マリノフスキ(1884-1942):
『西太平洋の遠洋航海者』(1922)の刊行の後、1924年にLSE (London School of Economics)の人類学のポストに着任する。民族誌の方法と機能主義(functionalism)を導入する。①民族誌的事実が様々な場所で相互に関連しあっている→関連しあいながら機能している、②そうした機能の全体が人間の基本的必要(basic needs)を満たしている。
レイモンド・ファース(1901-2002)やエヴァンズ=プリチャード(1902-1973)が最初の弟子(cf. Hortens Powedermaker, Stranger and Friend: The Way of an Anthropologist, 1966)。彼自身が教えていたLSEがマリノフスキ的な機能主義の拠点となるが(→中根千枝)、ファースがいたケンブリッジ大学も機能主義の拠点となる。
マリノフスキは民族誌的方法を導入したことで広範な影響をもたらしたが、その理論は「柔軟すぎる」と見なされ、1930年代を通じて、イギリス社会人類学の中心は、より「厳密」な次のラドクリフ=ブラウンに移行していく。
(私自身の指導教員であった船曳建夫先生は、東大では中根千枝、留学したケンブリッジではマリノフスキの弟子だったエドマンド・リーチの指導を受けた。東大文化人類学は、非常に緩いが(また現在から見れば非常に遠いが)、マリノフスキ主義と関わっている。)
ラドクリフ=ブラウン(1881-1955)
1937年にオクスフォード大学の最初の社会人類学の教授となる。機能の概念を、社会的機能のみならず、個人の basic needs のレベルまで広げていたマリノフスキに対し、ラドクリフ=ブラウンは、デュルケームの影響のもとで、「社会」によってすべてを説明していく立場を取った。
つまり、社会を構成する諸部分が、一つの全体としての「社会」を成立させるため、一つの「構造」をなして機能する、という意味(『未開社会の構造と機能』)。それゆえ、こちらは「構造機能主義」(structural functionalism)と呼ばれる。
イギリスの人類学が「社会人類学」と呼ばれるのもラドクリフ=ブラウンの影響が大きい。構造機能主義は親族理論や政治組織の研究の発展に大きく貢献した。上述の通りマリノフスキの最初の弟子だったエヴァンズ=プリチャードも、1930年代のラドクリフ=ブラウンの影響を強く受け、オクスフォードで教鞭をとることになる。
(余談だが、私は大学院生のころ(1980年代)、オクスフォード大学の人類学者(Peter Riviereほか)数人と交流を持ったことがあるが、私が社会人類学に精神分析的アプローチを混ぜていくような方向性を提案したら、丁重ながら「個人心理学を人類学と接続させるのは非常に難しい」と、強いNoを返してきたのが印象的だった。)
マックス・グラックマン(1911-1975)
しかし、ラドクリフ・ブラウンの構造機能主義に従えば、すべての説明の根拠であるところの「社会」自体が動かないことになる。
第二次世界大戦の前まで、イギリスがアフリカ等に広い植民地を有していた時代は、その中に住んでいた諸民族の動きが比較的止まっていたとも考えられ、構造機能主義はそうした状況の中ではうまく機能していたが、しかし「変化」を把握できないという点に対する批判が生じてくる。
こうした方向の代表がマックス・グラックマンで、第二次世界大戦後の1949年にマンチェスター大学に人類学科を創設する。そして、このグラックマンのもとで頭角を現したのがヴィクター・ターナーだった。
ヴィクター・ターナー(1920-1983)
ターナーはある意味で、マリノフスキ、ラドクリフ=ブラウン、グラックマン、象徴人類学(後述)の良いところを吸収しつつ、さらに一歩、二歩先に議論を進めた人であるといえる。
『儀礼の過程』を含め、ファン・へネップ(ジェネップ)からインスピレーションを得ながら、まさに「過程としての社会」(変化する社会)に焦点を当てたターナーは、社会構造の研究からより広汎な(非部族社会を含めた)社会文化的現象へと焦点を広げていった(彼にとってイギリス社会人類学は息苦しく、アメリカのシカゴ大学で教鞭をとった)。
1980年代には、類似する方向を探っていた山口昌男などとも交流している。ターナーはもともと英文学の出身で人文的教養が広くあり、演劇などにも深く関わりがあった。ターナーのもとからは、パフォーマンスの人類学(R. シェクナー)なども出ており、彼の死後、ターナーの仕事を讃えつつ、Creativity/Anthropology (1993) というタイトルの本も出版されている。
1950〜70年代以降のイギリス構造主義/象徴人類学
マリノフスキの民族誌的方法とラドクリフ=ブラウンの構造機能主義の中で育っていったイギリスの社会人類学者たちは、グラックマン学派以外であっても構造機能主義の窮屈さに不満を感じていた部分があったと考えられるが、そうした中で、レヴィ=ストロースの大きな影響のもとで、イギリス独特の構造主義人類学が生まれる。
ラドクリフ=ブラウン派(オクスフォード系)の代表者としては、『汚穢と禁忌』など数々の重要な著作を書いたメアリ・ダグラス(1921-2007)。マリノフスキ派(ケンブリッジ系)ではエドマンド・リーチ(1910-1989)、ロドニー・ニーダム(1923-2006)など。ターナーはこの流れの中でも理解できる(The Forest of Symbols (1967)は有名な著作)。
イギリスの構造主義は、特定の社会におけるフィールドワークに基づいて、社会構造なども視野に入れながら展開されたのに対して、レヴィ=ストロースの構造主義はそうした枠からも自由に、より抽象的なレベルで構造を考えていた点で異なる。
イギリス構造主義のほうがずっと「着実」であり、経験主義的な意味では(民族誌的データの蓄積という意味では)、大きな蓄積をなした。逆にレヴィ=ストロースは社会・文化として捉える視点を越えていたところがあり、そこから後に、社会人類学を超える、存在論と呼ばれる動きも出てくる(デスコラ、ヴィヴェイロス・デ・カストロ)。