。[山本大貴]
ギアツの解釈という概念は、当時の人類学におけるどのような問題意識から生まれてきたのだろうか?[西川結菜]
「解釈はそういう対話が消滅してしまわないうちにその「言われたこと」を救出しようとすることであり、それが読めるようにすることである。」(35)とあるが、「救出」とは人類学者は「要するに」とか「主に」「基本的には」といった言葉によってこぼれ落ちている価値を拾っているのかなあと思った。その文化外の人が読めるように記録者が「解釈」することは必要だが、それによって生まれる実情との差異は、解釈の多様性が開かれていることで許されている(補償されている)のか。[森山倫]
「歴史は、『小さい部屋の大きな音』といわれるように」(p.35)という例えがよく掴めなかった。人類学の題材とは、ある種の対照的なものである、という述べ方をしているのだろうが、人類学こそ、きわめて小さい範囲において多くを知覚し、深い解釈を要する学問ではないか? 問題を複雑なものにしてしまったので、議論では、p.36-l.1の「展開点」、同頁l.2の「そういう」がなにを指すのかに着目しながら話し合いたい。[川田寛]
「また一つの次元ーこれは、測定して解決していくといった社会科学には大いに必要なものであるーをつけ加えることができるが、それだけのことである。熱帯の雨で耕地を流されてしまったジャワの小作人や、二十ワットの電球の光りでトルコ式長袖の刺繍をするモロッコの洋服屋を見たことによって、大衆に対する搾取を論じようとするとき、そこに一つの価値はあるが、このことによってすべてがえられる(そして倫理的に問題のある人びとを軽蔑することができる有利な地位に高められる)という観念は、叢林の中にあまりに長く滞在した人のみが考えそうな観念である。」(38)の意味がよく分からなかった。ギアツがこのような論じ方を批判するのは村落の研究になっているから?(そんな感じはしないし、むしろ広い事象につなげているからどちらかといえば村落において考えていると言えそう)中心的な地域の代表例を選んで論じているという点で村落の研究?そして、叢林に居すぎるとそういう考え方になりそうというのはどういうこと?[楠田薫]
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調査地を国家や文明の縮図として捉えることが誤りであるという主張は何となく理解できたが、調査地を「自然の実験室」と捉えることが誤りであることの理由を説明している部分(39)がよく分からなかった。文化形態の差異は対照実験の結果の差異のように、ある条件が異なった結果、差異が現れるといった単純なものではなく、条件(=ここでいうコンテクスト?)は操作可能ではないということか。[田中美衣]
「文化形態の非常な差異は、もちろん人類学的の厖大な材料だけでなく、そのもっとも根深い理論的なディレンマのもとでもある。そのディレンマとは、そういう文化の差異はどのように人類の生態学的な同一性と適合させるべきであるか」(39)について、人類学者が特殊性と脈絡性という要素を重んじるものであり、(「差異の生ずるコンテクストもその差異に応じて異なる」)自然科学ほど厳密に実験的手法をとれないことで権威がないと判断するのであれば、人間普遍の生態学的特徴といった一般的な要素と文化形態の差異を無理に結びつける必要はないのではないか。[中山皓聖]
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「(そして真によい民族誌学者ならどういう種類の羊であるかを調べるだろう)」(40)とあるが、なぜ羊の種類を調べることが真によい民族誌学者の条件となるのだろうか。それが「厚い記述」の厚さを担保するからだろうか?自分にはなぜ他の些細な情報ではなくて羊の種類の情報が必要なのか、ピンと来なかった。[巽篤久]
「この現実性は、それらの概念について、現実的、具体的に考えさせるだけでなく、いっそう重要なのだが、創造的にかつ想像的にそれらの概念によって考えることを可能にする。(40)」という部分がよく分からなかった。人類学者の思考のプロセスにおいて、「合法性、近代化、統合、葛藤…」などの概念は、思考する対象であると同時に、思考の手段にもなりうるということだろうか。[秋場千慧]
「この現実性は、…創造的かつ想像的にそれらの概念によって考えることを可能にする」(40)とはどういうことか?→ある民族誌的事実は一度、より大きな範囲の概念へと一般化され、その概念を持って別の事例も考察できるということ?[西川結菜]
民族誌的事実が「巨大な」概念に現実性を与え、あるいは概念を用いて民族誌的事実の現実性について考えるという、概念と現実性の関係性が面白いと感じた(40)。前者はわかるような気がするが、「いっそう重要」で「創造的かつ想像的に」後者を行うというのがイメージしづらかった。常にその文化の現実性に応じて、エスノグラファーは概念を自分で適用しなければならず、またその文化を理論化するために必要な概念の適用は、その文化にしかありえない適用の様相だから、創造的であると言えるのだろうと考えた。[高橋征吾]
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(36)では深遠な事柄は平凡な形態であらゆるところに備わっており、平凡な形態を書くことに利点があるとしておきながら、(52)では解釈人類学の本質的使命が深遠な問いに答えることではなく、そこで起こっていることを深く理解し、その場での平凡な問いの答えを知ってそれを知の蓄積に加えることだとしており、ギアツがどのようなスタンスでいるのかよくわからなかった。深遠な問いを象徴しうるフィールドでの平凡な事柄を書くことはできるが、あくまでフィールドで得られる理解はフィールドに特異的である、ということだろうか。[高橋征吾]
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解釈人類学の扱う対象について「苦しみのまっただなかに突入すること」(52)が求められる理由が気になった。ポジティブな象徴ではなく、ネガティブな象徴や苦しみの背後にある葛藤を見ることだけが解釈人類学に求められているのだろうか。また、「苦しみ」(ここでの苦しみの定義も気になった)が登場しない民族誌は、単に「社会学的耽美主義」としてしか評価されないものなのだろうか。[中山皓聖]
・「理解すること必要性と分析する必要性の間の緊張は必然的に大きく、本質的には取り去ることができないのである。」(42)文化の理論はあくまでも理解を助けるものだと思っていたのだがそういうわけではないのか。また、「解釈学的人類学の本質的使命は、最も深遠な問いに答えることにあるのではなく、よその人々がよその山間で羊を守る時に与える答えを知ることであり、こうして、人間が言ったことに関する参照できる記録の中にそれを含ませることにある。」とあるが、このためには「理解」だけでは不十分なのか。[北村晴希]
・「文化理論は厚い記述の与える直接の資料と切り離せないために、その内側の論理によってそれを形成する自由はむしろ限られている。それが到達しようとする一般性は、その微妙な特殊性の中から生まれてくるのであって、大がかりな抽象化に基づくものではない。」(43)のあたりはかなり抑制的に民族誌を書こうという呼びかけに見えて興味深かった。[楠田薫]
・理論構成について、抽象化し普遍的な法則を導き出すのではなく、他の事例に適用したり、発展させたりすることが可能な説明を加えるという理解で合っているか。[田中美衣]
・例えば構造主義といった概念の枠組みは、民族誌的解釈から離れた、「常識」や「空虚なもの」(44)になっていると言えないのだろうか。[山本大貴]
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・「幾つもの事例を通じて一般化することでなく、事例の中で一般化すること」とはどういうことか。[北村晴希]
・「いくつもの事象を通じて一般化する」のではなく「事象の中で一般化」=理論化すること(44)という視点は、「エスノグラファーが持ち帰ってきた民族誌に、基本的に完全な不正解などありえず、異なるフィールドで異なる理論と民族誌が生まれる」というような、自分が捉える文化人類学という学問の基底にある原理のように感じた。[高橋征吾]
・「村落において研究すること」と「事例の中で一般化すること」は、似ているようで違う気もする。前者は方法論的観点に基づいており、後者は理論構成の視点に基づいている。しかし両者の問題意識は重複しており、人類学者はフィールドの中で/フィールドにおいて、民族誌を書き、そこから理論・一般性を導き出す必要があるということだろうか。[西川結菜]
・「解釈を行なう場合の理論的枠組みは、新しい社会現象が現れても耐えられる解釈を生み出せるようなものでなければならない。」(46)という記述について、ギアツの言うようにそうした枠組みが事例それ自体の中から生まれるものであるならば、そもそもフィールドワークをしている中で起こる様々な出来事の中から何を観察し、何を事例であると捉えるのかが大事なのだろうと思った。[井出明日佳]
・「いったい何が行われているかということに関する当惑の状態から、明瞭で表面的なものの背後にーしっかりした足どりを求めてー厚い記述を開始しても、誰も素手で出発しはしない(またしてはならない)。」(46)は、文化の記号論的構造を解釈するためには、先入観を排しながらもある程度の理論的な観点を取り入れないといけないということで合っているだろうか?[巽篤久]
・pp46-47の「理論が解釈学でどのように〜となることを示唆する」があまりよく理解できなかった。それ以降の前提になっている部分だと思われるので、ちゃんと理解したい。[原菜乃葉]
・(そんなんどうでもいいとか一蹴されたら悲しいのですが、)文化人類学は人文科学と社会科学どっちだと思いますか。文科省は「人文学は人間の精神や文化を主な研究対象とする学問であり、社会科学は人間集団や社会の在り方を主な研究対象とする学問である」と定義していますが、(52)の「文化の分析を一種の社会学的耽美主義に陥らせないためには、文化の分析を、政治・経済・階層的現実や生物学的生理学的欲求について行うことにある」のあたりを読んでふと思いました。(聞いといてなんですが、私は中間だと思ってます)[森山倫]
・「完全な客観性はこういう問題については不可能である」(51)について、学問の進展の上での価値があるとして、じゃあ実生活においてその解釈は何の意味を持つのかなどとどうしても思ってしまうのですが、悩める個人に対して生き方の術の一つを提供するみたいなもの以外はどのようなものが考えられるのでしょうか。そもそも何事もいかに実生活に活かせるかという視点で物事を見ることがナンセンスなのでしょうか。[森山倫]
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・本文とは直接的な関係がないが、別の授業で「歴史は文化である」と定義づける本を読んだ。歴史とは、一定の空間で起きた出来事を個人が直接経験できる範囲を超えて把握し叙述することである。このことを想起すると、「文化は心的なものではなく公的なものである」ということがより分かりやすくなった。また、記述と説明の比重に気を配る必要があること、唯物史観のように当初抽象化が盛んに行われたが、後に覆されたことは民族誌学と歴史学の共通点ではないだろうか。[田中美衣]
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・こういった理論的な話の後にギアツがどのようなエスノグラフィーを書いたのか気になる。[巽篤久]